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海の写し鏡のような青空がどこまでも広がり、世界を見下ろすかのように太陽が君臨している。どうやら高天原は平和らしい。
しかし、その光を真正面から浴びているはずの都心部には、重苦しい空気が垂れ込めていた。天照大御神から授かる日差しという、他星では得難い恩恵を受けてなお、街は鬱々と沈んでいる。
駿河と甲斐は、くすんだ石畳で造られた橋を渡っていた。
前を見ても、後ろを振り返っても、代わり映えのしないコンクリートジャングルが広がるばかりだ。
路面のアスファルトはところどころ剥がれ、凸凹と荒れている。
周囲には、建物から飛び散った硝子の破片が、積もった泥と混じり合って散乱していた。
ビルの一階部分の窓ガラスはほとんどが割られ、外壁の至るところには、カラースプレーによる雑な落書きが残されている。
不規則に並ぶ街灯のいくつかは、歪んだまま修復されることなく放置されていた。
街全体が混沌としており、その荒廃した様は、かつてのアニメで描かれた“世紀末”の風景を思わせる。
そんな中――
この日、駿河は甲斐のたっての希望により、秋葉原にあるゲームセンターへ向かっていた。
「ここが……偉人たちが闊歩した電気街か」
「偉人って、ヲタクだっけか?」
秋葉原の街を前に、甲斐は目を輝かせていた。
彼は、ヲタクという存在に対して、妙な尊敬の念を抱いている。
その理由は単純だった。
彼の座右の銘――【働いたら負け】
この名言を世に生み出した人物が、ヲタクであったと、甲斐は信じて疑わなかったからである。
もっとも、それはかなり雑な偏見だ。
大部分のヲタクは普通に働いていたし、件の“偉大なる引きこもり”は、ほんの一握りに過ぎない。というか、引きこもりである以上、秋葉原に足を運んでいなかった可能性の方が高い。
実際に秋葉原を闊歩していたヲタクたちは、アニメやゲーム、模型や電子工作といった趣味を、仲間と共有するために集っていた人間たちだ。
つまり、意外なほど社交的で、行動力もあったと言える。
だが、細かいことを気にしないのが、甲斐という男である。
「そう。チェックシャツにジーンズ、でっかいリュック。これが当時のヲタクの正装らしいんだ」
そう言って、甲斐は得意げにくるりと一回転してみせた。
大島のアイディアで、頭にはバンダナ、鼻には伊達眼鏡。
なかなかの徹底ぶりだ。
しかし、どうにもヲタク像が古い。
ヲタク文化の歴史は、およそ六十年前に始まり、十年前に消滅するまで、実に五十年に及ぶ。
だが、今の甲斐が再現しているのは、その中でも平成初期に限った、極めて限定的なイメージだった。
しかも、それはかなり美化されている。
当時のヲタクたちがチェックシャツを着ていたのは、こだわりでも信念でもない。流行が過ぎて安くなった服を買った結果、自然とそうなっただけだ。
割合で言えば、一割にも満たない。
にもかかわらず、その姿だけが”ヲタク像”として独り歩きし、いつの間にか歴史になってしまった。
――イメージとは、かくも都合よく、そして雑に作られるものなのである。
ヲタクは、長年にわたる迫害の歴史を辿ったのち、果敢なる勇気と血が滲むような努力の末、二十一世紀に入ったあたりから、ようやく市民権を獲得した。
しかし――それも束の間である。
十年前、生病たちによる弾圧運動が始まると、状況は一気に逆戻りした。
ヲタクは再び異端視され、排除され、やがて完全に淘汰されたのである。
それと歩調を合わせるように、秋葉原という街も衰退していった。
かつて「ヲタクの聖地」として親しまれたことが、皮肉にも災いしたのだろう。
不真面目の吹き溜まり――そんなレッテルを貼られ、人々の関心は離れ、街は意図的に放置され、荒廃していった。
「駿河も、やってもらえば良かったのに」
甲斐がそう言って、にやりと笑う。
駿河の服装は、白いTシャツにデニムジャケット、下は黒のチノパン。無難の極みである。
「やだよ。そんな古臭いの」
――どっちもどっちであった。
「フィギュアとか、今でも売ってんのかな。モンクエのとかあったら欲しいよな」
「いや、別にいらないけど」
「他にもさ、美少女ものとか、昔はあったらしいよ」
「美少女!」
その一言で、駿河の目が輝いた。
「それは……ちょっと興味あるな」
「欲しい欲しい!どこに売ってるの?買いに行こうよ。てか、作ろうか?」
――これは私である。
失念していたが、そういえば私もこの場にいたのだった。
もっとも、会話にほとんど参加させてもらえない上に、話題と無関係なことばかり口にするので、あえて触れられないのも無理はない。
