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十年前、人々が突如として生真面目へと変貌を遂げて以降、居酒屋を取り巻く環境は急激に悪化した。
日本中で禁酒を訴える声が一斉に上がり、それはやがて大規模な社会運動へと発展していく。
当然、居酒屋は真っ先に弾圧の対象となった。
営業停止を求めるビラが店先で撒かれ、店内では「飲酒行為は悪である」とする演説が行われる。貼り紙や落書きといった嫌がらせは日常茶飯事となり、酷い場合には脅迫状が送りつけられたり、店内で暴れ回る者まで現れた。
明らかな営業妨害であったが、民主主義の弱点とも言えるだろう。多数派こそが正義とされ、大多数の人々がそれらの迷惑行為を称賛したことで、すべてが正当化されてしまった。
結果として、違法行為は見過ごされ、黙認される風潮が社会全体に蔓延していった。
警察が介入を試みた事例も、皆無ではなかった。
しかしその頃には、警察組織そのものも同様に人々の反感を買っており、現場へ向かおうとすれば一般人による人海戦術の妨害を受け、手出しすらできなかった。
もはやこの国は、法治国家としての体裁を失っていた。
当然ながら、居酒屋の売上は地に落ちた。
全国で店は次々と閉店に追い込まれた。もちろん、居酒屋ゆうちゃんも例外ではなかった。かつては平日であっても満席が当たり前だった店内は、今では夏川ただ一人が顔を見せるのみである。
嫌がらせは今なお続き、その度に修繕費だけが嵩んでいく。
それでもなお、園島がこの店を守り続けているのには、理由があった。
出ていった妻と娘が、いつか戻ってくる。
そして、再びこの店が笑い声で満ちる日が来る――。
そんな淡い希望を、彼は捨てきれずにいたのだ。
昼間は居酒屋であることをひた隠し、飲食店として細々と営業を続け、どうにかこうにか踏みとどまっている。
だが、それも時間の問題であることは、園島自身が誰よりもよく理解していた。
「……わたし、このお店、とても気に入りました。また来ますね」
和奏はそう言ってから、一丁前にグラスを指先でくるりと回した。
氷が軽やかな音を立てる。その仕草はまだどこか慣れないが、先ほどまでの警戒は、もう微塵も感じられない。
覚悟を決めたようにグラスを口元へ運び、彼女は一気にカクテルを飲み干した。
喉を抜ける冷たさに、わずかに目を細め、すぐに口角が上がる。
「もう一杯、お願いします」
そう言って、微笑を浮かべながら、気取った仕草でグラスを掲げた。
その様子を、園島はカウンター越しに見ていた。
一瞬、言葉を探すように口を開きかけて、すぐに閉じる。
代わりに、照れ隠しのように鼻で短く笑った。
「……へぇ。気に入った、ね」
江戸っ子らしい、少し気の抜けた調子だった。
だが次の瞬間、園島は視線を逸らし、わざと忙しそうに手拭いを取り出す。
目頭が、わずかに熱くなっていた。
「じゃあ、二杯目だ。今度は、ちっとだけ味を変えてやる」
そう言って、グラスを受け取る手は迷いがなく、氷を入れる所作もどこか誇らしげだ。
涙を見せまいとするかのように、園島は終始、顔を上げなかった。
だが、その背中は、はっきりと雄弁だった。
――この店が、まだ誰かの居場所になれていることを。
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翌々日。
仕事終わりの駿河が居酒屋ゆうちゃんの暖簾をくぐると、店内に見覚えのある派手な装いの、大柄な背中が目に飛び込んできた。
「あら~、こうちゃんじゃない~」
振り返り、両手を大きく振っていたのは大島だった。
その隣には、すでに席についている和奏の姿もある。
「こ、こうちゃん……?」
戸惑う駿河をよそに、大島はいつもの調子で距離を詰めてくる。
「わたしが誘ったんです」
和奏が、どこか申し訳なさそうに、けれど悪びれずに言った。
「そうよ~、わかちゃん。お金ないから、私に奢らせようって魂胆よ。いやね~」
大島は冗談めかして肩をすくめる。
もっとも――この「冗談」という概念は、不真面目病特有のものだ。
生病、すなわち一般人は、言葉を文脈通りに受け取ることを是とする。そのため、今の発言も、場合によっては単なる嫌味として受け取られてしまう。
