—6—
それから一週間後。
駿河と甲斐は、居酒屋ゆうちゃんで揃って頭を悩ませていた。
隣の席には、難しい表情のまま固まっている夏川の姿もある。
「どうして急に現れなくなったんだろうな」
駿河が、湯気の立ちのぼる湯呑みを見つめたまま、ぽつりと呟いた。独り言に近い声だったが、店内の静けさのせいで、妙にはっきりと耳に残る。
「さあな。駿河が余計なことをしたから、拗ねちゃったんじゃないか?」
甲斐は肘をつき、どこか他人事のような口調で言う。
軽口のつもりだったのだろうが、その言葉は容赦なく胸に突き刺さった。
「俺のせいかよ!」
駿河は思わず声を荒らし、すぐに口をつぐんだ。
怒鳴り声が反響するはずだったが、返ってきたのは、妙に乾いた静寂だけだった。
「それにしても、なんてタイミングの悪い話だ……」
駿河は肩を落とし、カウンターに額を寄せる。
「念願の娘だぞ。しかも今度は、ちゃんと……対等に会話できるっていうのに」
言葉の最後は、かすれて消えた。
十年分の期待と、ほんの一瞬だけ見えた希望が、胸の奥で絡まり合っている。
「ほんと、羨ましい限りよ」
カウンター越しに、園島がだし巻き卵の皿を差し出しながら、低くぼやいた。
その手つきは慣れたもので、卵は綺麗な長方形を保っている。だが声には、いつもの軽さがなかった。
「そういえば園島さんも、娘さんがいるんでしたっけ?」
駿河は、少し躊躇いながら尋ねた。
踏み込んではいけない話題だと、どこかで分かっていながら。
「ああ……」
園島は一瞬、視線を宙に泳がせた。
だし巻き卵を置いた手を、エプロンで無意識に拭う。
「十年前にな。女房と一緒に、出ていっちまった」
店内に、微妙な沈黙が落ちる。
油のはぜる音も、グラスの氷の溶ける音も、やけに大きく感じられた。
「歳は……そうだな」
園島は顎に手を当て、しばらく考える素振りを見せる。
「和奏ちゃんと……同じくらいになるかな」
一瞬の沈黙。
その言葉が示すのは、十歳前後で引き裂かれたという現実だった。
あまりにも幼い。
そんな年齢で強引に切り離されたのだとすれば、残された傷の深さは想像に難くない。
園島の言い方は、どこか距離を測るようで、同時に、正確な年齢を思い出すことを無意識に避けているようにも聞こえた。
「……そうなんですか」
駿河は、それだけ言うのが精一杯だった。
慰めの言葉も、気の利いた相槌も、喉の奥で引っかかって出てこない。
何を言えば正解なのか分からない。そもそも、正解など存在しないのかもしれない。
駿河が次の言葉を探して視線を伏せた、その瞬間――
「すみません! 遅れました!」
勢いよく引き戸が開き、冷たい外気とともに、和奏が慌ただしく店内に駆け込んできた。
息は上がり、髪は乱れ、頬はわずかに紅潮している。
その切迫した様子に、重く沈んでいた空気が、わずかに揺れ動いた。
「後藤さんの居場所、わかりましたよ!」
掲げた手には、くしゃくしゃになった紙切れが握られている。
息を切らした和奏をひとまず落ち着かせ、事情を聞く。どうやら、後藤の住所を入手することができたらしい。
「おお……すごいな」
駿河は感心しつつも、率直な疑問を口にした。
「しかし、どうやって手に入れたんだ?」
役所は個人情報――特に不真面目病患者の情報については、徹底的に秘匿している。
不真面目病同士が手を組むことを恐れての措置だが、表向きは“プライバシー保護”という建前になっている。
「それはまぁ……その手に詳しい友人がいまして」
和奏はそう言いながら、視線をわずかに右へ逸らした。
空のグラス、壁の張り紙、天井の照明――目は落ち着きなく泳ぎ、駿河と目を合わせようとしない。
「その手って……住所の?」
「ええ、まぁ……」
語尾が不自然に伸び、言葉尻が弱くなる。
指先は無意識に紙切れの端を折り曲げ、また戻し、同じ動作を繰り返していた。
和奏は嘘をつくのが、壊滅的に下手だ。何か後ろめたい事情を隠していることが、ありありと伝わってくる。
だが、今それを追及している場合ではない。
「とにかく、善は急げです。ひなたちゃんはどこですか?」
「ああ、それなら僕が連絡するよ」
甲斐はそう言って、すぐに身支度を始めた。
科学の後退により、携帯電話はすでに過去の遺物だ。
遠方の相手と連絡を取る手段は、固定電話しか残されていない。
甲斐とは一旦ここで別れ、後藤の住むアパートの最寄り駅で落ち合うことになった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
