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お通しは出汁巻き卵だった。
緊張した面持ちのまま、駿河はそれを口に運ぶ。次の瞬間、彼は思わず目を見開いた。かつて味わったことがないほど、美味しかったのだ。
それも無理はない。
かつて美食大国として世界から賞賛を浴びていた日本は、もはや過去の話となっている。極度の健康志向の末、調味料は猛毒という結論に至り、無味無臭こそが正義の証とされた時代だ。テレビの食レポも、「味がない」「健康的だ」を繰り返すばかりが主流となっている。
そんな世の中にあって、居酒屋ゆうちゃんでは、古来の日本食を模し、調味料を惜しみなく使い、わざわざ出汁まで取って料理を提供している。
その一皿が、貧乏舌の駿河にとって驚天動地の美味しさとして映ったとしても、不思議ではなかった。
「はいよ! 麦酒!」
ジョッキが卓上に置かれる。
出汁巻き卵の美味しさにすっかり心を掴まれた駿河は、期待に満ちた眼差しで、人生で初めて麦酒に口をつけた。
しかし、その期待は一瞬で裏切られる。
苦味が口いっぱいに広がった途端、彼は激しく咽た。
――毒を盛られた?不味い。
それが、彼の率直な第一印象だった。
その様子を見て、常連客は歯を剥き出しにして大笑いした。
駿河はムッとするものの、そこに悪意がないことを直感的に感じ取る。むしろ、どこか親しみすら含まれている。そのため声を荒げることもできず、顔を赤らめるに留まった。
「あんちゃん。あんま無理して飲まなくてもいいよ。ほら、他にも甘いのがあるしさ。自分に合うのを飲みゃいいんだよ」
情けない姿を晒した駿河に、見た目からは想像できないほど柔らかな口調で店主が声を掛けた。
だが、その気遣いが子供扱いされているように感じられ、駿河は癪に障った。
むきになった彼は、麦酒を一気に喉へ流し込む。そして、空になったジョッキをカウンターに叩きつけた。
「……もう一杯」
「おっ、やるじゃないか」
「あんちゃん、生きがいいねぇ~。ただ、あんまし無理せんでいいからな」
「いやいやいや、若いのは呑まんと。ほれ、もう一杯。一気だ、一気」
「夏川さんよ。そう若いのを煽るんじゃないよ」
三杯目を飲み干した頃には、駿河もすっかり出来上がっていた。
「アイツら、頭おかしいですもんねぇ……」
舌が回らなくなりつつも、言葉は止まらない。
「僕の同僚なんて、一日中、始末書を書いてるんですよ。しかも、翌日もまた書いてるんです。それを毎日、毎日、繰り返してるわけです。あれじゃあ、税金泥棒って言われても仕方ないですよ。いったい、なにがしたいんだか……わけ、わかんないですよ……」
駿河はすでに呂律が怪しかったが、話の内容が聞き取れないほどではない。その愚痴を受けて、夏川が豪快に笑った。
居酒屋ゆうちゃんの店主である園島も、手際よく調理を続けながら会話に加わり、陽気な声を上げる。
「どこもかしこも、可笑しな奴ばっかりだ。俺の部下もよぉ……」
負けじと、夏川も職場の部下の体たらくぶりを語り始めた。
その悪口は堂に入ったもので、語り口も妙に上手い。面白おかしく話すものだから、駿河は何度も、飲みかけの麦酒を吹き出しそうになった。
二人はすっかり意気投合し、数時間にわたって生病者たちの悪口に花を咲かせた。
駿河は、これまで溜まりに溜まっていた鬱憤を吐き出したからか、これ以上ないほどの上機嫌となっていた。
「いや~、今日は本当に楽しかったな。駿河くん、また来てくれよ」
「ぜひぜひ。また来ますよ。あ、そうだ。今度は友人も連れてきていいですか?」
「おっ、いいね。友人がいるのか。それは羨ましいな」
「いや、僕も最近できたばっかりですよ。不真面目病の人と、偶然知り合えたんです。しかも二人も!」
「おぉ~、二人も!?それは奇跡に近いな」
夏川の言う通り、不真面目病は奇病に位置づけられており、その患者と知り合える確率は相当に低い。
それを、夏川と園島を含めて四人も知り合えたのは、まさしく奇跡と呼んで差し支えないだろう。
もっとも、それもすべて、私が巡り合わせた結果に過ぎないのだが。
そもそも私――いや、天照大神を復活させたこと自体が奇跡に値する出来事なのだから、それと比べれば、たかが人間同士の邂逅など、取るに足らないことである。
――――――――――――――――――――――――――
