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梅雨が明け、いよいよ本格的な暑さが始まった。
喧しい蝉の声、爛々と照りつける陽光、木の葉を揺らす夏風。その熱気を頬に受けながら、駿河と甲斐と和奏と私は、栄丸町駅に降り立った。
見渡す限りの緑。人影はほとんどなく、どこか長閑な空気が漂っている。
そのとき――
人類の天敵、蚊が駿河の頬に止まった。
無意識の一撃。
ぱちん。
「あ!」
和奏が声を上げる。
人を指すなという常識を教わらなかったらしく、無遠慮に駿河を指差していた。
虫除けスプレーをこれでもかと浴びてきた和奏に対し、無防備な駿河と甲斐は格好の標的だった。身体中に蚊がまとわりつき、何匹かは容赦なく叩き潰されている。
「全平教の人に見られたら、殺されますよ?」
和奏は呆れたように肩掛け鞄から虫除けスプレーを取り出した。
駿河は素直に受け取る。だが甲斐は妙な見栄を張った。
「僕は蚊を殺したい」
数分後、彼は「痒い、痒い」と騒ぎ立て、結局、痒み止めを借りる羽目になるのだが。
蚊すら殺せない――
その極端な教義の発端は、当然ながら全平教である。
彼らの理屈はこうだ。
【か弱く無抵抗同然の虫を殺すのは、野蛮な行為である】
一見もっともらしい。
だが、そこにはいくつかの矛盾が潜んでいる。蝶や蟻を無惨に踏み潰すのであれば、その理屈も通るだろう。しかし蚊は違う。血を吸うために、先に奇襲を仕掛けてくる。
大袈裟に言えば、正当防衛である。
過剰防衛だという見方もできなくはない。
だが、それこそ過剰反応とも言える。議論は水掛け論に終始するだろう。
さらに、和奏との痴話喧嘩の最中に甲斐が放った皮肉を借りれば、蚊は人類を最も多く殺している生物でもある。
もちろん、それは数字のマジックだ。それは熱帯地域での感染症被害が大半であり、日本の田舎町に生息する蚊で即座に命を落とすことは、まずない。
ゆえに甲斐の主張は、理屈としては破綻している。
だが皮肉としては、一定の効力を持つ。
もっとも――
「蚊の命なんかどうでもいいです。わたしが気にしてるのは、そんな姿を全平教の人に見られて巻き込まれること!」
和奏のこの一言で、理屈はあっさり瓦解するのだった。
栄丸町は、東京の奥地にある小さな町だ。
山々に囲まれ、一面に田圃が広がっている。町の中心には大きな川が流れ、川を挟んで風景は二分されていた。
駅側には、わずかな商店と学校、役所、交番などの公的機関が集中している。
一方、川を越えた側は、民家と田圃が大半を占める静かな区域だ。
ちなみに――全平教の協会は川向こうにある。
空き家を改築して開業した、という経緯らしい。
まずは図書館へ向かうことにした。
Google Mapで経路を調べる、などという便利な時代はとうに終わっている。後退した文明には、かつての利器は存在しない。頼れるのは駿河の記憶だけだった。
やがて目的地に辿り着き、駿河たちは足を止める。
二階建てのコンクリート造を見上げながら、言葉を失った。
―――――図書館は、閉館していた。
シャッターは降り、窓は曇り、掲示板の張り紙は色褪せている。
和奏が肩を落とす。
「そんな……なんでこんなことに……」
「全平教の仕業に違いない」
駿河の推測は、あながち外れていない。
全平教の支配下では、娯楽全般が悪とされる。
映画館も、ゲームセンターも、遊園地も、すでに姿を消した。図書館も例外ではない。
書物の大半は娯楽に分類される。
さらに学術書や専門書、図鑑に至るまで、日本人の知的水準の後退により、その価値を測れる者がいなくなった。
理解できぬものは、無価値と断じられる。
利用者は減り、やがて皆無となる。
財政難に喘ぐ市町村は維持を放棄し、民営化。
だが寄贈もなく、運営は立ち行かなくなる。
結果――全国の半数以上の図書館は閉館へ追い込まれた。
残されたのは、荒廃したコンクリートの箱だけだ。
なお、まだ存続している図書館も、貯蓄を削って延命しているに過ぎない。
美術館、文化会館、博物館も同様だ。
文化は静かに、しかし確実に死につつある。
「はぁ……スマホとかあれば、事前に調べられて無駄足も防げるのにな」
駿河が額の汗を拭いながらぼやく。
炎天下での空振りは、精神にも堪える。
「本当ですね……。なんでスマホってなくなったんでしたっけ? 技術の後退ですか?」
「それなら海外から取り寄せればいいだけだろ。こういうのは大抵、政治的なイデオロギーだ。確か……電波が生命体に悪影響を及ぼすとか、そんな理屈だったはずだ」
「ホント、馬鹿らしい世界ですね」
和奏が吐き捨てる。
目的地を失った駿河たちは、しばし無言で立ち尽くした。
閉ざされた図書館の扉。色褪せた張り紙。風に揺れる雑草の音だけが、やけに大きく聞こえる。
誰もが、うすうす感じていた。ここでは何も得られない、と。
駿河が小さく舌打ちする。
甲斐は腕を組み、空を仰ぐ。
和奏は唇を噛みながら、閉館案内の紙を睨みつけていた。
「……どうします?」
和奏の問いは、わずかに掠れている。
駿河はしばらく考え込み、やがて視線を川の向こうへ向けた。
そこには、山の稜線が重なっている。
「行くか」
短い一言。
甲斐が首を傾げる。
「どこへ?」
駿河は、ゆっくりと答えた。
「焼けた神社だよ」
一瞬、空気が変わる。
風が止まったような錯覚。
――――栄丸神社。
子供の頃に駆け回った場所。そして、燃やされた場所。
和奏が小さく息を呑む。
「……栄丸神社、ですか」
その名には、ただの観光地ではない響きがあった。
駿河は一歩、踏み出す。
「図書館がダメなら、あそこしかないだろ」
半ば自分に言い聞かせるような声だった。
甲斐は肩を竦める。
「焼け跡観光ってわけか。スリル満点だ。呪われたりするかな~」
「縁起でもないこと言わないでください」
和奏が即座に返す。
それでも、足は止まらなかった。
こうして話し合いの末――いや、半ば無言の了解のうちに、次の行き先は定まった。
焼失した――栄丸神社。
駿河を先頭に、三人は歩き出す。
その背中を、強い夏の日差しが照らしていた。
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