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吠えろ!ガラクタ~塵芥戦術~  作者: 堀尾 朗
第8章「全平教襲来」
31/42

—1—

 相変わらず、この世界は退屈である。

朝起きて、出社し、意味のない始末書を書く。そして“パトロール”と称して、平和ボケした街を散歩するだけの日々。

昔は違った。

喧嘩の仲裁、落とし物の届け出、痴漢騒動、詐欺騒動、酔っぱらいの保護、未成年の補導――日本もそれなりに騒がしい国だった。

だが今は、良くも悪くも完全なる平和国家。その代償が、底の抜けた退屈だ。

向かいの席では、剃り込み入りの丸刈りに、額へ「肉」と刻まれた同僚――湯川が、今日も律儀に始末書を書き続けている。

退屈しのぎに無駄話の一つでもしたいところだが、生病は無駄話を嫌う。

趣味の話も、恋の話も、学生時代の思い出話も、この世界では“不要な会話”とされる。

駿河は、薄く伸び始めた湯川の剃り込み部分を、ぼんやりと眺めた。

あんな見た目で、普段どう生活しているのだろうか。

後ろ指を差されないのか。

野次られたりはしないのか。

彼は、自分に浴びせられた暴言だと理解しているのだろうか。鏡を見て、発狂したくなる瞬間はないのだろうか。

「湯川さん。その髪と額のそれ、なかなか厳ついですね」

「職務と関係のないことを喋らないでくれますか?」

淡々と返される。

職務に相応しくない髪型はやめてくれませんか――

その一言は、喉元で溶けた。


―――この国の人々は、どうやって”恋愛”をしているのだろうか?

十年前の感覚であれば、当然、疑問に思うところだろう。それは駿河も、同じように疑問に思うところだった。

彼も一端の男である。

人並みに性欲もあれば、恋愛にも興味はある。だが、そこに辿り着く道程が、まったくわからない。

まともに対話できるという意味では、当然、和奏が第一候補に挙がる。

だが、あれだけの美人であるにもかかわらず、なぜか駿河には今ひとつピンと来ないようだった。


―――生病の人間は、恋をしないのか?

この疑問の答えは、半分は「しない」であり、もう半分は「否」である。

なぜなら、十年以上前と比べても、婚姻率も出生率も低下していないからだ。つまり、日本人は生病に侵されながらも、やるべきことはやっている。

これは、生病が性嫌悪的な一面を持ちながらも、反出生主義ではないことと関係している。

子孫を残すという目的がある限り、性行為は許容されるのだ。


―――では、どうやって恋仲となるのか?

愛し合う仲、という意味での恋仲は存在しない。

ここには、生病の生態が深く関わっている。個人差こそあれ、生病は一定の年齢に達すると「子孫を残したい」という欲求を生む。

そこに、同じく発情期を迎えた未婚の異性がいれば、それだけでカップリングは成立する。

告白も、求愛も、駆け引きもない。

原理としては、発情期を持つ動物と大差ない。

これを進化と呼ぶか、後退と呼ぶか――意見の分かれるところだろう。


―――では、年中発情期の駿河や甲斐はどうなるのか?

実は、チャンスはいくらでも転がっている。要は、発情期の異性を探せばいいだけの話だ。

だが、彼らは選り好みをする。

そして、勝手に拗らせる。

そもそも根本的に性格が合わないのだから、仕方がないのだ。


「そういえば、湯川さん。結婚したんですってね。おめでとうございます」

額の「肉」が、正面から駿河を捉えた。

やがて、その一文字がわずかに歪む。

「職務と関係のないことを喋らないでくれますか」

肉が元の位置に戻り、視線は再び横を向いた。

湯川が婚姻届を提出したのは、昨日のことだ。

相手は近所に住む幼馴染の娘。

偶然、帰宅時間が重なり、再会し、また偶然にも発情期が重なり、惹かれ合った。

不真面目病患者的観点からすれば、十分に運命的である。

お盛ん真っ盛り。

額に「肉」を刻んだその男は、今まさに発情期を迎えている。

池袋東口交番は、今日も退屈である。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 居酒屋ゆうちゃんの暖簾をくぐると、先客に和奏の姿があった。

四人掛けのテーブルを一人で占拠し、白紙のノートと睨めっこをしている。何やら真剣に考え込んでいるらしい。

普段の彼女なら、誰かが入店すれば明るい声で挨拶を飛ばすところだが、今日は違った。

ちらりと視線を上げ、軽く会釈をするだけで、すぐにノートへと戻っていく。

「ここは図書館でもなければ、カフェでもないんだけど……」

駿河が嫌味半分でそう言ったが、どうやら通じなかったらしい。和奏はぽかんと口を開け、首を傾げた。

これは、いわゆるジェネレーションギャップというやつである。

試験前になると友人と図書館やカフェに集まり、無駄話七割、勉強三割という時間を過ごしていた世代の駿河。一方、学生時代の大半が生病席巻後だった和奏の世代には、そうした風習そのものが存在しないのだ。


