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居酒屋ゆうちゃんの常連客は、すでに顔ぶれが揃っていた。
これ以上の来店者など、これまで一度もなかったし――本来なら、あり得ない。つまり、今この瞬間は、本来であれば警戒すべき状況だった。
だが、酔いが回り、冷静な判断力を欠いていた駿河たちは、ある者は気にも留めず、ある者は気づきすらせず、馬鹿騒ぎを続けていた。
唯一、素面の園島だけが、微かな違和感を覚えていた。
わずかに身構えながらも、店主としての習慣を崩さない。
「いらっしゃい」
その声に重なるように――
「お前達は、なにをしているんだ!」
怒号が、店内を駆け抜けた。
一瞬の静寂。
笑い声も、グラスの音も、すべてが止まる。
駿河たちは騒ぎを中断し、ゆっくりと声のした方へ視線を向けた。
そこに立っていたのは、スーツ姿の長髪の男だった。
血走った目。硬直した顎。
暖簾を乱暴にくぐり抜け、そのまま仁王立ちになる。
その男――高根。
かつて、廃墟同然の神社で駿河を集団暴行した男のリーダーである。
つまり、駿河とは初対面ではない。
だが、あの時の駿河は気が動転しており、相手の顔を記憶する余裕はなかった。一方の高根は覚えている。もっとも彼の場合は、怒りに支配され、周囲が見えていないが…。
そして――
高根の背後には、無言で控える二人の部下の姿。
場の空気が、静かに軋み始めていた。
「お前達はいったい何をしているんだ! ……まさか……酒を呑んでいるのか! なんてことだ。責任者は誰だ! 出てこい!」
唾を飛ばしながら怒鳴る高根。その剣幕は凄まじく、通常であれば誰もが竦み上がる場面だった。
だが、酒の力で気が大きくなっている駿河たちの反応は鈍い。その鈍さが、かえって高根の怒りを助長する最悪の流れとなった。
「なによ。お兄さん、藪から棒に。そんなんじゃ女の子に嫌われちゃうわよ?」
大島が面白半分に煽る。夏川と清水は一瞥しただけで、再び二人の世界へ戻る。駿河はまったく意に介さず、しゃっくりをしながら麦酒をあおっている。
そして最悪だったのは――
嘔吐を終え、ふらつきながらトイレから戻ってきた甲斐である。
「おっ、カチコミですか? たのもーってか。ウハハ」
そう言って、高根の肩に気安く手を置く始末。
唯一、和奏だけが危機感を察していた。椅子の陰に身を縮めるようにして、姿勢を丸める。
「……はい。私が責任者の園島です」
厨房越しに、園島が名乗り出た。声は落ち着いているが、表情は強張っている。
高根の醸す険悪な空気。
かつての店荒らしの記憶が脳裏を掠めたのか、園島の顔はわずかに引き攣っていた。
高根は、肩に置かれた甲斐の手を乱暴に振り払う。
「お前、自分が何をやっているのか分かっているのか! ここまで悲惨な光景を見るのは初めてだ。なんてことをしているんだ! 重罪だ! 即刻、店を畳め!」
標的を定めた猛獣のように、園島へ詰め寄る。
園島は思わず後ずさり、その拍子に右手に持っていた包丁を取り落とした。
――カラン。
乾いた金属音が、店内に響き渡る。
その音が合図だったかのように、駿河たちもようやく異常事態を察し、口を閉ざした。
再び訪れる静寂。
床に落ちた包丁の反響だけが、いやに長く耳に残る。
「申し訳ありません。ですが……違法なことをしているわけではありません。店を畳めと言われましても、お客様もいらっしゃいますし……」
脂汗を滲ませながら、園島は必死に言葉を紡ぐ。
その態度に、高根の瞳孔がじわりと開いた。
低く、ドスの利いた声が落ちる。