だが、不真面目病同士であれば話は別だ。
言葉そのものではなく、表情や間、場の流れから意図を汲み取る奇妙な感覚が働き、嫌味は嫌味ではなく、親近感へと変換される。
もちろん、この読み取りは万能ではない。
節度や関係性を見誤れば、たちまち空気は険悪なものへと変わる。この境界線は人それぞれで、踏み外し続ければ、ただ嫌われるだけだ。
だが、今回の大島の冗談は、見事に嵌まっていた。
駿河も、和奏も、それを嫌味ではなく冗談として受け取り、自然に場の空気へと溶かしている。
不真面目病同士ならではの、奇妙で、しかし確かな呼吸が、そこにはあった。
大島の前には、すでに空のグラスが三つほど並んでいた。
その光景に呆気に取られていると、
「ほらほら、あんたもここ座って」
なぜか当然のように指定され、駿河は仕方なく大島の隣へと腰を下ろす。
大島の反対側の席には、この日も夏川が陣取っていた。
「また一人増えた。愉快だ、愉快だ」
そう言いながら、実に楽しそうに麦酒を喉へ流し込んでいる。
この日、甲斐の姿はなかった。
和奏によれば、ゲームの区切りが悪くて来られないのだという。なんとも間抜けな理由だが、そもそも居酒屋も娯楽の一種なのだから、文句を言う筋合いでもない。
大島は、いつにも増してハイテンションだった。
彼女が一人増えただけで、居酒屋ゆうちゃんの騒がしさは、さらに一段階上がる。
距離感は妙に近く、スキンシップも激しめだ。
だが、不思議と不快感はなかった。
とりわけ和奏に対しては、その違いが顕著だった。
もし駿河や甲斐が、大島と同じような距離感で触れようものなら、彼女は間違いなく強く反発しただろう。それなのに、大島相手だと様子が違う。
「もう、やめてくださいよ」
口ではそう言いながらも、その声に怒気はなく、どこか困ったような、照れたような色が混じっている。
夏川もまた、大島の傍若無人とも言える振る舞いに、すぐさま馴染んだようだった。
「駿河くんの友人は、面白い人ばかりだね」
そう言って、実に楽しげに笑っている。
そんな夏川は、この日も舌鋒鋭く、生病である同僚たちの悪口を滔々と語っていた。
グラスを傾けながら吐き出される愚痴は、どれも切れ味がよく、場の笑いを誘ってやまなかった。
夏川卓は、玩具製造会社の企画・開発部に所属している。
主な業務は、新製品玩具の立案だ。過去には、会社の主力商品となったヒット作を世に送り出した実績もあり、その功績を買われて主任の座を任されている。
「ほら、これ。俺の最高傑作さ」
そう言って、夏川は懐から一つの玩具を取り出した。
角や羽のような装飾が施された、改造車の模型である。
その特徴的なフォルムに、駿河は朧げながらも見覚えがあった。
二台の車を交互に弾き合い、相手を台上から落とす――そんな対戦型の玩具に使われる車だ。夏川が手にしているのは、青と白を基調としたスタンダードタイプだった。
シリーズ化され、多種多様な形状や色のものが販売されていたはずだ。
十年以上も前の話だが、当時は特に男児の間で爆発的な人気を誇り、ニュースなどでも頻繁に取り上げられていた。
もっとも、流行していた頃、駿河はすでに中学生だった。
世代からは外れており、実際に手にしたことはなかった。
「あっ、それ、知ってます」
声を弾ませたのは、意外にも和奏だった。
「カーアタックですよね。弟が持ってました」
「おっ、そうなのか。それは嬉しいな」
夏川は、思わず顔を綻ばせる。
自分の作ったものが、誰かの記憶に残っている。その事実が、素直に胸を打ったのだろう。
その表情を見て、和奏は胸の奥がちくりと痛んだ。
まさか――その玩具を、踏みつけて足を痛めたという、あまりにも些細な理由で捨ててしまったとは、さすがに言えなかった。
夏川のここ最近の愚痴は、もっぱら新商品を決める会議についてのものだった。
新商品選定会議の出席者は、部長、企画・開発部の各課長、そして立案課に所属する立案者たちで構成されている。
本来であれば、それで十分なはずだった。
ところが、ごくまれに気まぐれで顔を出していたはずの幹部クラスが、十年前を境に、毎回必ず出席するようになった。
