—5—
改札を抜け、夜の街へ足を踏み出す。上野の街は相変わらず閑散としていた。
広い駅前広場には人影もまばらで、営業を終えた店のシャッターが並び、街灯の光だけが白く路面を照らしている。
時折、遠くを走る車の音が聞こえるくらいで、街はどこか取り残されたような静けさに包まれていた。
だが、不思議とその静けさが嫌ではなかった。むしろ今の駿河には、穏やかな夜に感じられる。胸の奥には、今日一日で手に入れたものの温もりが、まだ静かに残っていた。
かつて彼には、居場所が一つもなかった。
帰る場所もなく、話す相手もなく、ただ時間だけが過ぎていく日々だった。
だが今は違う。
居酒屋ゆうちゃんという居場所がある。甲斐や和奏をはじめとする飲み仲間がいる。そして今日、絶交していた旧友とも再び友情を分かち合うことができた。
それがどれほど幸せなことか、胸の奥がじんわりと温かくなる。
多くは望まない。
これ以上を望むのは、強欲が過ぎて、むしろ罰当たりだ。
この生活が続いてくれれば、それでいい。
せめて、このささやかな日々だけは守りたい。
それが駿河の、ささやかな願いだった。
居酒屋ゆうちゃんへ向かう道を歩きながら、駿河はふと違和感を覚えた。
いつもより街が騒がしい。
人のざわめきが妙に大きく、空気がざらついているように感じる。通りへ入ると、チカチカと目障りな赤い光が視界に飛び込んできた。
赤色灯だ。
その光が、通り全体を血のような赤に染めている。
嫌な予感が頭を掠めた。
なんだろうか。この胸のざわめきは。
鼓動が、わずかに速くなる。
通りの奥へ進むにつれて、人の数が増えていく。
道の端には野次馬たちが固まり、互いに何かを囁き合っていた。
―――そして、居酒屋ゆうちゃんの前には人だかりができていた。
ざわつきの中心がどこなのか、駿河にはすぐに分かった。
耳に飛び込んできたのは、轟くような水の音だった。まるで洪水のように、ホースから放たれた水が地面を叩きつけている。
その先で——
古びた建物が、メラメラと燃えさかる炎に包まれていた。
黒煙が空へ立ち昇り、夜空を焦がしている。
炎は窓から噴き出し、壁を舐め、屋根の端を赤く照らしていた。
今にも崩れ落ちそうなほど、激しく燃えている。
「……どういうことだよ」
青ざめた甲斐の声。
続いて、和奏の悲鳴が上がった。
「なんなんだよこれ!」
そこにあったはずのものが、そこにはなかった。
居酒屋ゆうちゃん——
あの住居兼店舗の古い建物が、火災に包まれていた。
駿河の膝から力が抜けた。
その場に崩れ落ち、地面に手をつく。
また、思い出が消えていく。
黄ばんだ壁。
油の匂いが染みついた店内。
やけに明るい蛍光灯の天井。
くだらない話で夜通し笑い転げた日々。
あの場所が、全部詰まっていた。
失いたくなかった。
信じたくなかった。
炎は容赦なく屋根を飲み込み、木材が爆ぜる音が響く。
「んあー……あー……」
言葉にならない声が喉から漏れる。
頭の中が真っ白だった。
思考は霧のように消え、なにも考えられない。
ただ、目の前で燃えていく光景を、呆然と見つめることしかできなかった。
炎に包まれた建物。黒煙を吐き出しながら、屋根がきしみ、柱が軋む。
次の瞬間、ガシャンと大きな音を立てて窓ガラスが砕け散った。
消防車の赤色灯が、夜の通りを断続的に照らす。チカチカと点滅する光が、炎の赤と混ざり合い、通り全体を不気味な色に染めていた。
ホースの先から放たれた水が、轟音を立てて炎へ叩きつけられる。
勢いよく噴き出す水が地面を叩き、路面には水たまりが広がっていく。
周囲では野次馬たちがざわめいていた。
「うわ、すげえ火だな」
「中に人いないよな?」
「なんの建物だったんだ?」
様々な声が飛び交っている。
だが——
それらの雑音は、駿河の耳には届いていなかった。
まるで厚い水の膜の中にいるように、すべての音が遠く、ぼやけて聞こえる。
現実を拒絶した意識の奥で、世界は静まり返っていた。
粛然とした静寂の中で、ただ一点だけ、声がはっきりと耳に届いた。
「ふん、自業自得だ。これに懲りて——」
その瞬間だった。
駿河の顔がゆっくりと上がる。
俯いていた視線が、ゆらりと持ち上がり、群衆の中の一人を捉えた。
鋭く、ぎらりと光る眼。
次の瞬間、駿河は立ち上がっていた。
地面を蹴り、一点目掛けて猛然と駆け出す。
野次馬の群れを、肩で押しのけるように突き進む。
ぶつかった人間がよろめき、怒鳴り声が背後から上がるが、そんなものは耳に入らない。
ただ、あの男だけを見据えていた。
視界が狭まる。
周囲の景色はぼやけ、標的の姿だけが異様に鮮明に浮かび上がっている。
駿河の目は血走っていた。
理性はもう残っていない。
「てめぇら、なにかしやがったな!!」
喉が裂けるような声で怒鳴る。
確証などなかった。
だが、その卑屈で、どこか満足げな横顔を見た瞬間、胸の奥で何かが確信に変わっていた。
「うわぁぁぁぁー!!」
叫びながら、一気に距離を詰める。
高根が駿河の存在に気付いたときには、もう遅かった。
拳が届く距離まで迫っている。
駿河は、大きく振りかぶった拳を、全身の力を込めて振り下ろした。