「……なんだ、逆らうのか? そういう問題じゃないだろう!」
一歩、踏み込む。
「世界では、飢えに苦しむ動物が何億といるんだぞ! 人類による地球破壊が繰り返され、生態系は崩壊し、数多の命が今この瞬間にも悲鳴を上げている!」
怒号は止まらない。
「そんな悲惨な現実を前に、知らないでは済まされない! 嘆かわしいとは思わないのか! それなのになぜ! 能天気に酒を呑んでいられる! 理解できん! 不謹慎極まりない!」
ほとんど発狂だった。
夏川、清水、大島は――今さらながら、自分たちが最悪の状況にいることを理解した。
酔いは一気に冷め、顔から血の気が引いていく。俯いたまま、視線を上げることすらできない。店内の空気は、完全に張り詰めていた。
そんな中――
「まぁまぁ、そう目くじら立てなくても。あんたもほら、これでも呑んで」
拒絶された直後だというのに、空気を読まない甲斐だけが、相変わらず気安い調子でジントニックの入ったグラスを高根へ差し出す。
次の瞬間。
パシン、と乾いた音が響いた。
高根の手が、甲斐の手首を横から叩き払ったのだ。
甲斐の指先が宙で弾かれ、グラスは軌道を失い、ゆっくりと傾く。
ほんの一拍の、無音。そして――落下。
床へ叩きつけられたグラスは、激しい衝撃とともに砕け散った。乾いた破裂音が、狭い店内に鋭く反響する。
透明な破片が灯りを反射し、刃物のような光を放ちながら四方へ散った。ジントニックが弧を描いて飛び、床板を濡らす。
「おいおい、乱暴だな……すみません園島さん。片付けますね」
甲斐は、場違いなほど軽い調子で笑いながら、屈み込む。空気の変化に気づいていないのか、気づかないふりをしているのか。
手のひらを床に近づける。
指先が、鋭い破片に触れようとした、その瞬間――
「――甲斐が拾う必要はない」
声は低く、しかし店内の奥まで通った。
空気が、裂けた。
全員が、反射的に振り向く。
その怒声を発したのは、駿河だった。
椅子が軋む音が、やけに大きく聞こえる。最悪の状況で、最悪のタイミング。
彼は、よりにもよってこの瞬間に、癇癪を起こしてしまったのだ。
ゆっくりと立ち上がる。
酔いで足元はわずかに揺れている。だが、その動きは妙に静かだった。
目が、異様だった。
焦点が合っていない。
しかし、確実に何かを捉えている。
瞳孔が開き、黒目が不自然に光を吸い込む。
呼吸は浅く、しかし規則正しい。
怒りというより――
何か別の回路が、起動している。
周囲の音が、遠ざかる。
園島の荒い息。
大島の小さな「やばいわね……」という呟き。
夏川の喉が鳴る音。
すべてが、水の底から聞こえてくるように鈍い。
駿河の中で、何かが切れた。理性の糸が、ぷつりと。
駿河がゆらり、と一歩前へ出る。
足元でガラス片が鳴る。
それでも気にしない。
高根の血走った目を、真正面から見据える。
その視線は、酔った人間のそれではなかった。
「……なんだと?」
高根の声が低く落ちる。
だが駿河は、瞬きすらしない。
そう―――覚醒していたのだ。
それは酔いの勢いではない。長く溜め込んできた鬱屈と、抑圧と、退屈と、怒り。
生病に押し潰され続けた日々の、歪んだ臨界点。
この瞬間だけは、彼の中で、何かが“正常”だった。
嵐の前の静寂が、店内を覆う。
誰も動かない。
誰も息を吐かない。
ただ一人、駿河だけが、立っていた。
「……なんだと?」
高根が、ぎろりと鋭い視線を駿河へ向ける。
だが、駿河は臆さない。
そして、低い声で言い放った。
「お前が拾えよ」
――静寂。
嵐前の、あまりにも重い静けさ。
それは単なる口答えではない。明確な挑発。明確な売り言葉。
もう、後戻りはできない。