しばらくして、甲斐、夏川、そして清水が入店してきた。

……はて、清水とは誰ぞや。

「店主、いつもの」

常連のような顔でそう言っているが、この店に来たのはつい先週が初めてである。

彼こそが、夏川の話にたびたび登場していた“気の合う同僚”だ。一見すると毒気のない顔立ちだが、実際はかなりの毒舌家で、社内の愚痴を延々と喋り倒す。

駿河たちともすぐに打ち解け、こうして仕事終わりに顔を出すようになった。

とはいえ、重要人物というほどではない。

今後も夏川のおまけとして、モブの役割を粛々と全うし、野次に徹するだけだろう。

ちなみに私は、駿河と共にすでに入店している。

意味不明な奇声を発しながら、店内を飛び回っている最中だ。

相変わらず、誰からも見向きもされていない。なんとも哀れな存在である。


酒も進み、店内がじわじわと騒がしくなり始めた頃。

和奏は溜め息混じりにノートを閉じた。

「もう今日はやめよ」

一文字も書いていないのに、なにが“もう”なのかはさておき。彼女はノートを鞄に押し込み、ゆらりとカウンター席へ移動すると、大袈裟にテーブルへ突っ伏した。

「なにやってたんだ?」

まったく興味はない。

だが、全身から漂う“構ってください”の圧に負け、駿河は一応訊ねる。

和奏は芝居がかった動きで、前髪を亡霊のように垂らし、憂鬱そうに顔を上げた。

「卒論ですよ。全然テーマが決まらなくて困ってるんです。友達にも相談してるんですけど、イマイチやる気が起きなくて……」

――恐ろしいことに、彼女に友達はいない。

その渾身の悩みを、容赦なく粉砕する男がいた。

「卒論か。それなら、ゲームをテーマにするのはどう?なんなら僕も手伝おうか」

赤ら顔の甲斐である。

有難迷惑の極み。

意味不明な提案に、和奏は一瞬で興味を失い、

「はぁ〜。考えときます」

と、雑に受け流しながらカシスオレンジに口をつけた。


この日も、居酒屋ゆうちゃんは大盛況だった。

新商品について熱弁を振るう夏川と清水。

生病の悪口に花を咲かせる駿河。

それを腹を抱えて笑う和奏と甲斐。

中には、湯川に対する私の悪戯話も、含まれている。

「こいつ余計なことばっかすんだよ。職務中の同僚の髪を、毎回へんてこな髪型に変えるんだ。お陰でうちの交番はサーカス団みたいになっちまってるよ」

「ヘンテコじゃないよ〜。あれぞお洒落の真骨頂さ〜」

私は照れくささを装いながら、店内を飛び回った。

「大島さんに刺されろ」


それにしても、喧しいにも程がある。

怒鳴り声と笑い声が重なり、グラスのぶつかる音が跳ね、椅子が軋む。そのすべてが混ざり合い、店内は小さな嵐のようだった。

日本中を探しても、これほど遠慮のない騒がしさを許された場所はあるまい。

それは、かつての居酒屋が持っていた、あの雑多で無遠慮で、それでいてどこか温かい騒音と、何ら変わらないものだった。

生病が日本を席巻して以来、人々は声の大きさを抑え、感情の振れ幅を削り、笑い声でさえ慎むことを求められてきた。

心の底から笑うことは、軽薄で、不真面目で、慎みを欠く行為とされてきた。

だからこそ――

腹を抱えて笑い、意味もなく騒ぎ、どうでもいいことで盛り上がるこの時間が、彼らにとってどれほど貴重なものか。

――――想像に難くない。

それは単なる馬鹿騒ぎではなく、生きていることを確かめ合う、ささやかな反逆だった。

――それもこれも、天照大神復活以降、彼らを邂逅へと導いた私の功績である。


さてさて。

馬鹿騒ぎが続く中、更なる入店者によって、場の熱気は最高潮へと達しようとしていた。

「あら〜今日も盛り上がってるわね〜。外まで響いてたわよ。アタシも混ぜて〜」

店内に響き渡るダミ声。

彼女はドカドカとカウンターへ進み、和奏と甲斐の間にどっしりと腰を下ろす。

運ばれてきた麦酒を一気に飲み干し、空のジョッキをドンッと置いた。

「大島さ〜ん。聞いて下さいよ〜」

和奏の甘えた声が続く。


一時間、二時間と過ぎる頃には、全員すっかり出来上がっていた。

奇声。

悲鳴。

大袈裟な豪笑。

騒ぎたい放題。

当然、笑い声は店外にも漏れ出している。

静まり返った上野の旧アメ横は、その一角だけが異様な熱を帯び、かつての賑わいを彷彿とさせていた。


そんな平和なひととき。

しかし――

荒々しい音を立てて扉が開かれたのは、調子に乗り過ぎた甲斐が、嘔吐のためトイレへ駆け込んだ、まさにその瞬間だった。

お読みいただきありがとうございます。

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