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穏やかな境内に、落ち葉が身を震わすように掠れた。その音を合図に、空が急速に曇り始める。
不運なことに——全平教の信者たちが現れたのだ。
彼らが神社を訪れる時は、決まって碌でもない。手にはハンマー、電工ドリル、バールなど、物騒極まりない道具を携えている。
目的は単純明快——神社の破壊である。
なぜそんなことをするのか?
それは彼らは「神」に対して憎悪を抱いているからだ。その理由は、極めて馬鹿らしい。
【神が本当に実在するならば、世界が不平等なのはおかしい。それなのに“願いを叶える”などと嘯き、人々から供物を騙し取り、挙句の果てに金を毟り取ってきた。我々はこの詐欺紛いの行為に、正義の鉄槌を下さねばならぬ】
——と、まあ、こんな調子である。
いかにも“それっぽい”免罪符だが、あまりにお座なりだ。
彼らの知的レベルの低さが露呈していると言えよう。
そもそも、神の概念を履き違えている。神とは、人知を超えた尊い存在であり、人間の願いを叶える機械ではない。確かに、かつては神の名を利用して財を貪った輩もいた。だが、それは“神を利用した人間の悪行”に過ぎない。
神とは本来、人の心に宿る存在であり、不幸や災厄に見舞われた際の“心の拠り所”でしかないのだ。
——世界の不平等?笑わせてくれる。
日本の神はあくまでイザナギとイザナミの系統、この国の土壌に根ざしたローカル神族である。世界規模の秩序など、そもそも範疇外だ。筋違いも甚だしい。
まるで「最近休み過ぎだぞ」と、登校している生徒に説教する教師のようなものだ。
「高根さん。……何者かが寝ております」
ひとりの信者が声を潜めて報告した。
境内の縁側——そこには、今まさに危機に晒されているとも知らず、呑気に寝息を立てる駿河の姿があった。
報告を受けた高根と呼ばれる男は、ゆっくりとそちらへ振り返った。
他の信者たちが灰色の作業服に身を包む中、彼だけは黒一色のスーツを纏っている。シワひとつない布地が月光を鈍く反射し、胸元には銀糸で縫い取られた全平教の紋章が光った。
まるで「自分こそが監視者だ」と誇示するかのように。
彼の動作は静かで、しかし一つひとつが異様に丁寧だった。首を傾げる角度、肩をわずかに揺らす呼吸、靴音ひとつ立てぬ歩み。その整然とした仕草の裏に、どこか機械めいた冷たさが漂っている。
長髪が肩にかかり、異様に伸びた前髪が顔の半分を覆っていた。
風が吹くたび、湿った髪の隙間から覗く口元は、薄く笑っているのか、それとも無表情なのか判然としない。
やがて、高根は指先で前髪をゆっくりと掻き上げた。
その瞬間——。
月明かりが、わずかに覗いた片目を照らした。瞳は冷えた金属のように光を弾き、蛇が獲物を見据えるような鋭さを宿している。冷気が空気を裂くような沈黙の中、彼は唇を動かした。
「……なぜ、こんなところに。誰だ、そいつは」
低く、湿り気を帯びた声だった。
耳に届いた瞬間、周囲の信者たちが一斉に背筋を伸ばす。
その声には、怒りも激情もない。ただ、従うことを当然とする“支配者の響き”だけがあった。
「わかりません。しかし――恐らく“不真面目病”の者でしょう。でなければ、こんな場所で寝る理由が説明できません。それに、あれは……警察官の制服です。可能性は高いかと」
「そうか。では——仕方あるまい」
たった一言。
それだけで“正義”は成立した。
もはやどんな暴力も、彼らの中では神聖な行為と化す。
高根の合図で、信者たちはぞろぞろと駿河を取り囲んだ。
靴底が砂利を踏み締める音だけが、静まり返った境内に響く。
「おい。起きろ」
怒気を孕んだ声に、駿河はびくりと体を震わせた。まぶたの裏で血が逆流するような圧を感じながら、恐る恐る目を開ける。
そこに立っていたのは、十数人の男女だった。