どれだけ謝罪を重ねようと、取り返しはつかないだろう。駿河は、考え得る最悪の態度を選んでしまったのだ。
甲斐を除く全員が、迫り来る惨劇を覚悟し、息を呑む。
店内には、砕けたガラスの破片と、張り詰めた沈黙だけが残っていた。
「お前!何様だ!」
「お前こそ何様だ!」
高根の怒号に、間髪入れず怒鳴り返す駿河。
和奏は「あわわ……」と声にならない声を漏らし、さらに身体を丸めて頭を抱え込む。
園島が慌ててカウンターから身を乗り出した。
「ちょ、ちょっと駿河くん――」
制止しようと伸ばした手を、駿河は大きく振り払う。
「お、ま、え、が落としたんだからな」
指を突きつける。一音ずつ、噛みつくように。
「お、ま、え、が拾うのが筋だろ」
頻りに人差し指を差し出し、まるで獲物を追い詰めるように煽る。
「大体どこが不謹慎なんだ?目の前に飢えに苦しむ子がいるならまだしも、いもしない相手をどう気遣えっていうんだ?」
一歩、詰める。
「お前の発言は根本的にずれてんだよ。偽善と欺瞞に満ちてて、吐き気がする」
さらに一歩。
「俺らを止めて、いったい誰が助かるっていうんだ?言ってみろよ?」
店内の空気が凍りつく。
高根の顔がみるみる赤く染まっていく。こめかみが痙攣し、首筋の血管が浮き上がる。
「お、おみぇや……ふざ……!」
言葉にならない雄叫び。
地団駄を踏み、今にも飛びかからんばかりに身体を震わせる。
だが――
躊躇なく先に動いたのは、駿河のほうだった。
「なんだ。やんのかボケ!」
バンッ!
テーブルを激しく叩く音が店内に炸裂する。グラスが跳ね、皿が揺れる。
そのまま猛然と踏み込む。
まるで獲物を捉えた猛獣のような勢いだった。普段威張っている人間ほど、真正面から牙を剥かれると脆い。
血走った目で至近距離まで詰め寄られた瞬間――
高根の足が、止まった。
一歩、下がる。さらに、下がる。
そして、腰が抜けた。
どさり、と尻餅をつく。
予想外の光景だった。
目を伏せていた和奏も、思わず顔を上げる。
形勢は――意外にも、駿河に傾いていた。
「なに寝てんだ。立てよ!オラ!」
駿河が手を伸ばす。
「ひっ……!」
情けない声を漏らしたのは、高根のほうだった。さっきまでの威勢は、跡形もない。
目は泳ぎ、顔は青ざめ、肩は震え、後ずさる。
背後に控えていた部下二人も、ただ立ち尽くすだけ。誰一人、前に出られない。
「だ、だって……他の生き物達が……可哀想……」
それでも、必死に言葉を絞り出す。
だがその声は、震え、途切れ途切れだった。
「だったらこんなところで油売ってねぇで、山奥にでも引っ込んでろよ!」
駿河の怒号が炸裂する。
ビクッ、と高根の肩が跳ねる。
次の瞬間――
「あっ……」
気の抜けた声。
じわり、と。スーツのズボンが、色を変える。みるみる濡れ広がり、やがて床へと滴り落ちる。
ぽたり。ぽたり。
静まり返った店内に、水音が響いた。
高根は、失禁していた。
勝敗は、火を見るよりも明らかだった。
高根はよろよろと立ち上がり、部下に支えられるようにして後退る。視線を合わせることもできないまま、逃げるように暖簾をくぐった。
足音が遠ざかる。
残されたのは、床に広がる水溜まりと、割れたガラスの破片。
数秒の沈黙。
そして――
ニタニタと含み笑いを浮かべながら、その水溜まりを見つめていた甲斐が、ぽつりと口を開いた。
「……おい。この小便、誰が片付けるんだ?」
あまりにも間の抜けた疑問だった。
緊張の糸が、ぷつりと切れる。店内に、遅れて息が戻った。
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