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突然の閃光に、駿河は驚きのあまり尻餅をついた。
光の中心には——緑色の、髭もじゃで、頭頂部が見事に禿げ上がった、手足のない浮遊物体がいた。
肌はスライムのようにぬめり、淡い緑光を放ちながら、ぷるぷると不規則に震えている。髭はまるで藻のように顔全体に絡みつき、ところどころから泡のようなものが浮かんでは消えていく。腹のあたりは妙に膨らみ、そこに顔のような凹凸が見えたかと思えば、次の瞬間には溶けるように消える。頭頂の禿げ上がった部分だけが異様にツヤツヤしており、まるで磨き上げられたメロンの表面のようだ。
下半身にあたる部分は煙のように曖昧で、動くたびに残光を残して揺らめく。
—見ているだけで、皮膚がざわつくような、不安定な生命体。
駿河は思わず口を開いた。
「なんだこの……緑色で髭もじゃで、禿げ散らかして宙に浮いた……吐き気を催す物体は」
賽銭箱の上にうんこ座りで鎮座していた私に向かって、開口一番がこれである。不敬も甚だしい。
「やぁやぁ駿河くん。お困りのようだね」
手を振って声をかけてみたが、反応は薄い。駿河は眉をひそめ、怪訝そうに私を睨みつけている。
「いやはやど〜も〜駿河くん、こんにちは〜。元気かい?元気がないねぇ〜。元気を出そうよ〜」
このときの私は、努めて明るく振る舞っていた……いや、正確に言えば、頭のネジが数本抜けていて、素でハイテンションだった。つまり演技ではなく、天然のちゃらんぽらんである。思い返すと、実に恥ずかしい。
「……誰だ、お前は」
駿河は怯えと困惑を入り混ぜた声で訊ねた。
「いや〜、駿河くんが絶望に浸っているようだったからね〜。こうして舞い降りたわけさ〜」
私は軽やかに宙を滑るようにして、彼のまわりをグルグル回った。とにかく落ち着きがない。
「だから質問に答えろって! 誰なんだよお前は!」
「♪私は〜神さ〜君が〜困ってるのを〜救うために〜舞い降りた〜名は〜なんだっけ〜忘れた〜願いを〜ひとつ〜なんでも〜叶えてやろ〜う〜♪」
駿河の周囲を円を描くように飛び回りながら、無駄に声量のある自己紹介ソングを披露する。
うざったらしさ、全開である。
駿河は「不真面目病」などとレッテルを貼られてはいるが、どちらかといえば至極まっとうな常識人である。
そんな男が、緑色の浮遊物体を前にして、そう易々と“現実”を受け入れられるはずもなかった。
彼は自分の頭がとうとう壊れてしまったのだと思い込み、体育座りの姿勢のまま顔を膝に埋めた。
「これは幻覚だ、これは幻覚だ」と呟きながら、狸寝入りを始めたのである。
私は構ってもらおうと、彼の頭を指先でツンツンと突いた。しかし駿河は、ひたすら無視を決め込み、ぴくりとも動かない。まるで現実との接触を拒絶するかのようだった。
「ねぇねぇ駿河くん、寝てるの?寝たふりしても無駄だよ〜?」
私は指でツンツン、時にペチペチ。
反応なし。
やがて立ち上がり、何事もなかったかのように立ち去ろうとする彼に、私は再び立ち塞がった。
彼は幻覚であると言い聞かせているためか、まるで障害物のように扱い、躊躇う様子もなく私に激突した。
結果は言うまでもない。盛大に尻餅をついたのである。
「いってぇ……!?だからなんなんだよ!」
駿河は、私に実体があることに戸惑いを見せた。
無理もない。私が宙に浮いている時点で、すでに物理法則から外れた存在なのだ。常識的に考えれば、手応えなどあるはずがない。幻のようにすり抜けると思い込むのも当然だろう。だが、それはあくまで霊的存在に対する人間の認識であって、神には当てはまらない。神はこの世の理を超越する。実体を持つことも、壁を通り抜けるためにその実体を捨てることも、思いのままなのである。
「お前は何者なんだよ!」
「ぼくは~誰だっけ~♪」
さて、堂々巡りのやり取りを逐一書き記しても無駄なので、ここは割愛する。
要するに、駿河は私が何者なのかを知りたがり、私はそれに対して歌など交えて答えた――というだけの話である。もっとも、その答えがあまりに漠然としていたため、駿河は次第に苛立ちを募らせていった。
押し問答の末、ようやく彼もおおよその事情を理解したらしく、このくだらないやり取りに終止符を打とうとした。
「つまり、お前は、自分が何者なのか、なんの目的で俺の前に現れたのか、その全部が曖昧ってことだな」
……まさしくその通りだった。
私は俯きながら、人差し指を合わせたり離したりして、大袈裟に落ち込んでいる素振りを見せた。実際、図星でもあったのだ。先に述べた通り、私の頭のネジは一本抜けており、まともな思考回路など働いていなかったのである。
駿河は考えあぐねた。目的がわからない。会話もまともに通じない。これでは打つ手がない。どうしようもない現状に、苛立ちだけが募っていった。
「仕事中なんだ。邪魔をしないでくれ」
そう吐き捨てるように言うと、駿河は再び歩き出した。どうやら交番に戻るつもりらしい。
私はというと、グルグルと彼の周囲を回りながら纏わりついた。
この行為に、深い意味など一切ない。神としての“運命”がそうさせているだけで、意志があったのかすら怪しい。人間でいえば、生理現象のようなものだろう。
平静を装っている駿河だが、頭の中はパニックであった。
想像してみてほしい。目の前を、宙に浮く緑色の髭もじゃが、ヘンテコな歌を歌いながら付きまとってくるのである。たまったものではない。
「そもそもお前は、俺以外の人にも見えているのか?」
「見えてないさー。でも見せようと思えば見せられる。私は神だからねー、なんでもありさー。疑うんだったら、一度試してみようかー?周囲の人から“化け物ー!”って、大量の石ころが飛んでくると思うけど。ププッ。そのとき私は実体を消すから、投げ込まれた石ころはぜーんぶ君に当たるだろうね。ププッ」
「……その馬鹿っぽい喋り方は、どうにかならんのか?」
——これが、駿河光太郎と私との、最悪の初対面であった。
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交番に戻った駿河は、空いているデスクに腰を下ろし、なに食わぬ顔で書類作成のふりを始めた。
湯川がいる手前、堂々とサボるわけにもいかないのだ。
湯川は、駿河のボロボロの格好には一切触れず、黙々と始末書の作成に没頭している。その表情は真剣そのもの——そこには微塵の邪念も感じられない。
駿河は内心で呆れ果てていた。
(いったい始末書に何時間かけるつもりなんだ。修行か何かか?)