誰ひとり笑っていない。
表情は一様に無機質で、まるで魂が抜け落ちたかのように冷たい。だが、その沈黙の奥には、確かに“怒り”があった。燃え盛るような激情ではない。氷のように凍りついた、底の見えない怒り。
彼らの視線は、まるで犯罪者を見下ろすかのように一斉に駿河へと注がれる。
「ひっ……!」
小さな悲鳴を上げ、反射的に膝をつく。
そして、頭を垂れた。
警察官でありながら——あまりにも自然に、服従の姿勢を取っていた。
「お前には、生物に貢献しようという気概が感じられない!向いてないんだよ——生きるの!辞めちまえ!」
顔中テカテカに脂ぎった四十代後半の男が、甲高い声で怒鳴りつけた。
唾が飛び、空気が震え、境内の空気が一瞬にして殺気を帯びる。
「周りに迷惑を掛けてるだけの存在が、なにを食い下がってんだ!心にもない謝罪なんざ、聞きたくもねぇ!不愉快なんだよ!——存在そのものが!」
その声量は、計器があれば確実に異常値を叩き出すだろう。
まるで人を罵倒するためだけに進化した生物のようだった。
駿河は地に額を擦りつけ、土下座したまま「申し訳ありません」を繰り返した。
その声は震え、掠れ、誰にも届かない。返ってくるのは、罵声と足音だけだ。
やがて、足が出た。手が出た。靴底が脇腹にめり込み、息が漏れる。
反射的に身を捩るが、その動きを逃さず、次の蹴りが背中を打った。
砂利が肌に食い込み、制服の布が裂ける。首の後ろを掴まれ、後頭部を乱暴に引き倒される。視界が天地を失い、鈍い衝撃が頭蓋の奥で反響した。
髪を掴まれ、無理やり顔を持ち上げられた。濁った水たまりが眼前に迫り、そのまま押し付けられる。
鼻と口から泥が流れ込み、喉が焼けるように痛む。息を吸おうとしても、吸うたびに泥が喉奥に絡みつく。肺が悲鳴を上げるが、助けを求める声は出ない。
やがて髪を放されると、重力に引かれて顔が地面に崩れ落ちた。
頬に冷たい土が貼りつき、耳の奥で鼓動が脈打つ。誰かが唾を吐いた。生温かい飛沫が頬を汚す。
殴られ、踏みつけられ、押し潰され、罵倒が降り注ぐ。罵声は怒鳴り声というより、祈りにも似ていた。彼らにとって暴力は儀式であり、正義の執行なのだ。
それでも駿河は、声を上げなかった。
叫べば惨めになることを、もう知っていたからだ。
ただ、土に染み込む血の匂いだけが、やけに現実的だった。
それは、痛みよりも確かに——“生きている証”のようだった。
——これが“平等”の形である。
この世界に、差別は存在しない。
多様性は完全に実現され、微生物にさえ等しく権利が与えられた。
人類は愚かな歴史を幾度も繰り返し、ようやくその“理想”に辿り着いたのだという。
男も、女も。
犬も、猫も。
豚も、虎も。
蟻も、蝉も、鳩も、烏も、
まぐろも、鮫も、プランクトンも、ミジンコまでも——平等。
なんと素晴らしき世界であろう。
暴力を正義と呼び、同調を平和と称する。
これが、完成された理想郷の姿なのだ。
プチン——と、何かが切れた。
気がつくと、駿河は真っ暗な世界に放り出されていた。
そこは宇宙のように深い静寂に満ち、同時に息が詰まるほどに圧迫的だった。
「あっ、あー」必死に声を絞り出し、全身をばたつかせる。逃げたい。早くこの場から消え去りたい。得体の知れない世界に抗い、必死で足掻く。
突如、後ろ髪の長い女が現れた。駿河が振り返ると──顔は日本猿そのものだった。比喩ではない、まんま日本猿。
「がっかりだ」と駿河は叫んだ。
隣にいた、かつての友人が嗤い声を上げる。
「全く相変わらずだな、お前は惚れやすい」
友人が肩に手を置く。駿河は振りほどき、怒鳴って応じる。
「うるせぇ!」
世界はまたたく間に移り変わった。
近所の主婦の自慢話が、不意に皮肉へと変じる。
「オタクの息子はいい子ねぇ……ウチの子なんて全然駄目よ」
すると駿河は鋭く切り返した。
