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吠えろ!ガラクタ~塵芥戦術~  作者: 堀尾 朗
第10章「駿河の過去」
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—4—

 刹那、距離を一気に詰めてきた河村の身体を、駿河は身をひねって華麗にかわした。そして山沿いをひたすら走り出す。

その先にあるものに思い至り、駿河は一瞬だけ足を止めかけた。

——引き返すべきか。

だが、背後から迫る足音がそれを許さない。振り返ると、河村の影がすぐそこまで迫っていた。

引き返そうと考えたが、すでに手遅れだった。後方は河村に塞がれている。左右は急斜面。崩れやすい土と木の根が絡み合い、人がまともに登れるような場所ではない。

下に降りようとしても、落ち葉に覆われた斜面は滑りやすく、足を踏み外せばそのまま転げ落ちる。

完全に地形に挟まれていた。

息が荒くなる。背中に嫌な汗が滲んだ。

——前しかない。

駿河は歯を食いしばり、山肌に沿ってさらに走った。枝が顔に当たり、足元の石が転がる。落ち葉を踏みしめるたび、乾いた音が山に響く。

背後では河村の足音が離れない。むしろ、じわじわと距離を詰めてきている。

心臓が激しく打ち、呼吸が乱れる。それでも駿河は止まらなかった。

やがて、木々が途切れた。

視界がぱっと開ける。


そこは、かつて駿河たちが秘密基地として使っていた、浅い洞窟のある場所だった。

驚くべきことに、そこには九年前、駿河が再建した秘密基地がそのまま残っていた。

テーブル。漫画や雑誌を詰め込んだ棚。座椅子などの雑多な家具。落ち葉と土埃こそ被っているものの、紛れもなく秘密基地の形を保っている。

懐かしさが胸に込み上げる。

しかし同時に、背後から迫る河村の反応を思い、駿河は身構えた。

なにしろ、かつてこの秘密基地を破壊した張本人なのだ。

この場所の存在を知られれば、いずれまた解体されることは目に見えている。

——自分を犠牲にしてでも、この場所だけは守らなければならない。

そう考え、身を翻そうとした。しかし、それも手遅れだった。

河村は、思いのほか近くまで迫っていたのだ。

万事休す。

河村が駿河に飛びつき、二人はその場に倒れ込む。

駿河は必死に暴れ、河村はその動きを封じようとする。二人はしばらく激しく揉み合った。

だがそのとき、河村がふと動きを止めた。

その一瞬の隙を逃さず、駿河は思い切り蹴り飛ばす。すぐさま立ち上がり、距離を取って相手の出方を窺う体勢を取った。

河村は尻餅をついたまま、動きを止めている。

その視線の先には——

秘密基地があった。


——ああ、終わった。

逃げ場を失った現実を悟り、駿河は胸の奥が冷たく沈んでいくのを感じた。だが、絶望に苛まれる駿河をよそに、河村は予想外の反応を見せた。

「……秘密基地……」

それは怒りでも驚きでもなかった。

どこか遠い記憶に触れたような、懐かしさに綻ぶ声だった。

駿河は警戒を解かぬまま、河村の様子を注視する。

河村は呆然と立ち尽くし、洞窟の奥に広がる秘密基地を見つめていた。

落ち葉と土埃に覆われたテーブル。漫画や雑誌を詰め込んだ棚。くたびれた座椅子。

その一つ一つを確かめるように視線が彷徨う。

やがて、河村の口元が小さく震えだした。

「う……」

喉の奥から、押し殺したような声が漏れる。

次の瞬間、頬を一筋の雫が伝った。

「うぅ……うぅ……」

河村は両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。肩が小刻みに震えている。

つい先ほどまで、怒り以外の感情を失ったかのようだった男が、まるで堰を切ったように感情を取り戻していた。

「……慎吾?」

駿河は慎重に声を掛けた。

河村は顔を伏せたまま、かすれた声で呟く。

「……ごめん」

泣き顔を見られたくないのか、河村は頑なに顔を上げようとしなかった。

駿河にも、なぜこんなことになったのかは分からない。だが、直感だけははっきりしていた。


——戻った。昔の河村に。

そう確信した瞬間、駿河は河村の顔をもう一度まじまじと見つめた。

河村は俯いたまま、肩を震わせていた。だが、さっきまでの血走った目つきは、もうどこにもなかった。代わりに浮かんでいたのは、ひどく戸惑ったような表情だった。

眉は力なく下がり、唇はわずかに震えている。まるで、自分の中にあったはずの感情を思い出そうとしているかのようだった。

河村はゆっくりと顔を上げた。

その目は赤く充血していたが、先ほどまでの狂気は消えていた。

代わりに、懐かしい場所を前にした子どものような、頼りない光が宿っている。

視線は秘密基地のあちこちをさまよった。

テーブル。棚。雑誌。座椅子。

一つ一つを確かめるように見つめ、そのたびに表情がわずかに揺れる。

やがて河村の口元が、かすかに歪んだ。

それは笑おうとしているのか、泣こうとしているのか、自分でも分からないような顔だった。

次の瞬間、ぽたりと涙が落ちた。

河村は慌てて顔を背け、袖で乱暴に目元を拭う。だが涙は止まらず、次々と頬を伝って落ちていった。

「……っ」

喉の奥から、言葉にならない声が漏れる。

まるで長い間押し込められていた感情が、一気に溢れ出しているようだった。駿河はその姿を見つめながら、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。

——戻ったのだ。昔の河村に。

駿河はそっと秘密基地を見渡し、ぽつりと呟いた。

「懐かしいな」

「ああ……」

河村は鼻を啜りながら、小さく頷いた。

しばらく沈黙が流れる。やがて駿河は、ぽつりぽつりと話し始めた。

「なあ……覚えてるか?」

河村は顔を伏せたまま、静かに耳を傾けている。

「このテーブルさ。四人で小遣い持ち寄って買ったんだよな。あのとき、河村が“絶対に秘密基地には机が必要だ”って言い張ってさ。それと同じのが見つかってさ。持ってきたんだ」