足立区豊川駅。
閑散とした商店街に沿うように設えられた、小さな駅だった。
上りと下りをつなぐ連絡通路が一本あるだけで、改札も一つ。
人の流れをさばくというより、”最低限の機能だけを残した”と言わんばかりの簡素な造りである。
駅前の指定場所――改札前で、駿河と和奏、そして私の三人は、立ったまま時間を潰していた。
時計を確認する者はいない。
そもそも、この時代では”時間に追われる”という概念自体が、どこか形骸化している。
やがて、改札の向こうに小さな人影が現れた。
制服姿の少女が、一瞬こちらを見回し、視線を見つけると、軽く会釈をして歩み寄ってくる。
先に現れたのは、ひなただった。
「今日はありがとうございます……。なんとお礼を言えばいいか……」
控えめな声。
両手を揃え、深く頭を下げる仕草は、年齢以上に律儀だった。
「まだ会えたわけじゃないしさ。そんなに気を遣わなくていいよ。どうせ暇だし」
そう言って笑う駿河に、ひなたは戸惑ったように視線を上げる。
ひなたは、礼儀正しい子だった。
あの時――かつて後藤に対して見せた、年長者への非礼な態度が、まるで別人のように思える。
それほどまでに、生病は人格を歪めてしまうものなのか。駿河は内心で、そんなことを考えていた。
「いいよ〜。ひなたちゃん可愛いし」
私が調子よく飛び回ると、和奏がすかさず舌打ちを飛ばしてくる。
「……静かにして」
「で、でも…」
ひなたが、不安を隠しきれない表情で口を開いた。
「仕事中とかで、家にいなかったら……どうしましょう」
「待つしかないよ。来るまで」
和奏は即答した。
平日である以上、仕事に出ている可能性は高い。とはいえ、すでに空は夕方の色を帯び始めている。待つとしても、数時間程度――そう踏んでの判断だった。
しばらくして、甲斐も合流し、五人は連れ立って後藤の住むアパートへ向かった。
目的地は、駅から徒歩十分ほど。
住宅街の外れに、ひっそりと建っていた。
そこは――
駿河の住むオンボロアパートと、ほとんど遜色がなかった。
外壁はくすみ、ところどころ塗装が剥がれている。階段の手すりには錆が浮き、足元には掃除されないままの砂埃が溜まっていた。
そして、扉の前。
そこには、駿河にとっては見慣れた光景があった。
罵詈雑言を並べ立てた張り紙が、無遠慮に貼り付けられている。
「……お父さん。こんなところに、住んでるの?」
ひなたの声が、震えた。
驚きと困惑と、言葉にできない感情が、瞳に広がっていく。
「不真面目病と診断された場合の実態は、こんなもんだよ」
駿河は淡々と告げた。
「ひなたさんも、気をつけた方がいい」
その一言で、ひなたの表情はさらに沈んだ。
見かねた和奏が、すぐにフォローに入る。
「大丈夫。今度、隠し通し方を教えてあげるから」
軽く笑って、胸を張る。
「ほら、わたし、一丁前に大学生やれてるでしょ?」
「……ありがとうございます」
その言葉に、ひなたの表情がわずかに緩んだ。
「では」
甲斐の短い合図で、場の空気が一気に引き締まる。
インターホンを鳴らす。
しかし、返事はない。
もう一度。
それでも、反応はなかった。
不在だと判断し、一同はアパートの出入口付近で、待ち伏せすることにした。
「というか……三人も、いらなくないか?」
駿河のもっともな疑問に、三人は口を揃えて答える。
「だって、暇だし」
もしこの場に生病がいたら、そんな暇があるなら、街を掃除しろ、祈れ、平和について考えろ、生物保護活動に勤しめ――
そう目くじらを立てたことだろう。
だが、彼らは気楽な身分だった。
やがて日が沈み、街灯が一つ、また一つと、規則正しく灯り始めた。橙色の光がアスファルトを照らし、昼と夜の境界を曖昧に塗り替えていく。
それでも――
後藤は、姿を現さなかった。
「……ん?」
沈黙を破ったのは、駿河だった。
アパートの二階を見上げたまま、眉をひそめる。
「点けっぱなしかな?」
その視線の先。後藤の部屋の窓に、ぼんやりと明かりが灯っている。
「帰ってきてたのに、見落としたのかな?」
ひなたの声には、期待と不安が入り混じっていた。
「いや……四人で見張ってたんだぞ」
甲斐が首を横に振る。
「それは考えづらいだろ。さっきはインターホンに気づかなかったか、それとも居留守を使われたか……」
一瞬、言葉を区切り、考え直す。
「いや、外が明るいうちは、点いてても気づきにくかっただけか。最初から、ついてた可能性もあるな」
どれも決め手に欠ける。
考えても、答えは出ない。