「確かにお前の息子は駄目だ。高学歴でも仕事ができない典型。プライドだけは一丁前だ」
怒り狂った目が三つある妖狐めがけ、駿河は無我夢中で砂利を投げつけた。
ギャルたちは笑っているが、目は笑っていない。
「もう〜超ウケるんだけど~マジランなんですけど~」
口調は高速で軽薄だが、言葉には棘が混じる。
「黙れ。日本語を喋れ。未成年は皆穀潰しだ」
頭突きをくらわせる。頭から血を流しても、頭突きは止まらない。
「最近の若い奴は駄目だ。昔は良かった」
ブクブクに太った男が偉そうに説教する。駿河はその男の頭を掴み、何度も地面に叩きつけた。叩きつけるたびに、男の自慢話が砕け散る。
駿河は、気が狂っていた。
彼は今、現実ではなく——幻覚の中にいた。意識はとうに断ち切れ、無意識のまま暴れ狂っている。目に映るすべては、怒りと恐怖が生み出した虚像だった。
しかし現実の肉体は、多勢に無勢の暴力の渦中にある。無数の足が彼を踏みつけ、罵声が雨のように降り注ぐ。
だが、彼の意識はそこにはなかった。
彼は、別の得体の知れない“敵”と、幻の世界で必死に戦っていたのだ。
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目を覚ました時、駿河は参道のど真ん中で大の字に倒れていた。
日はすでに沈み、境内は濃い夜闇に包まれている。
どうやら一時間ほど気を失っていたらしい。
全身のあちこちが鈍く痛み、制服はヨレヨレ。袖には血の染みが点々とついていた。なんとも哀れな姿である。
「……いてて」
駿河は顔をしかめながら、重たい上半身をゆっくりと起こした。
肩や背中がぎしりと軋み、肘をつくたびに鈍い痛みが走る。呼吸を整えながら、彼はようやく自分が参道の真ん中に倒れていたことに気づいた。
——神社は、無傷だった。
破壊されるはずだった社殿は、ただ静かに月明かりを浴びていた。
皮肉なことに、駿河は身を挺して神社を守った形になったのである。
彼は、ふいに泣いた。
嗚咽がこみ上げ、胸が締めつけられる。自分の不幸と、この世界の理不尽さを呪って、涙が枯れるまで泣き続けた。
頬を伝う涙が土に落ち、音もなく吸い込まれていく。
「……神様。お願いします。助けてください」
口から零れた言葉は、懺悔でも祈りでもなく、ただの独り言だった。
けれど、その声には確かに、わずかな希望が混じっていた。
駿河は特別、信仰心があるわけではない。
正月に初詣へ行くことも、受験前に神頼みをしたこともない。
だが、この時ばかりは違った。
誰も助けてくれない世界の中で、神にすがる以外に道が残されていなかった。
それは信仰心ではなく、本能だった。
もはや諦めに近い衝動が、彼を賽銭箱の前へと突き動かした。
ポケットを探ると、指先に硬い感触が触れた。
十円玉だった。汗で少し湿っており、血の跡までこびりついている。
「これくらいしか……」と呟きながら、駿河はそれをそっと賽銭箱へ投げ入れた。
カラン——。
乾いた金属音が、夜気の中に小さく響いた。
誰もいない境内で、その音だけがやけに鮮明に反響する。
風が止み、空気が凍りつく。
まるで世界全体が、その一音に耳を傾けているかのようだった。
次の瞬間、地の底から震えるような音が響いた。
社殿の奥で、何かが軋む。
灯の消えたはずの神灯が、ぼうっと赤く光りはじめた。
——その時、駿河の背後に、光が降り注いだ。
夜空が昼のように白く輝き、風が渦を巻く。
木々がざわめき、砂利が浮き上がる。
目を開けていられないほどの閃光が、神社全体を包み込んだ。
「なんだ……」
駿河が呟いた瞬間、風の中から声がした。
それは低く、澄み切っていて、どこか懐かしい響きを持っていた。
——天照大御神が、目を覚ました。
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