それ自体が煩わしいのだが、さらに厄介なのは、会議の進行役が毎度律儀に、幹部一人ひとりを丁寧に紹介することだった。
もう顔も名前も役職も、嫌というほど知っている。
にもかかわらず、「改めまして――」から始まり、「我が社の新たな発展は、君たちに掛かっている」と、似たような挨拶を全員が一人ずつ繰り返す。
幹部は七人いる。
それだけで、軽く一時間が潰れる。
本題に入る前に、会議はすでに疲労困憊だった。
まさに、無駄な時間の浪費である。
夏川は、これまで数え切れないほどの新商品案を提出してきた。
ヒーローになれる変身ベルト。
触ると癖になる独特な触感のボール。
世界的に人気のキャラクターとコラボしたおままごとセット。
倒れにくい材質にこだわった積み木。
上下だけでなく、横にも自在につなげられるブロック。
挙げ出せばきりがない。
だが、それらが採用されたことは、一度もなかった。
それどころか、会議の場では、決まって糾弾の的になる。
しかも、その理由が、毎回理解不能だった。
「この赤い部分は血を連想させる」
「怪獣という生物を虐殺する者を賛美する行為は、会社の沽券に関わる」
「触感に夢中になるあまり、勉強が疎かになったというクレームが来たら、どう責任を取るのか」
「揉んでいる様子が、遠目から見ると卑猥に見える」
挙げ句の果てには、「おままごととは、女性に家事を強要する、幼少期からの洗脳教育である」などと、玩具とは無関係な政治的主張を持ち出す者まで現れる。
極めつけは、これだった。
「そんな子供っぽい玩具は、子供を子供扱いしていて、非常に差別的だ」
ここまで来ると、もはや理屈ですらない。
当然だが、そんな前提を置かれてしまっては、玩具など作れるはずがなかった。
こうして、夏川の案は例外なく退けられ、
会議は今日も「何も生まない場」として、淡々と時間だけを消費していくのだった。
なにより辛いのは、夏川の味方をしてくれる者が、誰一人としていないことだった。
彼の出す案は、最初から否定される前提で扱われる。
上からは頭ごなしに怒鳴られ、同僚である開発者たちからは異端児として蔑まれる。
まさに四面楚歌の状態だった。
糾弾の嵐の中、夏川は歯を食いしばり、ひたすら耐え続けてきた。
どんな反論をしたところで、どうせ無意味だ。
――こいつらが間違っている。
――世界が、間違っている。
――俺が考えた玩具は、きっと子供たちを笑顔にする。
何度も、何度も、心の中で唱え続けた。
「返事くらいしなさい」
「どうなんだよ。もっとまともな案は出せないのか」
机を叩く音。
怒りに満ちた視線。
失望と、露骨な拒絶。
「……ここで愚痴を言うのが、唯一の生き甲斐だよ」
夏川は、そう静かに語った。
「他の開発者の人は、どんな案を出すんですか?」
和奏の問いに、夏川は一瞬だけ間を置き、思い出し笑いを浮かべる。そして、含み笑いのまま口を開いた。
「そうだなぁ……例えば、だ」
漢字を薄く印刷し、それを鉛筆でなぞるだけの玩具。
――それはもはや玩具ではなく、ただの漢字ドリルだ。
二等辺三角形だけで構成された積み木。
――当然、どうやっても積み上がらない。
何の捻りもない動物の人形。
――悔しいことに、これは採用される。
鼻の形を少し変えただけで、五回連続の採用だ。
おぱぱままごとセット。
――名前を変えただけである。
おままぱぱごとセット。
――さっきと同じなのに、誰も気づかない。
「それをな、したり顔で『これで子供たちの笑顔を掴めるでしょう』とか、平気で言うんだ」
駿河も、和奏も、大島も、腹を抱えて大笑いした。
だが――
「酷いのはさ、負真面目撃退戦隊セイギマンの変身グッズだ」
この言葉に、誰一人として笑えなかった。
負真面目な人間を徹底的にリンチする子供向け番組。
その存在を、ここにいる全員が知っている。そして当然、強い嫌悪感を抱いていた。
場の空気は一瞬だけ冷え、誰も言葉を挟めなくなる。
それでも酒は進み、時間だけが過ぎていった。
こうして、この日もまた、終電ぎりぎりまで飲み明かすことになるのだった。
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