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栄丸神社跡地は、すでに更地となっていた。
焼失によって崩れ落ちた社殿の瓦礫は撤去され、そこには無造作に広がる土と、膝丈ほどまで伸びた雑草だけが残っている。かつて祭りの音が響き、賽銭の音が鳴った場所とは思えないほど、静まり返っていた。
だが、完全に消え去ったわけではない。かろうじて、名残は残っている。
雨水の溜まった手水舎の石鉢。水面には枯れ葉が浮き、苔が縁を覆っている。柄杓はなく、ただ石の重みだけが沈黙していた。
参道だったであろう石畳も、ところどころ土に埋もれながら続いている。石の隙間からは雑草が顔を出し、かつての整然とした直線を侵食していた。
その奥には、裏山へと通じる登山口がぽっかりと口を開けている。人の気配はない。ただ蝉の声だけが、異様に大きく耳に刺さった。
「狐狸会議の内容が彫られている壁画って、どこなんでしょう?」
和奏が辺りを見回しながら尋ねる。
「あれだな」
駿河は迷いなく一点を指差した。
本来は擁壁として設置された、灰色のコンクリートの連なり。その中で、一部分だけが不自然に色味を帯びている。苔と風化の層の向こうに、かすかに輪郭が浮かんでいるのが見えた。
擁壁に刻まれた壁画だった。
和奏は歓声を上げ、小走りで駆け寄る。雑草を踏み分ける音が、乾いた地面に響く。
「これですね……!」
近づくと、壁画は想像以上に風化していた。表面は苔に覆われ、ひび割れたコンクリートの凹凸が、彫刻を歪ませている。
狐と狸らしき影。中央に丸い何か。囲いのような線。
だが、判別は容易ではない。
和奏はしゃがみ込み、目を細める。指で苔を払おうとして、すぐに引っ込める。爪に緑色がつくのを嫌がったのだろう。
「これって……猿ですよね?」
「猿だろうな。バカっぽい顔してるし」
駿河は和奏の隣に立ち、壁画へと目を凝らした。風化した輪郭を追いながら、半ば確信めいた口調で言う。
「甲斐さん、そこ、よく見えないので土を払ってくれません?」
「お安い御用さ!」
甲斐は即座にしゃがみ込み、袖を気にすることもなく、両手で土と苔を払い始めた。指先がみるみる黒くなるが、気にした様子はない。むしろ少し楽しげだ。
「そこもです。あっ、そっちじゃないです。そこです。遅いです。日が暮れます」
「OK!任せて!なんか僕だけ手が汚れてるなんて、そんな野暮なことは言わないでおくよ!」
軽口を叩きながら、さらに勢いよく擦る。細かい砂が舞い、苔がぽろぽろと剥がれ落ちる。
和奏はメモ帳を片手に次々と指示を飛ばす。完全に研究者モードだ。駿河も隣にしゃがみ、壁面の線を目で追う。
「これは囲いだな。ここが猿の位置で……狐と狸が左右に分かれている」
駿河と甲斐も精力的に手伝った。
駿河は解釈に手間取る和奏へ助言を送り、甲斐は汚れ役を一身に引き受ける。
この日も和奏の天然は健在で、甲斐は幾度となく、壁画とは無関係な箇所を掃除させられ、無駄な時間を重ねた。
途中、狐を狼と言い間違え、狸を豚と言い間違え、猿を甲斐と言い間違える。
――最後のは、わざとだろう。
苔の匂いと、湿った土の匂いが混じる。風が吹くと、雑草がざわりと揺れた。
「……これ、やっぱり絵本と一致してます」
和奏の声が、少しだけ震えていた。廃墟の中で、古い寓話が姿を現す。焼け落ちた神社。消された信仰。
だが壁の奥には、まだ物語が残っている。
夏の光が、ひび割れたコンクリートに差し込み、狐と狸の輪郭をかすかに浮かび上がらせていた。
さて――そんな平和なひとときを破ったのは、突然の来訪者だった。
熱心に和奏へ助言を送っていた駿河は、夢中になるあまり背後に迫る気配に気づかなかった。
不意に手首を掴まれ、強い力で引き寄せられた。
「お前、駿河光太郎だな。来てもらおうか」
低く、抑えた声。
「誰だ……?」
顔を上げた瞬間、駿河の目が見開かれる。
「……お前、圭佑か?」
そこに立っていたのは、かつての同級生――河村圭佑だった。
嫌な予感が、胸を掠める。
駿河は掴まれた手首を強引に振りほどき、同時に後退って距離を取った。和奏と甲斐は、あまりに唐突な展開に言葉を失い、ただ呆然と成り行きを見守る。
「なんなんだ突然。なぜ俺が教会に行かなきゃならない」
まともな話し合いが通じる相手ではないことを、駿河は痛いほど知っている。
河村の眉がぴくりと動いた。
「なぜ?まさか忘れたわけじゃあるまい。お前はまだ罪を償っていない」
「何年前の話をしてんだよ。もう時効だろ、時効」
「ふざけるな。勝手な解釈をするな」
河村が飛びかかる。
駿河は寸前で身を翻し、その勢いのまま登山口へと駆け込んだ。
他にも全平教の人間が潜んでいる可能性がある。一般道に出るより、山道に入った方がまだましだと、咄嗟に判断したのだ。
「待て!」
背後の怒声を振り切り、丸太階段を一気に駆け上がる。
すぐに息が上がる。
――昔は、こんなに苦しくなかったはずだ。
振り返ると、河村もまた肩で荒く息をしている。かつては誰よりもタフだった男だが、その身体にも年月は等しく積もっているらしい。
丸太階段を抜けると、急斜面を緩和するためのジグザグの山道――通称“ザクザクコース”が現れた。
駿河は整備された人工道に沿って走る。
河村も迷わず追随する。
その選択が、彼の変化を物語っていた。
昔の河村なら、道など無視して斜面を直進したはずだ。最短距離を本能で選ぶ、短絡的な性格だった。
どちらが実際に速いかなど、検証したことはない。だが、近道を選ぶのが彼だった。
今は違う。
整えられた道を、真っ直ぐ追ってくる。
ジグザグを抜けると、そこから先は人の手の入らない無法地帯だ。
ここからが勝負。
さらに奥へ登るか。左右へ逸れるか。一気に下って撹乱するか。
追う者にとっても、追われる者にとっても、ここは駆け引きの分岐点だった。
かつて二人のあいだには、暗黙の了解があった。
この地点で、一度足を止める。
互いに呼吸を整え、次の一手を読む。
だが――。
その“暗黙のルール”に従ったのは、駿河だけだった。
無意識のうちに、身体が止まる。
染みついた癖は、何年経っても抜けない。
次の瞬間、河村が一気に距離を詰める。
刹那。
駿河は横へと身を翻し、すれ違いざまに山沿いへ駆け出した。
「待てッ!」
怒号が山中に響く。
憤怒に燃える河村を背に、駿河の口元には、なぜか笑みが浮かんでいた。
恐怖ではない。
怒りでもない。
胸の奥に湧き上がっていたのは――懐かしさだった。
かつて、何度もこうして走り回った。
競い合い、追い、追われ。
変わってしまったはずの男と、変わらない形で走っている。
その矛盾が、可笑しくてたまらなかった。
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