「……もう一度、鳴らそう」
そうして一同は、再び扉の前へと移動した。
インターホンを押す。電子音が虚しく響く。しばらく待つ。
――反応はない。
もう一度。
それでも、中から物音ひとつ聞こえてこなかった。
「……おい」
甲斐がドアノブに手をかける。
「開いてるぞ」
鍵はかかっていなかった。
不躾と無用心の共演により、その扉はあっさりと開いた。
その瞬間。
「……なんか、臭くないですか?」
和奏が顔をしかめ、小さく後ずさる。
確かに、鼻をつく。生臭さとも、腐敗とも違う、湿った空気に混じった、説明しづらい異臭。
「……お邪魔します」
最低限の礼儀として声をかけ、半開きだった扉を、ゆっくりと全開にする。
部屋の中は、薄暗かった。
生活感の乏しいワンルーム。
散らかった様子はないが、空気が澱んでいる。
そして――
机に突っ伏すようにして、後藤がいた。
微動だにしない。
背中は丸まり、腕はだらりと垂れ下がっている。
「……なんだ。いるじゃないか」
甲斐が、安堵とも困惑ともつかない声を漏らした。
「お父さん!」
その一言と同時に、ひなたの身体が跳ねた。考えるより先に足が動き、椅子の横まで一気に駆け寄る。膝をつき、息を整える間もなく、身を屈めた。
その様子を玄関先から見つめながら――
駿河の胸の奥に、嫌な感触が引っかかっていた。生きている人間特有の“気配”が、
そこには決定的に欠けていた。
「お父さん……」
ひなたは、少しだけ間を置いてから、声をかけた。声の調子を無理に明るく整え、ぎこちなく笑う。
「久しぶりだね。えへへ……」
片手で自分のスカートの端をつまみ、もう片方の手を、恐る恐る父親の肩へと伸ばす。
「わたし……わかる、かな……」
指先が、肩に触れた。
その瞬間――
ひなたの身体が、ぴたりと止まった。
「……え?」
肩を軽く叩いたはずの手が、あり得ないほど冷たく、硬い感触を返してくる。
「えっ……」
もう一度、力を込めようとして、そのまま、膝の力が抜けた。
「……え……お父さん……?」
音を立てて、ひなたはその場に尻もちをついた。
床に手をつき、呼吸が浅くなる。
「……う、嘘……でしょ……?」
言葉が、ばらばらに零れ落ちる。
―――――――後藤は、すでに亡くなっていた。
卓袱台の上には、蓋を開けられないまま固まったコンビニ弁当。
指で触れれば崩れそうなほど、埃をかぶったアルバム。
死後、かなりの時間が経過していることは明らかだった。
部屋全体には、生温い空気に混じった、耐え難い異臭が漂っている。
数匹のハエが、低い羽音を立てながら集っていた。
六畳一間の室内には、床置きのテレビ、卓袱台、敷きっぱなしの布団。
それだけしかない。
余白ばかりの、あまりにも簡素な空間。
そこには、彼が誰にも看取られず、一人きりで最期を迎えた現実が、無言のまま横たわっていた。
そんな中で――
唯一、色を持っているものがあった。
部屋の隅に並べられた、いくつもの写真立て。
七五三の写真だろうか。
真っ赤な振袖を着せられた幼いひなた。
その隣で、礼服姿の後藤と、穏やかに微笑む妻。
動物園の象の前で、満面の笑みを浮かべ、ピースサインをするひなた。
手持ち花火を、両手で大事そうに見つめるひなた。
校門の前で、友人たちに囲まれ、笑い声が聞こえてきそうなひなた。
一方――
卓袱台の上で開かれていたアルバムには、ひなたの姿は一枚もなかった。
並んでいるのは、風景写真ばかり。
公園の遊具。
雑草が生い茂った空き地。
薄暗いゲームセンターの室内。
写真の下の余白には、一枚ずつ、丁寧な文字で言葉が添えられている。
【ひなたのお気に入りの遊具】
【家族三人で暮らしていた土地】
そして――
ゲームセンターの写真の下。
【ついさっきまで、ひなたが立っていた場所】
「……あ……あぁ……」
ひなたは、その文字を目にした瞬間、声にならない音を漏らした。
次の瞬間――
彼女は、冷たくなり、異臭を放つ父親に縋りついた。
腕を回し、顔を胸元に埋める。理屈も、ためらいも、もうなかった。
「お父さん……お父さん……!」
喉を裂くような声。
大粒の涙が、止めどなく溢れ落ちる。
肩を震わせ、嗚咽を噛み殺すこともできず、人目も、状況も、すべてを忘れて、泣きじゃくる。
それは、ようやく辿り着いた場所で突きつけられた、
あまりにも遅すぎる再会だった。
お読みいただきありがとうございます。
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