翌々日、駿河は甲斐と和奏を引き連れ、再び居酒屋ゆうちゃんへと足を運んだ。この日も夏川はすでに来店しており、軽い自己紹介が交わされる。
すでに駿河の、爆笑必至の初々しい“初体験”は終えてしまっているため、この日からは私も会話に加わるべく、夏川と園島にも姿を視認させることにした。
ちなみに、駿河の誘いに対する甲斐と和奏の反応は、見事なまでに両極端だった。
甲斐は、駿河に誘われると、ほとんど反射的に喜んで応じた。
飲酒経験こそなかったものの、良く言えば偏見がなく、悪く言えば、深く物事を考えない能天気な性格である。
「気分が良くなるよ」
そんな胡散臭さ全開の誘い文句にも、一切の疑念を抱かない。
楽しそうかどうか――それだけで十分だった。彼は躊躇うことなく、あっさりと付いてきた。
ところが、実際に酒を口にすると、彼は驚くほど酒に弱かった。
一杯を飲み干した時点で、すでに身体はぐにゃりと緩み、椅子にもたれかかるようになる。視線は定まらず、言葉の切れも急激に悪くなっていった。
「引きこもりこそが世界を救うんだよぉ……」
半ば呪文のように、そんな世迷言を口にしながら、甲斐は得意気に語り始める。
彼にとっては英雄譚なのだろう。全平教の幹部である母親との“死闘”を、身振り手振りを交えながら、誇らしげに語るその様子は、どこか痛々しくもあった。
しかし、饒舌さは長くは続かない。
四杯目を飲み干した直後、甲斐は突然顔色を変え、そのまま嘔吐した。その後はすっかり戦闘不能となり、園島の手厚い看病を受ける羽目になる。
「そういえば……母親は、戻ってきたのか?」
甲斐の母親といえば、以前、私がどこかへ飛ばした人物である。
薄情な駿河は、特別に気にかけていたわけではない。ただ、話の流れに乗って、何気なく訊ねただけだった。
「あ~、帰ってきたらしいよ。三日間くらいは、飯が出てこなかったけどさ」
甲斐は、どこか他人事のように言う。
「四日目に、急に出てきたんだ。空腹で死にそうだったから、助かったよ。……つい、働こうかなって迷ったくらいだし」
「いや、働けよ」
駿河の即答に、甲斐はへらりと笑うだけだった。
二十六にもなる息子に、律儀に食事を運ぶ母親。
その一場面だけを切り取れば、息子思いの立派な母親にも見えるだろう。しかし、その関係性からは、庇護と支配が奇妙に絡み合い、肝心の愛情が著しく欠落していることが透けて見える。
それが、この親子にとっての「日常」なのだった。
一方の和奏は、駿河に誘われた際、露骨に難色を示した。
彼女の中では、飲酒とは罪深き行為であるという認識に加え、どこか卑猥で、お下劣なものという偏見が根深く染みついていた。酒の席は理性が緩み、人間が醜くなる場所――そう刷り込まれてきた価値観が、無意識のうちに警鐘を鳴らしていたのだ。
「どうしよっかな~……なんか怖いし」
そう言って一歩引いた彼女に対し、駿河は少しも食い下がらなかった。
「わかった。じゃあ、いいや」
拍子抜けするほど、あっさりとした引き際だった。
その瞬間、和奏の胸に別の感情が芽生える。
拒絶された、というより――選ばれなかったことへの焦りだ。
「……ちょ、ちょっと待って。行く。行くから」
慌てて引き止め、結果的に自分から付いていく形になった。
実際に酒を口にしてみると、意外にも彼女は酒に強かった。
何杯呑んでも、頬がうっすらと赤らむ程度で、声が弾み、表情が柔らぐだけ。言葉も思考も乱れることはなく、意識は終始はっきりしている。酔いに呑まれる甲斐や、愚痴に身を委ねる駿河とは対照的だった。
むしろ、肩の力が抜けたことで、和奏は本来の饒舌さを取り戻していく。
大学での生活、講義の理不尽さ、サークルの内情、くだらない噂話。理屈っぽさは残しつつも、言葉の端々には楽しげな響きが混じり、場の空気を軽くしていた。
酒は彼女を壊さなかった。
ただ、少しだけ素直にしただけだった。
そうして、私というと――。
「うわっ、誰だ!」
夏川は、椅子から転げ落ちそうになるほど大袈裟な反応を見せた。驚きに目を見開いたまま、反射的に身を引き、思わず声を裏返らせている。
一方の園島も、手にしていた調理箸を止め、ぱちくりと瞬きを繰り返した。突然現れた私の妖艶な姿に、言葉を失ったまま、視線だけが釘付けになっている。
「おい、ガラクタ!お前は出てくるな。酒が不味くなる」
「え~、ガラクタさんがいるんですか~。嫌なんですけど」
私が視認を許した途端、駿河と和奏は即座に不満を口にした。
