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人権について騒ぎ立てる駿河の言葉など一切意に介さず、私は無心で目的地を目指していた。
駿河は上半身を進行方向とは逆に捻り、腰から下だけが意志とは無関係に前へ進んでいた。引きずられるように歩きながら、奇妙な姿勢のまま腕を大きく振り回し、必死に抗っている。踏み出す足と、拒絶する身体の向きが噛み合わず、その動きはどこか人形めいて不自然だった。
歯を食いしばり、額には血管が浮かび、引き攣った頬が小刻みに震えている。怒りに染まったその表情は、抵抗の意思だけが空回りし、現実には何ひとつ状況を変えられていないことを、かえって雄弁に物語っていた。
「オイ!ふざけるなよ、解けくそ野郎!俺の人権は無視か!自由に身体を動かす権利すら奪われるって、どういう要件だ!お前に俺の自由と尊厳を奪う権利なんてありはしない。いいから解け!」
この日、朝方に仕事を終えた駿河は、夕暮れまでたっぷりと睡眠を取っていた。
寝息を立てる彼の傍らで、私は懲りもせず喧しい遊びに興じていたのだが、どうやら耐性がついたらしく、深い眠りから目を覚ますことはなかった。
夕刻、寝起きに大きな欠伸をする彼に、神のお告げ――端的に言えば、これから向かうべき場所について言及した。案の定、彼はこれを面倒臭がった。
私も説得するのは面倒だったので、強制的に目的地へ向かわせることにした。
神の力によって、彼の下半身を自在に操ったのだ。
こうして、彼の意思とは無関係に足は歩き出し、そして今に至る。
「もう、いい加減に諦めなよ~。神のお告げは素直に従わないと、罰が当たるよ」
「黙れ!なにが神だ!疫病神のくせして、俺にだって用事があるんだよ」
「まぁ、やらしいこと」
「勝手に人の心を読むな」
彼のヘンテコな歩き方は、端から見れば、変人と映るか、あるいは滑稽に見えるか、意見が分かれるところだろう。
それは見る側の感性次第である。例えば和奏であれば、身を悶えさせて気色悪がるに違いないし、甲斐であれば、手を叩いて腹を抱えて大笑いするはずだ。
最寄り駅の自動改札を通り抜けようとしたところで、扉が閉じられそうになった。そこで、神の力をもって強引にへし折ることにした。駅員には目と耳を一時的に塞いでもらったので、この一件に気づく者はいない。つまり、無賃乗車である。
続いて電車に乗車させようとすると、往生際の悪い彼が扉を掴み、必死に乗車拒否を図った。これまた仕方がないので、扉を木っ端微塵にして抵抗を封じる。
さすがに器物破損の瞬間を見られるのは不都合であったため、同じ車両の乗客は、一人残らずどこかへ飛ばしておいた。
「お前、やりすぎだろ」
「君が~抵抗すればするほど~、神の力による被害者が増加するではないか~」
「お前は、もはや悪魔だ」
こうして、私と駿河が降り立ったのは、上野の旧アメヤ横丁である。
アメヤ横丁――略してアメ横は、十年前までは東京の観光スポットの中でも指折りの賑わいを誇る商店街だった。
かつて観光客でごった返していた通りには、今や閑古鳥が鳴いている。呼び込みの声や人混みのざわめきは消え失せ、通りはまるで海底のような不気味な静けさに包まれていた。
繁華街として栄えた上野では、アメ横を中心に数多くの居酒屋や遊戯場が建ち並び、夜遅くまで賑わいを見せていた。しかし、その面影は今や見る影もない。
街に満ちていた活気ある声も、居酒屋から漏れていた笑い声も、ゲーム機のけたたましい機械音も、すべてが過去のものとなり、通りは静まり返っている。
この静けさのせいだろうか。年季の入った建物の寂れた様子が、殊更に目についた。
かつて象徴とされていたアメヤ横丁の看板は、いつの間にか撤去されている。