河村の肩がわずかに揺れた。

「漫画もさ……家からこっそり持ってきただろ。そしたら雨降ってきてさ。慌てて運んだけど、結局びしょびしょになってさ」

河村の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。

「あと覚えてるか?公園で拾った、あの……変な本」

「……ああ……」

河村が、鼻をすすりながら笑う。

「四人でさ、真剣な顔して見てたよな。なんかもう……すげえ研究してるみたいな顔して」

「……してたな……」

河村は肩を震わせながら笑った。

「あと、朝まで語った日もあったよな。将来なにになるとかさ。世界一のゲーム会社作るとか……好きな子の話とか」

「……言ってたな……」

秘密基地の中に、懐かしい空気が静かに戻ってくる。

かつてここで過ごした時間が、ゆっくりと二人の間に蘇っていた。

河村は鼻を啜りながら、時に懐かしそうに、時に小さく笑いながら、駿河の話を聞いていた。


河村の涙が引いたのを確認すると、駿河は軽く息を吐いた。

「そろそろ下に下りようか」

「ああ」

二人は肩を並べ、山を下り始めた。

麓では、甲斐と和奏が落ち着かない様子で待っていた。

甲斐は木の枝を刀に見立て、中二病全開の技名を叫びながら素振りを繰り返している。

一方の和奏は登山口の前で、服が汚れることばかり気にして、入ったり出たりを落ち着きなく繰り返していた。

そんな役に立たない二人は、肩を組んで下山してくる駿河と河村の姿を見つけると、あんぐりと口を開け、間の抜けた顔で出迎えた。

「あの……この人、大丈夫なんですか?」

和奏が遠慮なく河村を指差しながら訊ねる。

ついさっきまで鬼の形相で追いかけてきた男なのだから、不安になる気持ちは分からなくもない。しかし、あまりにも遠慮がない。

——人を指差すな。

いい加減、誰か注意してやるべきだろう。彼女の今後のためにも。

「やるんだったら掛かってきな。僕のファイヤーストロングソードが火を吹くぜ」

甲斐は木の枝——本人曰く刀——を構え、これまた恥ずかしい台詞を吐いた。

間抜けな二人を前に、河村はぽかんと面食らった顔をしている。

それに対して駿河は慣れたもので、「ダサっ」と甲斐を一蹴し、「指差すな」と和奏を軽くたしなめると、そのまま本題に戻った。

「ああ。大丈夫大丈夫。なんでか知らないけど、生真面目病を克服したらしい」

「そんなことあるのか。すげえな」

甲斐は感心したように枝を下ろした。

和奏もほっとした表情を浮かべる。

しばらく呆気に取られていた河村だったが、やがて気を取り直し、駿河の肩を軽く叩いて耳打ちした。

「おい、誰だよ。このカワイコちゃんは?お前の知り合いか?紹介しろ」

駿河は呆れたように息を吐く。

しかし同時に、その反応がいかにも河村らしくて、どこか懐かしくも感じた。

駿河はまず和奏、続いて甲斐の順で簡単に紹介し、今度は二人に河村を紹介した。

「おい。男の方は別に紹介いらない」

「同じく」

河村の冗談に、甲斐が即座に乗る。

「お前ら絶対に気が合うと思うぞ?」

その後しばらく、四人は和やかな会話を続けた。

学生時代の思い出。

最近やっているゲーム。

それぞれの近況。

久しぶりに顔を合わせた友人同士の会話は尽きることがなく、いくらでも続けられそうだった。

だが、やがて日も傾き始め、空が薄暗くなった頃、自然とお開きの流れになった。

最後に話題は、河村の今後について移った。

「慎吾はこれからどうするんだ?」

「さあな。これから考えるよ」

河村は少し視線を落としながら続けた。

