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吠えろ!ガラクタ~塵芥戦術~  作者: 堀尾 朗
第9章「狐狸会議」
34/42

—1—

 梅雨が明け、いよいよ本格的な暑さが始まった。

喧しい蝉の声、爛々と照りつける陽光、木の葉を揺らす夏風。その熱気を頬に受けながら、駿河と甲斐と和奏と私は、栄丸町駅に降り立った。

見渡す限りの緑。人影はほとんどなく、どこか長閑な空気が漂っている。

そのとき――

人類の天敵、蚊が駿河の頬に止まった。

無意識の一撃。

ぱちん。

「あ!」

和奏が声を上げる。

人を指すなという常識を教わらなかったらしく、無遠慮に駿河を指差していた。

虫除けスプレーをこれでもかと浴びてきた和奏に対し、無防備な駿河と甲斐は格好の標的だった。身体中に蚊がまとわりつき、何匹かは容赦なく叩き潰されている。

「全平教の人に見られたら、殺されますよ?」

和奏は呆れたように肩掛け鞄から虫除けスプレーを取り出した。

駿河は素直に受け取る。だが甲斐は妙な見栄を張った。

「僕は蚊を殺したい」

数分後、彼は「痒い、痒い」と騒ぎ立て、結局、痒み止めを借りる羽目になるのだが。


蚊すら殺せない――

その極端な教義の発端は、当然ながら全平教である。

彼らの理屈はこうだ。

【か弱く無抵抗同然の虫を殺すのは、野蛮な行為である】

一見もっともらしい。

だが、そこにはいくつかの矛盾が潜んでいる。蝶や蟻を無惨に踏み潰すのであれば、その理屈も通るだろう。しかし蚊は違う。血を吸うために、先に奇襲を仕掛けてくる。

大袈裟に言えば、正当防衛である。

過剰防衛だという見方もできなくはない。

だが、それこそ過剰反応とも言える。議論は水掛け論に終始するだろう。

さらに、和奏との痴話喧嘩の最中に甲斐が放った皮肉を借りれば、蚊は人類を最も多く殺している生物でもある。

もちろん、それは数字のマジックだ。それは熱帯地域での感染症被害が大半であり、日本の田舎町に生息する蚊で即座に命を落とすことは、まずない。

ゆえに甲斐の主張は、理屈としては破綻している。

だが皮肉としては、一定の効力を持つ。

もっとも――

「蚊の命なんかどうでもいいです。わたしが気にしてるのは、そんな姿を全平教の人に見られて巻き込まれること!」

和奏のこの一言で、理屈はあっさり瓦解するのだった。


栄丸町は、東京の奥地にある小さな町だ。

山々に囲まれ、一面に田圃が広がっている。町の中心には大きな川が流れ、川を挟んで風景は二分されていた。

駅側には、わずかな商店と学校、役所、交番などの公的機関が集中している。

一方、川を越えた側は、民家と田圃が大半を占める静かな区域だ。

ちなみに――全平教の協会は川向こうにある。

空き家を改築して開業した、という経緯らしい。


まずは図書館へ向かうことにした。

Google Mapで経路を調べる、などという便利な時代はとうに終わっている。後退した文明には、かつての利器は存在しない。頼れるのは駿河の記憶だけだった。

やがて目的地に辿り着き、駿河たちは足を止める。

二階建てのコンクリート造を見上げながら、言葉を失った。

―――――図書館は、閉館していた。

シャッターは降り、窓は曇り、掲示板の張り紙は色褪せている。

和奏が肩を落とす。

「そんな……なんでこんなことに……」

「全平教の仕業に違いない」

駿河の推測は、あながち外れていない。

全平教の支配下では、娯楽全般が悪とされる。

映画館も、ゲームセンターも、遊園地も、すでに姿を消した。図書館も例外ではない。

書物の大半は娯楽に分類される。

さらに学術書や専門書、図鑑に至るまで、日本人の知的水準の後退により、その価値を測れる者がいなくなった。

理解できぬものは、無価値と断じられる。

利用者は減り、やがて皆無となる。

財政難に喘ぐ市町村は維持を放棄し、民営化。

だが寄贈もなく、運営は立ち行かなくなる。

結果――全国の半数以上の図書館は閉館へ追い込まれた。

残されたのは、荒廃したコンクリートの箱だけだ。

なお、まだ存続している図書館も、貯蓄を削って延命しているに過ぎない。

美術館、文化会館、博物館も同様だ。

文化は静かに、しかし確実に死につつある。


「はぁ……スマホとかあれば、事前に調べられて無駄足も防げるのにな」

駿河が額の汗を拭いながらぼやく。

炎天下での空振りは、精神にも堪える。

「本当ですね……。なんでスマホってなくなったんでしたっけ? 技術の後退ですか?」

「それなら海外から取り寄せればいいだけだろ。こういうのは大抵、政治的なイデオロギーだ。確か……電波が生命体に悪影響を及ぼすとか、そんな理屈だったはずだ」

「ホント、馬鹿らしい世界ですね」

和奏が吐き捨てる。


目的地を失った駿河たちは、しばし無言で立ち尽くした。

閉ざされた図書館の扉。色褪せた張り紙。風に揺れる雑草の音だけが、やけに大きく聞こえる。

誰もが、うすうす感じていた。ここでは何も得られない、と。

駿河が小さく舌打ちする。

甲斐は腕を組み、空を仰ぐ。

和奏は唇を噛みながら、閉館案内の紙を睨みつけていた。

「……どうします?」

和奏の問いは、わずかに掠れている。

駿河はしばらく考え込み、やがて視線を川の向こうへ向けた。

そこには、山の稜線が重なっている。

「行くか」

短い一言。

甲斐が首を傾げる。

「どこへ?」

駿河は、ゆっくりと答えた。

「焼けた神社だよ」

一瞬、空気が変わる。

風が止まったような錯覚。

――――栄丸神社。

子供の頃に駆け回った場所。そして、燃やされた場所。

和奏が小さく息を呑む。

「……栄丸神社、ですか」

その名には、ただの観光地ではない響きがあった。

駿河は一歩、踏み出す。

「図書館がダメなら、あそこしかないだろ」

半ば自分に言い聞かせるような声だった。

甲斐は肩を竦める。

「焼け跡観光ってわけか。スリル満点だ。呪われたりするかな~」

「縁起でもないこと言わないでください」

和奏が即座に返す。

それでも、足は止まらなかった。


こうして話し合いの末――いや、半ば無言の了解のうちに、次の行き先は定まった。

焼失した――栄丸神社。

駿河を先頭に、三人は歩き出す。

その背中を、強い夏の日差しが照らしていた。

お読みいただきありがとうございます。

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