平たく言えば、邪魔なのだ。
……自分でそう評価するのも、なかなか空しいものである。
ゲームセンター【ゴールドゲーム秋葉原店】の看板が遠目に見えた瞬間、甲斐は露骨に表情を輝かせた。足元に散乱する硝子片をザクザクと踏みしめながら、待ちきれない様子で歩調を速める。
周囲のビルの大半はすでにもぬけの殻だった。
シャッターは下りたまま、割れた窓から風が抜け、街全体が死んだように静まり返っている。
そんな中で、ゲームセンターだけが異様なほどの存在感を放っていた。
スピーカーから漏れ出す電子音とBGMが、爆音となって通りに響き渡っている。
街がこれほど変貌を遂げた今でも、ここだけは時間を拒むかのように生き続けていた。
店構えは意外なほど小綺麗だった。
外壁は塗り直したばかりなのか、真っ白で汚れ一つ見当たらない。
電光掲示板は規則正しく明滅し、眩い光がくすんだ街並みに不自然な彩りを与えている。
開放感のある入口には、数台のクレーンゲームが並べられていた。
景品が整然と配置され、ここが”娯楽の場”であることを、通りすがりの誰にでも主張している。
まさに、ゲームセンターの“顔”と呼ぶに相応しい光景だった。
中へ足を踏み入れた途端、忽然と店員らしき人物が現れ、無言のまま軽く会釈をした。
この状況に慣れていない駿河と甲斐は、反射的に体をこわばらせ、曖昧な返事とも頷きともつかない反応を返す。
店内では、ゲーム機のモニターやボタンが鮮やかな光を放っている一方、天井の照明は意図的に抑えられていた。
床に敷かれた絨毯も、落ち着いたシックな色合いで統一されている。
そのため、全体としてはどこか薄暗く、外の荒廃とは別種の閉じた空気が漂っていた。
――ここは、街の死骸の中にぽつりと残された、人工的な“楽園”だった。
「で、何やるの?」
駿河がそう訊ねると、甲斐は「ちょっと待って」と手を上げ、パンパンに膨らんだリュックサックを床に下ろした。
ジッパーを開け、中から取り出したのは一冊のメモ帳。どうやら昨晩のうちに、この店にどんなゲームが置いてあるのか下調べしてきたらしい。
ちなみに、そのリュックサックの中には、どこで使うつもりなのかテレビゲーム機本体まで詰め込まれている。
「えーと……クレーンゲームに、格闘ゲーム、音ゲー、レースゲーム……これは車のハンドルで操作するみたいで、かなり臨場感があるらしい」
指でなぞるようにメモを追いながら、甲斐は独り言を続ける。
「それから、ガンシューティングに……メダル?メダルって何だっけ、これ……」
完全に自分の世界に入り込み、こちらの存在を忘れている様子だ。
駿河は半ば呆れながら、なんとなく周囲に視線を巡らせた。
――店員がやたら多い。
一人、二人……数えてみると、五人もいる。
しかも、客は自分たち以外に見当たらない。
全員が無表情のまま、じっとこちらを見つめていた。
監視されているような視線に、駿河はわずかに背中をこわばらせる。
もっとも、この時代において、ゲームセンターのような娯楽施設に客がいないのは、何ら不思議なことではなかった。
一日中、誰一人として来店しない日など珍しくもない。
むしろ、こうして二人組が足を踏み入れたことの方が例外と言っていい。
だとすれば――
どうして、この店は十年もの間、営業を続けられているのか。
その答えは単純だ。
文化を完全に消し去ることだけは避けたいと考えた一部の政治家が、強引に補助金の枠組みにねじ込み、限られた店舗だけを“生かしている”のである。
もっとも、その政策を主導した人物の名前は、公にはされていない。
もし発覚すれば、メディアを総動員したネガティブキャンペーンを浴びせられ、選挙で落とされるのは火を見るより明らかだからだ。
「よし、クレーンゲームにしよう」
ようやく現実に戻ってきた甲斐が、顔を上げて言った。
「お菓子とか、フィギュアとか、ぬいぐるみとか……盛りだくさんらしい。何か欲しいものがないか、回ってみよう」
二人は、クレーンゲームの筐体が並ぶ一角を歩いて見て回った。
――結果、欲しいものは何一つなかった。
並んでいる景品は、教材、図鑑、日用品といったものばかり。
娯楽施設とは思えないほど実用性に寄り切っており、遊び心というものが著しく欠けている。
心をくすぐられる景品は、どこを探しても見当たらなかった。
かつて“夢を釣り上げる機械”と呼ばれたクレーンゲームは、いつの間にか生活指導の延長線に成り下がっていたのだった。
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