闇市として栄え、戦後から長きにわたって人々に愛されてきた、歴史ある偉大な名称は、残念なことに失われてしまった。
現在、この通りに正式な名称はない。
そのため、概ね「旧アメヤ横丁」と呼ばれている。略称は、旧アメである。
この場所がいったい何なのかと訝しげに訊ねる駿河に、私は、ここに居酒屋があることを告げた。すると彼は、慌てて声を潜めた。
「おいおい、いくらなんでもそれはまずいだろ。いくら俺が不真面目病だからって、そこまで落ちぶれた覚えはないぞ」
「いや、でも法律で禁じられているわけではない」
いじけるように、私は言った。
「そういう問題じゃない」
要するに、倫理の問題だと言いたいらしい。
例えば、飢えに苦しむ地域で空腹の子供を前に大食いを披露したり、性被害者の前で下ネタを口にしたり、肺ガンに苦しむ患者の前で煙草をふかしたりすれば、それが犯罪でなかったとしても、非難されて然るべき行為となる。
駿河は、飲酒もそれと同列だと考えているようだった。苦しむ生物が世の中に存在しているにもかかわらず、酔って楽しむ行為そのものが、倫理的問題に抵触するというのである。
その価値観はあまりにもスケールが大きく、人によっては理解が追いつかないだろう。
十数年前の感覚に照らし合わせれば、葬儀の最中、僧侶がお経を唱える傍らで、馬鹿笑いしながら酒を酌み交わすのと同等の不謹慎さにあたる。
つまり、”いついかなる時でも謹みを忘れてはならない”――それが今の世の常識なのだ。
それが晴れの舞台であろうとも、例外はない。もし全平教の信者が酒を酌み交わす者を目にしたなら、不謹慎だと激高することは間違いないだろう。
居酒屋ゆうちゃんは、二階建ての建物の地下で、ひっそりと営業していた。
なんの変哲もない外観に加え、静かな佇まいであるため、注意して歩かなければ、そこに店があることすら見落としてしまうだろう。地下へ通じる入口には、申し訳程度にこざっぱりとした看板が掲げられているが、そこにも「居酒屋」の文字は伏せられており、表向きは単なる飲食店を装っている。
一階にはかつて洋服店が入っていた形跡があるものの、現在は閉店しており、シャッターが固く下ろされていた。住居兼店舗の造りで、二階は住居部分にあたるらしい。
駿河が暖簾をくぐると、店内から「いらっしゃい」という活気のある声が響いた。
店内は、カウンター六席と四人掛けのテーブルが三つ並ぶだけの、こじんまりとした空間だった。地下であることを忘れてしまうほど照明は明るく、至る所に染みだらけの広告らしき貼り紙が雑然と貼られている。壁は黄ばんでおり、お世辞にも清潔とは言えない。
どこか昔ながらに胡座をかいたような、時代錯誤の空気が漂っていた。
装飾も統一感は皆無で、熊の置物やヒーロー戦隊のグッズが無秩序に並んでいる。
分厚く重厚な本や新聞が置かれている一方で、漫画やグラビア誌も無造作に積まれており、店主の趣向はまるで読み取れない。
香ばしい匂いと油の臭いが入り混じり、全体として雑多で落ち着きのない印象を受ける店だった。
迎えられた駿河が軽く会釈をすると、店主はこの狭い店内には不釣り合いなほどの大声で、カウンター席へと案内した。
駿河は努めて平静を装っていたが、内心では強い罪悪感に押し潰されそうになっており、顔色は青褪めている。人の道を踏み外してしまったかのような感覚に囚われ、好奇心よりも倫理観が勝り、足取りは自然と重くなった。
ちなみに、私は駿河以外の人間には姿を見せていない。店主の目には、来店者は彼一人にしか映っていないのである。
一期一会を学ぶには、ちょうどいい機会だろう――という、私なりの親心だ。
店内にはすでに先客が一人おり、常に出来上がっているのか、顔は赤く紅潮していた。
「こんな汚らしい店に、他の客が来るなんて珍しいねぇ、ゆうさん」
「汚らしいは余計だろうよ」
店主と親しげにやり取りする様子からして、どうやら常連客らしい。
