—5—
翌々日。
駿河は気後れした気持ちを胸に抱えたまま、居酒屋ゆうちゃんでちびちびと酒を啜っていた。
そのときだった。
店の外から、階段を踏み外しかねない勢いの足音が響き、直後に引き戸が乱暴に開け放たれた。
場の空気を文字通りぶち破るように、ドタバタと騒がしい音を立てて、甲斐が居酒屋ゆうちゃんに乗り込んできた。
「大変だ!大変だって!」
「……なんだ、騒がしいな。もう少し静かに入ってこれないのか」
「そうです、そうです。わたしは今、勉強で忙しいんです」
居酒屋で勉強している和奏の方がどうかしている気もするが、彼女も同調して不満を口にする。
しかし甲斐がそんな注意に耳を貸すはずもなく、勢いそのままに一方的に捲し立てた。
「聞いてくれよ!あの女の子がさ、なんと――生病を克服したんだ!」
「……は?」
「いや、これ本当なんだって!こんなこと、あるんだな。希望、持てるだろ?しかもさ、あの男……やっぱり父親だったらしいんだよ!」
甲斐は興奮したまま、言葉を畳み掛ける。
「奇跡だよ、奇跡!会いたいんだってさ。父親に!これはもう、是が非でも立ち会わないとだろ?なぁ?なぁ?」
指示代名詞だらけの説明に、和奏は完全に置いていかれていた。
何の話か分からず、ぽかんとした表情を浮かべる。
一方、駿河はすぐに察しがついた。
「あの男」とは後藤のこと。そして「あの女の子」とは、あの日、後藤を執拗に責め立てていた――あの小娘のことだ。
「……その子は?」
和奏が、甲斐の背後を指差して尋ねた。
その瞬間、甲斐はようやく何かを思い出したように振り返り、手招きをする。
「おっと、そうだったそうだった。ほら、入ってきなよ」
甲斐の勢いに気圧されていたのか、少女はまだ敷居を跨いでいなかった。
恐る恐る足を運び、店内に入ると、軽く会釈をする。
「……立花ひなたです」
「そうそう、この子。この子。えーっと……名前、なんだっけ」
「……今、名乗ってたよ」
「立花ひなたです」
「そうそう、ひなたちゃん!」
甲斐のせいで、なんとも間の抜けた紹介になった。
ひなたは、服装こそ相変わらず地味だった。色味を抑えた上着に、飾り気のないスカート。流行を意識した様子はなく、むしろ人目を避けるために選んだかのような無難さがある。
だが、後ろで束ねた髪の位置は、以前よりもわずかに高くなっていた。
きつく結び上げていた頃とは違い、力を抜いた結び方で、少しだけ後れ毛が残っている。その中途半端さが、彼女の迷いをそのまま映しているようだった。
うっすらと施された化粧も、よく見なければ気づかない程度のものだ。
目元は控えめに整えられ、唇には血色を添える程度。決して”着飾った”と言えるほどではないが、それでも――ゲームセンターで見かけた時とは、印象がまるで違っていた。
あのとき纏っていた、他人を切り捨てるためだけに研ぎ澄まされたような冷たさはない。
代わりにあるのは、年相応の若さと、居場所を探すような頼りなさだった。
ひなたは背筋を伸ばしてはいるが、肩にはわずかな力が入っている。視線は定まらず、誰かと目が合いそうになると、反射的に逸らしてしまう。膝元で指先が落ち着きなく動き、無意識にスカートの端を摘んでは、また離す。
――怯えている。
それは、はっきりと見て取れた。
自分がここにいていいのか、何を話していいのか、誰を信じていいのか。
答えを持たないまま、ただ場の空気に置いていかれまいと踏ん張っている。
あの時の、あの“全平教の小娘”の面影は、もうどこにもない。
目の前にいるのは、強さを演じることをやめてしまった、まだ大人になりきれない一人の少女だった。
「それでさー、それでさー。この子が……」
「甲斐さんは黙っててください」
喧しい甲斐をぴしゃりと制し、和奏は静かに立ち上がった。
そして、ふっと柔らかな笑みを浮かべると、明らかに怯えているひなたの方へ歩み寄る。
「何があったのか、よかったら教えてくれる?……わたしでよければ、聞くよ」
年下に寄り添う“優しいお姉さん”を演出しようとする和奏。その声音はやけに穏やかで、仕草もどこか丁寧すぎるほどだった。
もっとも――周囲は全員、その直前に彼女がひなたに近づこうとして躓いた失態を、あえて話題にしないでやっていた。
赤くなった頬と、わずかに強張った笑顔から、必死に取り繕おうとしているのは一目瞭然だったからだ。
ひなたは突然距離を詰められたことに戸惑いながらも、小さく息を吸い、辿々しく口を開いた。
「……正直に言うと、わたしにも、何が起きたのかよくわからないんです」
ひなたは、そう前置きしてから、胸の前で指を組んだ。
「わたしは、いつも通りゲームセンターにいて……職務を、全うしていました」
そこで、ふっと言葉が途切れる。視線が一度落ち、唇がわずかに震えた。
和奏は急かすことなく、柔らかな笑みを浮かべたまま、小さく頷く。
「うんうん」
まるで年下の話を根気よく聞く“優しいお姉さん”のような相槌だった。
その仕草に、ひなたの肩からほんの少し力が抜けた。警戒心が解けたのか、彼女は戸惑いながらも、続きを口にする。