だが、そんな反応など気にも留めず、私は縦横無尽に宙を舞い、気まぐれに旋回しながら、上機嫌で歌い始める。
甲斐にとっては、もはや見慣れた光景なのだろう。特に驚く様子もなく、グビッとハイボールを喉へ流し込み、そのまま快活な笑い声を上げた。
「あんさん……だれだ?」
目をまん丸にした園島が、オーダーの入っていた出汁巻き卵を和奏の前に置きながら、恐る恐る訊ねる。
湯気の立つ卵焼きを前に、和奏は一瞬、緊張を忘れたように目を輝かせた。
「うわ~、美味しそう……」
そして、少し間を置いてから、平然と答える。
「自分のことを神と名乗るペテン師です。気色の悪い変態です。出禁にすることをお勧めします」
容赦なく悪意に塗れた物言いだった。
私は肩をすくめながら、「そんなこと言わないでよ~」と距離を詰める。
すると、今やすっかりお決まりとなったやり取りが炸裂する。
「ちょっ、こっち来ないで!叫びますよ!」
その瞬間、駿河と甲斐が慌てふためき、場の空気が一気に騒がしくなる。和奏は耐えきれず、吹き出すように笑った。
傍から見れば、どこかじゃれ合っているようにも映る光景だったのだろう。
園島と夏川は、非現実的な容姿をした私に向けていた警戒心を、いつの間にか解いていた。二人とも、胸をそっと撫で下ろすような仕草を見せている。
「……どこかで……」
園島は、陽気に飛び回る私を、目を細めて見つめながら、ぽつりと呟いた。
「どうかしました?」
その様子が気になった駿河が声を掛ける。しかし、その問いは最後まで届かなかった。
「じゃあさ、俺がモノマネ披露してやろう!」
甲斐が唐突にふざけ始め、その声が園島の言葉を掻き消してしまったからだ。
「不真面目病の奴等って、ほんと融通が利かないんですよね」
「昨日も今日も明日も、ゲーム三昧ですよ」
「学部ですか?歴史学部です」
「目的?覚えてないよ~。なんとなくさ、なんとなく」
「今日の会議もさ、無駄に長い癖に、なに一つ決まらないんだよ。敵わんよ」
各々が思いついたままに喋り散らかし、話題は脈絡なく飛び交っていた。
ごちゃごちゃしていることは否めないが、不思議と不快感はない。誰もが遮られず、否定されず、好きな言葉を好きな調子で吐き出している。ワイワイと、場の空気は絶え間なく弾んでいた。
麦酒にウイスキー、ジンにウォッカ。酒は次々と注がれ、空のグラスがカウンターの上に増えていく。
日本酒や焼酎の姿はない。それも当然だった。日本産の酒は、もはや製造者がおらず、悲しいことに、文化的産物のひとつが完全に消滅してしまっているのだ。居酒屋ゆうちゃんで提供される酒は、すべて海外からの輸入品である。
それでも――皆、このひと時を心から愉しんでいた。
ここでは、冷酷な視線に晒されることもない。理不尽な暴言を浴びせられることもない。
集っている者たちは皆、陽気で、どこか気が合う。過去に類を見ないほどの気楽さと愉快さに包まれ、誰もが酔いしれていた。
心の底から笑い、共感し、肩を組み合う。
そんな、どこか懐かしい光景を前にして、園島は不意に目頭が熱くなった。気づかれぬよう、腕でそっと目元を拭う。
その変化を、いち早く察したのは和奏だった。
ちなみにその頃、甲斐は上半身裸になり、意味不明な踊りを始めている。駿河と夏川は腹を抱えて笑い転げ、その様子がさらに場を騒がしくしていた。
「ここのお店って、結構長いんですか?」
和奏は、エイヒレに手を伸ばしながら訊ねた。指先で軽く摘まみ、噛みしめるたびに滲み出る旨味に、思わず目を細めている。どうやら、その独特な歯応えがすっかり癖になっているらしい。
「そうだな……もう二十年になるな」
園島は、少しだけ間を置いてから答えた。
声は低く、淡々としている。カウンターに置いた手拭いで、無意識のように手を拭い、視線を一度だけ外した。
照明の向こう、誰もいない壁の一点を、ほんの一瞬、遠くを見るように見つめる。
多くは語らない。
それが、彼の流儀なのだろう。
肩をすくめるような仕草も、大仰なため息もない。ただ、唇の端がわずかに引き結ばれ、目尻に刻まれた細かな皺が、積み重ねてきた年月を静かに物語っていた。
江戸っ子特有の、余計な感情を外に出さない気質が、その佇まいに滲んでいる。
短い返答と、ほんの一瞬の視線の揺れ――
それだけで、酒場を取り巻く業界の厳しさや、失ってきたものの重みが、十分すぎるほど伝わってきた。
お読みいただきありがとうございます。
よろしければ、評価して下さるとありがたいです。




