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道中、懐かしい景色を前にして、駿河は少年時代の記憶を辿っていた。
毎朝通った小学校の校舎。
中学時代、よくたむろした町で唯一のコンビニ。
密かに想いを寄せていた女の子と偶然鉢合わせした郵便局の前。
自転車で転び、膝を擦りむいて泣きながら座り込んだ坂道。
祭りの帰り、父親におぶってもらいながら渡った橋。
足繁く通った玩具屋。
腰の曲がったおばあさんが切り盛りしていた駄菓子屋。
―――玩具屋も駄菓子屋も、すでに閉店していた。だが建物だけは、当時の姿のまま残っている。
時間だけが、先へ進んでいた。
駿河は夏の青空を見上げ、大きく深呼吸をした。
胸いっぱいに吸い込んだ空気は、どこか懐かしい匂いがした。
気分は、不思議と晴れやかだった。
その背後では、甲斐が最近のモンクエ事情について熱弁を振るい、和奏が「へぇ」「そうなんですか」と適当な相槌を打っている。
さらにその後方では、私が意味不明な舞を舞っていた。
――これを、平和と呼ぶのかもしれない。
「あら、もしかして光太郎くん?」
声がかかったのは、橋を渡った先にある一軒の民家の前だった。振り向くと、農作業着に身を包んだ五十代半ばほどの女性が、目を丸くして立ち尽くしている。
「……圭佑のお母さん?」
駿河は一歩前に出て、女性へ近づいた。
懐かしさが警戒心を上回っていた。
全平教が日本を席巻して以来、常に張り詰めていた警戒は、この瞬間だけ緩んでいる。
その女性は、かつての親友――河村圭佑の母親だった。
「外じゃなんだから、上がっていきなさい」
引き戸を開けると、ぎい、と少し軋んだ音がした。
古い平屋だった。
瓦屋根に、縁側付きの典型的な田舎家。玄関先には泥のついた長靴が並び、脇には使い込まれた農具が立てかけてある。軒先には、洗濯物が風に揺れていた。
靴を脱いで上がると、畳の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
廊下は磨き上げられた木板で、ところどころに歳月の傷が刻まれていた。
居間には低いちゃぶ台。
壁には家族写真と、色褪せたカレンダー。
天井には年季の入った蛍光灯。隅にはテレビが置かれている。
エアコンはなく、代わりに扇風機が首を振っていた。その風が、風鈴の音をかすかに揺らす。
差し出されたのは、よく冷えた麦茶だった。
ガラスのコップに浮かぶ氷が、からり、と涼やかな音を立てる。一口含むと、ほんのりとした苦みと香ばしさが喉を通った。
久しぶりに感じる、“普通の家”の匂い。
畳と麦茶と、どこか石鹸の残り香が混ざった空気。それだけで、駿河の肩から力が抜ける。
ここには、全平教の掲げる標語も、監視の目もない。
ただ、生活がある。
「それにしても久しぶりだねぇ。何年ぶりかね」
おばさんはちゃぶ台の向こうに腰を下ろし、懐かしそうに目を細めた。
「さぁ……どのくらいでしょう。十五年とかですかね」
おばさんは、駿河の隣に座る甲斐と和奏にも視線を向けた。
二人は簡単に自己紹介をする。
なお、私は視認を許していない。つまり、おばさんの目には、三人しか映っていなかった。
「えっと……圭佑さんのお母さんは、その……なんと言うか、不真面目なんですね」
あまりにもド直球だった。
駿河は呑みかけていた麦茶を吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえる。和奏は数拍遅れて、自分がとんでもないことを言ったと気づいたらしい。みるみるうちに頬が赤く染まっていく。
「ち、違っ……その、悪い意味じゃなくて……!」
しどろもどろになる和奏。
だが、おばさんは腹の底から笑った。
「ははは! そりゃあ、なかなか面白いこと言う子だね」
軽快な笑い声が、畳の居間いっぱいに広がる。
その響きは、どこか久しく聞いていなかった“普通の大人の笑い”だった。
「ええ、そうね。不真面目よ、私は。だから色々と大変なの」
そう言って、肩をすくめる。
冗談のようでいて、どこか本音も混じっている声音だった。
「旦那も圭佑もね、わたしから言わせれば変になっちゃったから」
一瞬だけ、空気がわずかに沈む。
だがすぐに、彼女は駿河へと視線を向けた。
「……でも光太郎くんは、前と変わらないのね」
その目は、昔の少年を見ているようだった。
「それが、なによりよ」
駿河は目を細めた。
「よく分かりましたね。怖くはなかったんですか? もし前と変わってたらって……むしろその方が可能性は高い。全平教の一員かもしれないわけですし」
おばさんは、またくすくすと笑った。
目を点にする駿河たちに、あっさり種明かしをする。
「だってあなた達、服装が派手なんだもの。昔で言うところの“お洒落”よ」
その瞬間、全員が合点した。
この国の“夏の私服”は、無地の白Tシャツに黒のチノパンが基本である。
だが今日は違う。
大島のコーディネートのもと、駿河は黒のポロシャツにベージュの短パン。甲斐は堂々とアロハシャツ。和奏はロゴ入りTシャツにミニのデニムスカート。
「ミニスカートなんて、久しぶりに見たわ」
おばさんは、露わになった生足をちらりと見てから、和奏に向けて優しく微笑んだ。
全平教ならば、【執拗に誘惑している如何わしい服装】と断罪しかねない格好である。
「わたしも若い頃は、よくそんな服を着ていたわよ」
その言葉に、和奏の顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか!? わたしも可愛いと思ったんです、このスカート! ほら言ったじゃないですか! 駿河さんが派手すぎないかって、いちゃもんつけてくるんですよ」
「気恥ずかしいだけよ」
おばさんの一言に、駿河は肩を竦めた。
図星だった。
正直、目のやり場に困るのが本音だったのだ。
「僕はいいと思うって言ったよね。白い部分が」
甲斐が、悪びれもなく言う。
「……白い部分?」
意味が分からず首を傾げる和奏。鈍感であることが、時には救いになる。
しばらくファッション談義で盛り上がったあと、駿河がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば……狐狸会議のこと、覚えてますか?」
「狐狸会議? ……ああ、それなら絵本があるはずよ」
「本当ですか!? ぜひ見せてください!」
和奏が身を乗り出す。
おばさんは少し驚きながらも、奥の部屋へ引っ込み、やがて枕ほどの大きさの絵本を抱えて戻ってきた。
拍子抜けするほど、あっさりと目的は達成された。
和奏が絵本を受け取る。
表紙を、じっと見つめる。
小屋の中————中央に置かれた一本の蝋燭。
その周囲を囲む狐と狸たち。
右側に狐、左側に狸。
その中の一匹ずつが立ち上がり、白熱した議論を交わしている。
揺れる炎が、影を歪めている。
和奏は、ゆっくりと頁を捲った。
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