鈍い音とともに、高根の頬を打ち抜く——
……はずだった。
しかし、駿河の拳は空を切った。
勢い余って身体が前へ流れる。
咄嗟に踏みとどまり、体勢を立て直す。すぐに次の一撃を叩き込もうとした。
だが——
相手がいない。
「……?」
駿河は顔を上げた。
さっきまで目の前にいたはずの高根の姿が、どこにもなかった。
キョロキョロと辺りを見回す。
野次馬の顔。
消防隊員。
炎に照らされた通り。
だが、高根の姿だけが消えていた。
高根と一緒にいた男は、情けない悲鳴を上げて後ずさっている。
「ひっ……!」
男はそのまま背を向け、逃げ出そうとする。だが、駿河にとって小物は眼中になかった。
「どこだ!」
駿河は叫ぶ。
「どこ行きやがった!!」
血眼になって周囲を探し回る。
だが、さっきまでそこにいたはずの高根の姿は、影も形もなかった。
突然暴れ出した男を前に、野次馬たちのざわめきはさらに大きくなる。
「なんだあいつ……」
「暴れてるぞ……」
「誰か止めろよ」
甲斐も和奏も、その光景を遠くから見ているしかなかった。
あまりにも突然の出来事に、二人は完全に状況を呑み込めず、ただ立ち尽くしていた。
「クソ! どこに行きやがった!」
駿河は歯軋りを立てながら、喉を裂くような雄叫びを上げた。さっきまで目の前にいたはずの高根は、まるで煙のように姿を消していた。
殴りつけるはずだった拳は空を切り、ぶつける相手を失った怒りだけが、胸の奥で渦巻いている。
行き場を失ったどす黒い感情が、身体の中で膨れ上がっていく。
駿河は力なく膝をついた。
次の瞬間、握り締めた拳を思いきり地面へ叩きつける。
鈍い音が響いた。
アスファルトに拳が当たり、骨に嫌な衝撃が走る。だが痛みなど感じなかった。
「クソが……!」
荒い息を吐きながら、駿河はもう一度拳を叩きつけた。
拳の皮が擦り切れ、わずかに血が滲む。それでも止まらない。
「許さねぇ……」
低く、絞り出すような声だった。
「彼奴等……許さねぇ……」
やがて、怒りは形を変え始めた。
ただの激情ではない。
もっと粘り気のある、暗く重たいもの。
胸の奥深くに沈み込み、静かに燃え続ける感情。
「彼奴等の思想概念を……徹底的に根絶やしにしてやる……」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、地面に落ちるように吐き出された。
駿河の心の奥底に、確かな怨恨が宿った。
——その様子を、私は少し離れた場所から見ていた。
高根を遠くへ飛ばしたのは、もちろん私の仕業である。あの場で暴力事件が起きれば、事態は最悪の方向へ転がる。そう予見しての判断だった。
私は群衆の頭上を、静かに漂いながら近づいていく。
ふわりと空気を滑るように移動し、いつの間にか駿河のすぐ近くまで寄っていた。
だが彼は、まったく気配を察していない。
彼の視界には、怒りと憎しみしか存在していなかった。私は彼の背後に静かに浮かび、動きを止める。
そして、声を掛けた。
「駿河くん」
その声に、駿河の身体がぴくりと震えた。
ゆっくりと顔を上げる。
怒りと憎しみでぐちゃぐちゃになった表情だった。
血走った目。歯を食いしばった口元。涙なのか汗なのか分からないものが、頬を伝っている。
「……ガラクタか?」
駿河はかすれた声で呟いた。
この時、私のいつものチャランポランな雰囲気は完全に消え失せていた。
理由は単純だ。
二人の信者が、私についたからである。
信仰とは不思議なもので、信者が増えれば神格も安定する。
だが、その原理をここで説明する必要はないだろう。
ともあれ、駿河は私の落ち着いた物腰に、わずかに戸惑っている様子だった。
私は彼を見下ろし、静かに問いかける。
「憎いか?」
駿河は一瞬だけ目を伏せた。
そして、次の瞬間、大きく首を縦に振った。
私は小さく頷く。
「そうか」
そして、ゆっくりと続けた。
「ならば——神の力を授けよう」
駿河の目がわずかに見開かれる。
「万能なものではない。ただ一つ」
私は静かに告げる。
「ガラクタを生み出す力のみを授ける」
駿河は黙って私を見つめていた。怒りの炎が、まだその瞳の奥で揺れている。
私はさらに言葉を続けた。
「ガラクタとは、所詮は人の主観による産物に過ぎない」
夜風が静かに吹き抜ける。
遠くで消防車のサイレンが鳴っていた。
「この意味はいずれ分かるだろう」
私はそっと駿河の肩に手を置いた。
その瞬間、目に見えない波のようなものが、静かに流れ込んでいく。
神の念。
それは温かくもあり、冷たくもあり、形のない力だった。
「有効に使うが良い」
それだけ言うと、私は手を離した。
次の瞬間、私の姿は夜の空気の中に溶けるように消えていた。
駿河はその場に座り込んだまま、しばらく動かなかった。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
燃え残った煙が夜空へと昇っている。
駿河はただ、呆然と天を仰いだ。
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