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吠えろ!ガラクタ~塵芥戦術~  作者: 堀尾 朗
第10章「駿河の過去」
37/42

—1—

 栄丸神社跡地は、すでに更地となっていた。

焼失によって崩れ落ちた社殿の瓦礫は撤去され、そこには無造作に広がる土と、膝丈ほどまで伸びた雑草だけが残っている。かつて祭りの音が響き、賽銭の音が鳴った場所とは思えないほど、静まり返っていた。

だが、完全に消え去ったわけではない。かろうじて、名残は残っている。

雨水の溜まった手水舎の石鉢。水面には枯れ葉が浮き、苔が縁を覆っている。柄杓はなく、ただ石の重みだけが沈黙していた。

参道だったであろう石畳も、ところどころ土に埋もれながら続いている。石の隙間からは雑草が顔を出し、かつての整然とした直線を侵食していた。

その奥には、裏山へと通じる登山口がぽっかりと口を開けている。人の気配はない。ただ蝉の声だけが、異様に大きく耳に刺さった。


「狐狸会議の内容が彫られている壁画って、どこなんでしょう?」

和奏が辺りを見回しながら尋ねる。

「あれだな」

駿河は迷いなく一点を指差した。

本来は擁壁として設置された、灰色のコンクリートの連なり。その中で、一部分だけが不自然に色味を帯びている。苔と風化の層の向こうに、かすかに輪郭が浮かんでいるのが見えた。

擁壁に刻まれた壁画だった。

和奏は歓声を上げ、小走りで駆け寄る。雑草を踏み分ける音が、乾いた地面に響く。


「これですね……!」

近づくと、壁画は想像以上に風化していた。表面は苔に覆われ、ひび割れたコンクリートの凹凸が、彫刻を歪ませている。

狐と狸らしき影。中央に丸い何か。囲いのような線。

だが、判別は容易ではない。

和奏はしゃがみ込み、目を細める。指で苔を払おうとして、すぐに引っ込める。爪に緑色がつくのを嫌がったのだろう。

「これって……猿ですよね?」

「猿だろうな。バカっぽい顔してるし」

駿河は和奏の隣に立ち、壁画へと目を凝らした。風化した輪郭を追いながら、半ば確信めいた口調で言う。

「甲斐さん、そこ、よく見えないので土を払ってくれません?」

「お安い御用さ!」

甲斐は即座にしゃがみ込み、袖を気にすることもなく、両手で土と苔を払い始めた。指先がみるみる黒くなるが、気にした様子はない。むしろ少し楽しげだ。

「そこもです。あっ、そっちじゃないです。そこです。遅いです。日が暮れます」

「OK!任せて!なんか僕だけ手が汚れてるなんて、そんな野暮なことは言わないでおくよ!」

軽口を叩きながら、さらに勢いよく擦る。細かい砂が舞い、苔がぽろぽろと剥がれ落ちる。

和奏はメモ帳を片手に次々と指示を飛ばす。完全に研究者モードだ。駿河も隣にしゃがみ、壁面の線を目で追う。

「これは囲いだな。ここが猿の位置で……狐と狸が左右に分かれている」

駿河と甲斐も精力的に手伝った。

駿河は解釈に手間取る和奏へ助言を送り、甲斐は汚れ役を一身に引き受ける。

この日も和奏の天然は健在で、甲斐は幾度となく、壁画とは無関係な箇所を掃除させられ、無駄な時間を重ねた。

途中、狐を狼と言い間違え、狸を豚と言い間違え、猿を甲斐と言い間違える。

――最後のは、わざとだろう。


苔の匂いと、湿った土の匂いが混じる。風が吹くと、雑草がざわりと揺れた。

「……これ、やっぱり絵本と一致してます」

和奏の声が、少しだけ震えていた。廃墟の中で、古い寓話が姿を現す。焼け落ちた神社。消された信仰。

だが壁の奥には、まだ物語が残っている。

夏の光が、ひび割れたコンクリートに差し込み、狐と狸の輪郭をかすかに浮かび上がらせていた。


さて――そんな平和なひとときを破ったのは、突然の来訪者だった。

熱心に和奏へ助言を送っていた駿河は、夢中になるあまり背後に迫る気配に気づかなかった。

不意に手首を掴まれ、強い力で引き寄せられた。

「お前、駿河光太郎だな。来てもらおうか」

低く、抑えた声。

「誰だ……?」

顔を上げた瞬間、駿河の目が見開かれる。

「……お前、圭佑か?」

そこに立っていたのは、かつての同級生――河村圭佑だった。

嫌な予感が、胸を掠める。

駿河は掴まれた手首を強引に振りほどき、同時に後退って距離を取った。和奏と甲斐は、あまりに唐突な展開に言葉を失い、ただ呆然と成り行きを見守る。

「なんなんだ突然。なぜ俺が教会に行かなきゃならない」

まともな話し合いが通じる相手ではないことを、駿河は痛いほど知っている。

河村の眉がぴくりと動いた。

「なぜ?まさか忘れたわけじゃあるまい。お前はまだ罪を償っていない」

「何年前の話をしてんだよ。もう時効だろ、時効」

「ふざけるな。勝手な解釈をするな」

河村が飛びかかる。

駿河は寸前で身を翻し、その勢いのまま登山口へと駆け込んだ。

他にも全平教の人間が潜んでいる可能性がある。一般道に出るより、山道に入った方がまだましだと、咄嗟に判断したのだ。


「待て!」

背後の怒声を振り切り、丸太階段を一気に駆け上がる。

すぐに息が上がる。

――昔は、こんなに苦しくなかったはずだ。

振り返ると、河村もまた肩で荒く息をしている。かつては誰よりもタフだった男だが、その身体にも年月は等しく積もっているらしい。

丸太階段を抜けると、急斜面を緩和するためのジグザグの山道――通称“ザクザクコース”が現れた。

駿河は整備された人工道に沿って走る。

河村も迷わず追随する。

その選択が、彼の変化を物語っていた。

昔の河村なら、道など無視して斜面を直進したはずだ。最短距離を本能で選ぶ、短絡的な性格だった。

どちらが実際に速いかなど、検証したことはない。だが、近道を選ぶのが彼だった。

今は違う。

整えられた道を、真っ直ぐ追ってくる。


ジグザグを抜けると、そこから先は人の手の入らない無法地帯だ。

ここからが勝負。

さらに奥へ登るか。左右へ逸れるか。一気に下って撹乱するか。

追う者にとっても、追われる者にとっても、ここは駆け引きの分岐点だった。

かつて二人のあいだには、暗黙の了解があった。

この地点で、一度足を止める。

互いに呼吸を整え、次の一手を読む。

だが――。

その“暗黙のルール”に従ったのは、駿河だけだった。

無意識のうちに、身体が止まる。

染みついた癖は、何年経っても抜けない。

次の瞬間、河村が一気に距離を詰める。

刹那。

駿河は横へと身を翻し、すれ違いざまに山沿いへ駆け出した。

「待てッ!」

怒号が山中に響く。

憤怒に燃える河村を背に、駿河の口元には、なぜか笑みが浮かんでいた。

恐怖ではない。

怒りでもない。

胸の奥に湧き上がっていたのは――懐かしさだった。

かつて、何度もこうして走り回った。

競い合い、追い、追われ。

変わってしまったはずの男と、変わらない形で走っている。

その矛盾が、可笑しくてたまらなかった。

お読みいただきありがとうございます。

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