「とりあえず、母ちゃんには色々迷惑かけたからな。今さらだけど、償うよ」

どうやらこれまでの母親への態度を悔いているらしい。その表情には、わずかな影が差していた。

——母親に飯を運ばせている穀潰しのくせに、何一つ悪びれない甲斐は見習うべきだろう。

「まあ、それもいいけどさ」

駿河は少し考えてから言った。

「せっかくだし、都内に来ないか?職場はどこも似たようなもんだろうけど、上野にいい店があるんだ」

「店?」

「そこの店主なら、色々相談に乗ってくれると思うし、常連もいい人ばかりなんだ。しかも——」

駿河は少し得意げに続けた。

「今どき珍しく、酒を売ってる」

「酒?」

河村は怪訝そうな顔をした。

この時代における酒は、一昔前の麻薬に近い扱いを受けている。生真面目病を克服したとはいえ、すぐに受け入れられるものではないだろう。

「そうか。酒飲んだことないのか」

駿河は少し笑った。

「俺も最初は怖かったけどさ。いざ飲んでみたら、すげえ気持ちいいんだよ。あれは最高だ」

「胡散臭さしかないんだが?」

その一言に、一同はどっと笑った。

「考えとくよ。でも、すぐには行けない」

河村は少し間を置いて続けた。

「全平教って、簡単に抜け出せないんだ。下手な辞め方をしたら、残された母ちゃんに被害が向く。それだけは避けなきゃならないから……」

その眼差しはまっすぐで、そこには確かな決意が感じられた。

「……そうか。じゃあ、またな」

「おう」

こうして、河村と別れた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――


帰り道、駿河はいつになく上機嫌だった。

胸の奥に残る高揚感が、まだ消えずに残っている。さっきまで胸を締め付けていた重苦しさが嘘のように軽く、歩く足取りさえ弾んでいる気がした。

このまま一日が終わってしまうのが、どこか惜しく思えた。

そこで駿河は、隣を歩く甲斐と和奏に声を掛ける。

「向こうに戻ったら、そのまま居酒屋ゆうちゃんに行かないか」

甲斐はすぐに顔を輝かせた。

「いいね」

和奏も少し嬉しそうに頷く。

「良いですね」

三人の足取りは自然と軽くなった。


山を下り、細い田んぼ道へと出る。左右には水を張った田んぼが広がり、夕暮れの空をぼんやりと映していた。

遠くで蛙が鳴き、どこかの農家からは夕飯の支度をする音が微かに聞こえてくる。

田んぼ道を抜けると、小さな橋が現れた。幅の狭いコンクリートの橋で、下には細い川がゆったりと流れている。

三人はその橋を並んで渡った。

川面に映る夕焼けが、ゆらゆらと揺れている。

橋を渡り終えたところで、ふと和奏が足を止めた。

「あれ?」

小さく首を傾げる。

そして周囲をぐるりと見回してから、「そういえば……」と口を開いた。

「ガラクタさんの姿が見当たりません」

「え?」

駿河は思わず振り返った。

「あっ、本当だ」

甲斐もつられて振り返る。

……いや、思い返せば、そもそも栄丸神社に到着した時点から姿を見掛けていないことに、駿河は今さらながら気付いた。

「おーい!」

だが、田んぼ道の向こうにも、橋の上にも見当たらない。

「おーい!」

駿河が声を張り上げる。

「どこに隠れてるんだー!」

甲斐も楽しそうに周囲を見回す。

「また変なところに隠れて驚かせるつもりだろー!」

三人は能天気な調子で呼びかけた。

しかし——

返事はなかった。

川の流れる音だけが、静かに耳に届いていた。

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