「それが……気づいた時には、公園にいて……」
一瞬、言葉を探すように視線を彷徨わせる。
「……なぜか、すべり台を、すべっていたんです」
語尾は弱く、確信が持てないまま吐き出されたようだった。自分の体験であるはずなのに、どこか他人事のような響きがある。
その光景を思い出しているのか、ひなたの目は宙を泳ぎ、焦点を失っていく。
今この場にいるにもかかわらず、意識の一部は、まだ公園のすべり台の上に取り残されているかのようだった。
「どうしてそうなったのかは、まったく覚えていません。でも……すべり終わる頃には、今まで自分がしてきたことが、急に、すごく怖くなって……」
「……突然、公園に“飛ばされた”ってこと?」
和奏が首を傾げて問いかけると、答えたのは駿河だった。
「ガラクタがやったんだ」
彼女は以前、大島の一件で“神の力”を間近で目にしている。
だからこそ、この突拍子もない話も、驚くほどすんなり受け入れていた。
一方で、厨房の隅で黙々と下ごしらえをしていた園島は、ふと包丁を止めた。
そして、信じられないものでも見たかのような目で、ゆっくりとこちらを振り返る。
「……そんなことまで、できるのか」
その視線は、ごく自然に――私へと向けられていた。店内に、ほんの一瞬だけ、妙な沈黙が落ちる。
私は得意げに胸を張った。
「エッヘン」
すると、私の姿が視界に入ったひなたが、反射的に声を上げる。
「キャッ!」
尻もちをつき、両手をついて後ずさる。
「えっ……なに、この……化物……」
「おい! お前、出てくるな!」
すかさず駿河が怒鳴る。
「ややこしくなるだろ!」
だが、私は気にも留めず、陽気な声を上げながら店内をひらひらと飛び回った。
「……そうか!」
突然、甲斐が何かに気づいたように声を張り上げる。
「そういうことか!そういえば、大島さんも、あの日……急に豹変しなかったか?」
羨望の眼差しを、真っ直ぐ私に向ける。
「確かに……」
駿河も腕を組み、合点がいった様子で唸った。
「お前、本当は何か知ってるんじゃないのか?」
「知りませーん」
私はわざとらしく首を振る。
「私はなーんにも、知りませーん」
どうせ、この手のやり取りはいつも平行線だ。
それ以上の追及は、あっさりと打ち切られた。
深いため息をついた和奏が、場の空気を立て直すように一歩前に出る。
先ほどの失態を取り返そうとしているのが、ありありと伝わってきた。
「ところで……」
声を柔らかく整え、ひなたに向き直る。
「“お父さんに会いたい”っていうのは、どういうことなの?」
「えっと……」
ひなたは視線を落とし、少しだけ言葉に詰まった。
その様子を見て、甲斐がひなたの肩にぽんと手を置き、軽い調子で口を挟む。
「まぁまぁ。そのへんの話は、飲みながら――」
「……い、いや。わたし、未成年なので……」
「……えっ」
甲斐の動きが止まった。
「……それは、まずいね」
未成年の飲酒は重罪である。
未成年に酒を勧めた側も、例外なくアウトだ。即・牢屋行き。
さすがの甲斐も、そこまでの覚悟はなかったらしく、それ以上は強く出なかった。
”生病は、克服できるかもしれない”
その事実だけが、静かに、しかし確かに、全員の胸に灯をともしていた。
だが、肝心の克服方法については、未だ謎に包まれている。
どれだけ頭を捻っても、結論には辿り着きそうにない。
「……この話は、一旦保留だな」
誰ともなく、そんな空気が共有される。
今、優先すべきは――
ひなたの父親の行方を探すこと。
希望の光を胸の奥に秘めながら、彼らは“目の前の課題”へと意識を切り替えていった。
ひなたの父親を探すため、皆で様々な案を出し合った。
だが、肝心の住所が分からない以上、現実的な手段は限られている。結局のところ――
「やっぱり、ゲームセンターで待ち伏せするしかないよな」
という結論に落ち着いた。
その日は、誰がどの時間帯に顔を出すか、簡単な時間割を決めるところまで話し合われた。
「……ごめんなさい」
ひなたが、申し訳なさそうに頭を下げる。
「わたしの我儘に、みなさんまで付き合わせてしまって……」
「いいよ、そんなの気にしなくて」
和奏が、柔らかく笑って首を振った。
「どうせわたしたちも暇な時間はあるし。それに……年が近い子と知り合えたの、正直すごく嬉しいの」
そう言って、少し期待を含んだ眼差しを、ひなたに向ける。
この表情を見る限り、もしここで“友達になるのは嫌です”などと言われたら、和奏はしばらく立ち直れないだろう。
――なお、「みんな暇」という言い回しは、さりげなく失礼だ。
後藤は、かなりの高確率で【ゴールドゲーム】に姿を見せていた。
これまでの様子から考えても、そう遠くないうちに再会できるだろう。
駿河たちは、どこか楽観的にそう考えていた。
だが――
それから一週間が過ぎても。
なぜか、後藤が【ゴールドゲーム】に姿を現すことはなかった。
まるで、忽然と消えてしまったかのように。
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