「あんちゃんみたいな若いのが来るなんて、珍しいこともあるもんだ。あんちゃん、どうしましょ」
カウンター席に腰を下ろした駿河に向かって、店主は相変わらず、この狭い店内には不釣り合いなほどの大声で声を張り上げた。笑うたびに歯茎を剥き出しにした大口が覗き、その笑顔には遠慮も警戒もない。距離感という概念を忘れたかのように、ぐいと身を乗り出してくる様子が、場の空気を一気に支配していた。
駿河の前に、濡れたおしぼりが無造作に置かれる。手渡しではなく、卓に置くその動作ひとつにも、長年の習慣が滲んでいた。
店主は五十代ほどだろう。白い割烹着は年季が入っており、ところどころに薄い染みが残っている。腕捲りされた前腕には、長年包丁や鍋を握ってきた者特有の筋が浮かび上がり、盛り上がった筋肉がそのまま職歴を語っていた。
動きは荒っぽいが無駄がなく、狭い店内をよく知り尽くした身体の使い方をしている。鍋と客、カウンターと厨房の距離を、測るまでもなく把握している様子だった。
豪放でありながら押し付けがましくはなく、その佇まいには、長くこの場所で人を迎え続けてきた者だけが持つ大らかさがある。言葉遣いは荒いが、どこか温度のある声で、いかにも職人然とした人物だった。
駿河は顔を引き攣らせたまま、戸惑っている。
彼にとって居酒屋は未開の地であり、勝手がまるで分からなかったのだ。
口ごもる駿河を見かねたのか、二つ隣の席に座る常連客が助け舟を出してきた。
「き~み、もしかして、こういう店は初めてか?だったらさ、まずは麦酒でも飲んでみたらどうだ?」
常連客は相当に出来上がっており、赤らんだ顔は汗と酒でてらてらと光っていた。言葉を発するたびに息には強い酒気が混じり、すでに呂律も定まっていない。椅子に深く腰掛けたまま、上半身だけを揺らすその動きは不規則で、視線も定まらず、時折、意味もなく笑みを浮かべては口角を歪めていた。
酔っ払いという存在をほとんど見たことのない駿河にとって、それは人間というより、制御の効かない異物に近かった。次にどんな動きをするのか予測できず、理性が剥がれ落ちていく様子に本能的な恐怖を覚え、思わず身を竦める。胸の奥を撫でられるような不快感が走り、背筋に冷たいものが這い上がった。
一方で、常連客の側からすれば、自分以外に客が来ること自体が物珍しく、格好の暇つぶしなのだろう。じろじろと遠慮なく視線を向け、その反応を楽しむように、口元をだらしなく緩めている。
年の頃は三十代後半ほどか。スーツは着崩れ、ネクタイは緩みきり、Yシャツはズボンからだらしなくはみ出していた。袖口や襟元にはうっすらと汚れが残り、社会人としての体裁だけが、辛うじて形を保っているといった風体である。疲労と諦観が染みついたその姿は、どこか哀れですらあった。
「……じゃ、それで」
覇気のない声で、駿河は応じた。喉が強張り、声量も定まらない。経験したことのない空気に完全に気圧され、全身に力が入り、終始落ち着かない様子だった。
私はそんな彼の姿を、少し離れたところから腹を抱えて眺めていた。もちろん、その笑い声が駿河に届くことはない。
未知の世界へと放り込まれ、右も左も分からず立ち尽くす様子を見守る――それが、私なりの配慮であり、ささやかな娯楽でもある。
「はいよ!麦酒!それと、これはお通し!大丈夫、一見さんからはお代は取らんよ!」
店主の声が、場の緊張を断ち切るように響いた。
お通しの意味も、一見さんの意味も、駿河にはさっぱり分かっていなかった。それでも、その屈託のない口調と迷いのない動作に、なぜか警戒心は湧かない。
理屈では拒絶すべき場面であるにもかかわらず、彼はただ流れに身を委ねていた。
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