そんな彼をよそに、私はといえば、構ってもらえず暇を持て余していた。
そこで湯川の髪を弄ぶことにした。
前髪を持ち上げてオールバックに仕立てたり、バリカンを空中に生み出して丸刈りにしたり、ついでに剃り込みまで入れてみる。
しかし、湯川は一切反応しない。微動だにせず、眉一つ動かさない。まるで仏像のようである。
面白くなってきた私は、彼の眼鏡を外し、レンズに油性ペンで炎のマークを描いてから戻してやった。視界は地獄絵図のようになっているはずなのに、それでも彼はペンを走らせ続ける。
もはや常軌を逸したポーカーフェイスである。
次に私は、湯川が必死に記入している始末書を覗き込み、朗々と読み上げた。
「始末書。私は六月十三日、税金泥棒の不祥事を起こしてしまいました。納税者、また関係する皆々様にはこの度の私の不祥事により大変ご不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳なく、謹んでお詫び申し上げます。また、今回の不祥事は九百八十六回連続となり、度重なる失態を繰り返してしまったことを深く反省するとともに、今後二度とこのようなことがないように……」
「くっ……」
思わず駿河の口から失笑が漏れた。
その瞬間、湯川がギロリと顔を上げ、鋭い眼光を向けた。
奇しくも、レンズに描かれた炎のマークはその怒りを見事に代弁していた。どうやら彼は、自身がいま間抜けな姿になっている自覚がまったくないらしい。
居たたまれなくなった駿河は、湯川に軽く頭を下げて交番を出た。外はすでに夕暮れ。誰もいないのを確認してから、彼は私に向き直り、低い声で言った。
「お前、余計なことをするな」
彼の真意は理解不能だった。
私としては、自らの役割を全うしているにすぎないのだ。アメリカン映画の真似をして両手を広げ、わざとらしく首を傾げてみせると、駿河の眉間に深い皺が寄った。
「お前はいったい、なにがしたいんだよ」
「私はガラクタを生み出しているだけだよー」
「……傍迷惑だ!」
その瞬間から、私は彼に「ガラクタ」と呼ばれるようになった。
——つまり、私の司る概念が、この世界において確定した瞬間でもある。もっとも、厳密に言えば、その未来を見越して、すでに“ガラクタ”として存在していたのだが。
駿河はふと、無意識に交番の壁を見やった。そこには【税金泥棒】の落書きがある。「ガラクタ」という単語に反応したのだろう。
「あらま、なんと美しき落書き」
もちろん、私にデリカシーなどない。
駿河の周囲を飛び回りながら、“美”をテーマにしたどうしようもなく下手な歌を響かせた。
「どこがだ!あんなの、ただのガラクタだ!」
吐き捨てるように駿河は言った。その目はどこか虚ろである。
私はまたも首を傾げた。
ガラクタとは——使い道や値うちのなくなった雑多な品物や道具類(大辞泉より引用)を指す言葉である。
その定義に照らせば、人々の鬱憤を晴らす象徴となり、一定の賛同を得ているこの落書きは、ガラクタの範疇には入らない。
「あれはガラクタではない。ガラクタとは、こういうものだ」
私は看板の前に立ち、手をパッと広げて神の念を送った。
瞬間、落書きは光に包まれ、一瞬にして消え去った。
「ほら、これこそがガラクタさ」
したり顔で言うと、駿河は絶句した。
どうして、落書きを消すことがガラクタになるのか——疑問に思う方もいるだろう。
少し補足しておこう。
例えば、鶴に折られた折り紙があったとする。人によってはそれを飾り、子どもに与えれば歓喜の声を上げるだろう。だが、その折り紙を一度広げてみたらどうだろう?そこにあるのは、もはや「鶴」ではなく、シワだらけの紙屑。美しかった形は失われ、価値の象徴はただのゴミと化す。
ガラクタとは——そういうことだ。価値とは人が与える幻想にすぎず、それが剥がれ落ちた瞬間に、すべては“本来の姿”へと戻るのだ。
「迷惑だったかな? じゃあ戻して――」
「いや、いい……」
駿河は超常現象を前に、完全に言葉を失っていた。
——たしかに、ついさっきまで確かにあったはずの油性落書きが、一瞬で消えたのだ。
どうして? なぜ?彼は懸命に理屈を探そうとした。手品か、錯覚か。
だが、それは根本的に間違っている。私は神である。種も仕掛けもない——ただの超常現象である。
動揺を隠せぬまま、駿河は交番に戻った。
仕事はまったく手につかなかったが、もとより大した仕事ではない。
社会的にも、特に支障はなかった。




