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吠えろ!ガラクタ~塵芥戦術~  作者: 堀尾 朗
第10章「駿河の過去」
41/42

—5—

 改札を抜け、夜の街へ足を踏み出す。上野の街は相変わらず閑散としていた。

広い駅前広場には人影もまばらで、営業を終えた店のシャッターが並び、街灯の光だけが白く路面を照らしている。

時折、遠くを走る車の音が聞こえるくらいで、街はどこか取り残されたような静けさに包まれていた。

だが、不思議とその静けさが嫌ではなかった。むしろ今の駿河には、穏やかな夜に感じられる。胸の奥には、今日一日で手に入れたものの温もりが、まだ静かに残っていた。


かつて彼には、居場所が一つもなかった。

帰る場所もなく、話す相手もなく、ただ時間だけが過ぎていく日々だった。

だが今は違う。

居酒屋ゆうちゃんという居場所がある。甲斐や和奏をはじめとする飲み仲間がいる。そして今日、絶交していた旧友とも再び友情を分かち合うことができた。

それがどれほど幸せなことか、胸の奥がじんわりと温かくなる。

多くは望まない。

これ以上を望むのは、強欲が過ぎて、むしろ罰当たりだ。

この生活が続いてくれれば、それでいい。

せめて、このささやかな日々だけは守りたい。

それが駿河の、ささやかな願いだった。


居酒屋ゆうちゃんへ向かう道を歩きながら、駿河はふと違和感を覚えた。

いつもより街が騒がしい。

人のざわめきが妙に大きく、空気がざらついているように感じる。通りへ入ると、チカチカと目障りな赤い光が視界に飛び込んできた。

赤色灯だ。

その光が、通り全体を血のような赤に染めている。

嫌な予感が頭を掠めた。

なんだろうか。この胸のざわめきは。

鼓動が、わずかに速くなる。

通りの奥へ進むにつれて、人の数が増えていく。

道の端には野次馬たちが固まり、互いに何かを囁き合っていた。

―――そして、居酒屋ゆうちゃんの前には人だかりができていた。


ざわつきの中心がどこなのか、駿河にはすぐに分かった。

耳に飛び込んできたのは、轟くような水の音だった。まるで洪水のように、ホースから放たれた水が地面を叩きつけている。

その先で——

古びた建物が、メラメラと燃えさかる炎に包まれていた。

黒煙が空へ立ち昇り、夜空を焦がしている。

炎は窓から噴き出し、壁を舐め、屋根の端を赤く照らしていた。

今にも崩れ落ちそうなほど、激しく燃えている。

「……どういうことだよ」

青ざめた甲斐の声。

続いて、和奏の悲鳴が上がった。

「なんなんだよこれ!」

そこにあったはずのものが、そこにはなかった。

居酒屋ゆうちゃん——

あの住居兼店舗の古い建物が、火災に包まれていた。


駿河の膝から力が抜けた。

その場に崩れ落ち、地面に手をつく。

また、思い出が消えていく。

黄ばんだ壁。

油の匂いが染みついた店内。

やけに明るい蛍光灯の天井。

くだらない話で夜通し笑い転げた日々。

あの場所が、全部詰まっていた。

失いたくなかった。

信じたくなかった。

炎は容赦なく屋根を飲み込み、木材が爆ぜる音が響く。

「んあー……あー……」

言葉にならない声が喉から漏れる。

頭の中が真っ白だった。

思考は霧のように消え、なにも考えられない。

ただ、目の前で燃えていく光景を、呆然と見つめることしかできなかった。


炎に包まれた建物。黒煙を吐き出しながら、屋根がきしみ、柱が軋む。

次の瞬間、ガシャンと大きな音を立てて窓ガラスが砕け散った。

消防車の赤色灯が、夜の通りを断続的に照らす。チカチカと点滅する光が、炎の赤と混ざり合い、通り全体を不気味な色に染めていた。

ホースの先から放たれた水が、轟音を立てて炎へ叩きつけられる。

勢いよく噴き出す水が地面を叩き、路面には水たまりが広がっていく。


周囲では野次馬たちがざわめいていた。

「うわ、すげえ火だな」

「中に人いないよな?」

「なんの建物だったんだ?」

様々な声が飛び交っている。

だが——

それらの雑音は、駿河の耳には届いていなかった。

まるで厚い水の膜の中にいるように、すべての音が遠く、ぼやけて聞こえる。

現実を拒絶した意識の奥で、世界は静まり返っていた。

粛然とした静寂の中で、ただ一点だけ、声がはっきりと耳に届いた。


「ふん、自業自得だ。これに懲りて——」

その瞬間だった。

駿河の顔がゆっくりと上がる。

俯いていた視線が、ゆらりと持ち上がり、群衆の中の一人を捉えた。

鋭く、ぎらりと光る眼。

次の瞬間、駿河は立ち上がっていた。

地面を蹴り、一点目掛けて猛然と駆け出す。

野次馬の群れを、肩で押しのけるように突き進む。

ぶつかった人間がよろめき、怒鳴り声が背後から上がるが、そんなものは耳に入らない。

ただ、あの男だけを見据えていた。

視界が狭まる。

周囲の景色はぼやけ、標的の姿だけが異様に鮮明に浮かび上がっている。

駿河の目は血走っていた。

理性はもう残っていない。

「てめぇら、なにかしやがったな!!」

喉が裂けるような声で怒鳴る。

確証などなかった。

だが、その卑屈で、どこか満足げな横顔を見た瞬間、胸の奥で何かが確信に変わっていた。

「うわぁぁぁぁー!!」

叫びながら、一気に距離を詰める。

高根が駿河の存在に気付いたときには、もう遅かった。

拳が届く距離まで迫っている。

駿河は、大きく振りかぶった拳を、全身の力を込めて振り下ろした。

鈍い音とともに、高根の頬を打ち抜く——

……はずだった。


しかし、駿河の拳は空を切った。

勢い余って身体が前へ流れる。

咄嗟に踏みとどまり、体勢を立て直す。すぐに次の一撃を叩き込もうとした。

だが——

相手がいない。

「……?」

駿河は顔を上げた。

さっきまで目の前にいたはずの高根の姿が、どこにもなかった。

キョロキョロと辺りを見回す。

野次馬の顔。

消防隊員。

炎に照らされた通り。

だが、高根の姿だけが消えていた。


高根と一緒にいた男は、情けない悲鳴を上げて後ずさっている。

「ひっ……!」

男はそのまま背を向け、逃げ出そうとする。だが、駿河にとって小物は眼中になかった。

「どこだ!」

駿河は叫ぶ。

「どこ行きやがった!!」

血眼になって周囲を探し回る。

だが、さっきまでそこにいたはずの高根の姿は、影も形もなかった。

突然暴れ出した男を前に、野次馬たちのざわめきはさらに大きくなる。

「なんだあいつ……」

「暴れてるぞ……」

「誰か止めろよ」

甲斐も和奏も、その光景を遠くから見ているしかなかった。

あまりにも突然の出来事に、二人は完全に状況を呑み込めず、ただ立ち尽くしていた。


「クソ! どこに行きやがった!」

駿河は歯軋りを立てながら、喉を裂くような雄叫びを上げた。さっきまで目の前にいたはずの高根は、まるで煙のように姿を消していた。

殴りつけるはずだった拳は空を切り、ぶつける相手を失った怒りだけが、胸の奥で渦巻いている。

行き場を失ったどす黒い感情が、身体の中で膨れ上がっていく。

駿河は力なく膝をついた。

次の瞬間、握り締めた拳を思いきり地面へ叩きつける。

鈍い音が響いた。

アスファルトに拳が当たり、骨に嫌な衝撃が走る。だが痛みなど感じなかった。

「クソが……!」

荒い息を吐きながら、駿河はもう一度拳を叩きつけた。

拳の皮が擦り切れ、わずかに血が滲む。それでも止まらない。

「許さねぇ……」

低く、絞り出すような声だった。

「彼奴等……許さねぇ……」

やがて、怒りは形を変え始めた。

ただの激情ではない。

もっと粘り気のある、暗く重たいもの。

胸の奥深くに沈み込み、静かに燃え続ける感情。

「彼奴等の思想概念を……徹底的に根絶やしにしてやる……」

その言葉は、誰に聞かせるでもなく、地面に落ちるように吐き出された。

駿河の心の奥底に、確かな怨恨が宿った。


——その様子を、私は少し離れた場所から見ていた。

高根を遠くへ飛ばしたのは、もちろん私の仕業である。あの場で暴力事件が起きれば、事態は最悪の方向へ転がる。そう予見しての判断だった。

私は群衆の頭上を、静かに漂いながら近づいていく。

ふわりと空気を滑るように移動し、いつの間にか駿河のすぐ近くまで寄っていた。

だが彼は、まったく気配を察していない。

彼の視界には、怒りと憎しみしか存在していなかった。私は彼の背後に静かに浮かび、動きを止める。

そして、声を掛けた。

「駿河くん」

その声に、駿河の身体がぴくりと震えた。

ゆっくりと顔を上げる。

怒りと憎しみでぐちゃぐちゃになった表情だった。

血走った目。歯を食いしばった口元。涙なのか汗なのか分からないものが、頬を伝っている。

「……ガラクタか?」

駿河はかすれた声で呟いた。

この時、私のいつものチャランポランな雰囲気は完全に消え失せていた。

理由は単純だ。

二人の信者が、私についたからである。

信仰とは不思議なもので、信者が増えれば神格も安定する。

だが、その原理をここで説明する必要はないだろう。

ともあれ、駿河は私の落ち着いた物腰に、わずかに戸惑っている様子だった。

私は彼を見下ろし、静かに問いかける。

「憎いか?」

駿河は一瞬だけ目を伏せた。

そして、次の瞬間、大きく首を縦に振った。

私は小さく頷く。

「そうか」

そして、ゆっくりと続けた。

「ならば——神の力を授けよう」

駿河の目がわずかに見開かれる。

「万能なものではない。ただ一つ」

私は静かに告げる。

「ガラクタを生み出す力のみを授ける」

駿河は黙って私を見つめていた。怒りの炎が、まだその瞳の奥で揺れている。

私はさらに言葉を続けた。

「ガラクタとは、所詮は人の主観による産物に過ぎない」

夜風が静かに吹き抜ける。

遠くで消防車のサイレンが鳴っていた。

「この意味はいずれ分かるだろう」

私はそっと駿河の肩に手を置いた。

その瞬間、目に見えない波のようなものが、静かに流れ込んでいく。

神の念。

それは温かくもあり、冷たくもあり、形のない力だった。

「有効に使うが良い」

それだけ言うと、私は手を離した。

次の瞬間、私の姿は夜の空気の中に溶けるように消えていた。


駿河はその場に座り込んだまま、しばらく動かなかった。

そして、ゆっくりと顔を上げる。

燃え残った煙が夜空へと昇っている。

駿河はただ、呆然と天を仰いだ。

お読みいただきありがとうございます。

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