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吠えろ!ガラクタ~塵芥戦術~  作者: 堀尾 朗
第1章「虚ろな涙」
2/8

—1—

 商店街入口に大々的に飾られた看板。

【ビューティフルロード】

――まるで誇示するように、その文字は淡いピンク色で彩られていた。

日差しを受けてやわらかく光り、まるで街そのものが「ここは幸福な場所ですよ」と語りかけているかのようだった。

真新しい街灯には一つの汚れもなく、風が吹くたび、磨き上げられた金属が鏡のように通行人の姿を映す。壮麗なビルはどれも同じような高さと形をしており、それが整然と並ぶ様は、まるで“人工の山脈”のようだった。

規則正しく等間隔に植えられた街路樹は、まるで定規で測ったように並び、どの枝も同じ角度で陽光を受けている。

散ることを許されない葉は、管理人の手によって毎朝剪定され、道端に落ちる前に掃除機のような吸引機で吸い取られていく。

麗らかな空には雀や鳩が舞い、愛くるしい小動物達の鳴き声が、今日も平和な日常を告げている。

だが、それらの鳴き声さえ、まるで誰かがBGMとして流しているかのように規則正しく、調和していた。

街には愉快な音楽が流れ、カラフルに舗装された歩行者天国は、人工的なほどの清潔感に満ち満ちている。

タイルの色は赤、青、黄――どれも鮮やかすぎて、まるで“この世にゴミなど存在しない”と主張しているようだった。

吸殻も落ちていなければ、食べ物の残骸もない。空き缶やビニール袋といったゴミは一つとして見当たらず、雑草一つさえ探すのに一苦労するだろう。

排水溝の隙間でさえ、磨かれた銀色に光っている。


道行く人は一様に小綺麗である。

パリッとしたスーツを着こなすサラリーマンは、決まって同じブランドの鞄を肩に掛け、足並みまで揃っている。おしとやかな洋服を身に纏った淑女は、髪の毛一本乱れることなく整えられ、まるで規格書に沿って仕上げられたように、同じ姿勢、同じ歩幅で通りを進む。

上下無地のシンプルな格好の男性は、その地味さを誇るように背筋を伸ばし、スカート丈を律儀に膝下まで伸ばした女学生たちは、まるで鏡に映ったクローンのように同じ歩幅で通り過ぎていく。

インターナショナルなこの国では、異国語が多く飛び交う。

英語、中国語、スペイン語、フランス語――どの声も抑揚がなく、整然としている。

彼等にとって“人種”という概念はとうに消え失せ、いまや個性という言葉そのものが、古語辞典の片隅で眠っているようだった。

一人の例外を除いて、背筋は美しく垂直である。

そこは、一切の汚れも、歪みも、笑い声すら寄せ付けない、

“理想的”な街――ビューティフルロード。


さて、そんな清潔感溢れる街に、一人の異物が混入していた。

男は周囲から白い目を向けられ、完全に悪目立ちしていた。

制服をこれでもかというほどに崩し、ズボンは膝の位置がずれ落ちるほどの腰パン、ベルトは緩み、今にも外れそうなほど傾いている。Yシャツは前のボタンが二つほど外され、裾はズボンに収まりきらず、背中側は風を受けるたびにぴらりと翻った。

袖口は無造作に腕捲りされ、肘のあたりまでたくし上げられている。

その腕には、昨日洗い忘れたような皺と汗染みが浮かび、街の光を反射することなく、鈍い灰色を帯びていた。

腰に下げた警棒と手錠は、まるで本人のだらしなさに反抗するかのように、歩くたびにカタカタと鳴り続けた。

清潔を絶対とするこの街で、男の存在はまるで絵画に落とされたシミのようだった。

この、如何にも出来損ないの男こそが――のちに私の相棒となる、駿河光太郎である。


駿河は駅前の交番に勤める警察官だ。

パトロールに託けて散歩しているのだが、もし「この中から最も不審者らしい人物を職質しろ」と命じられたなら、真っ先に声を掛けられるのは、皮肉にも警察官であるはずの駿河本人だった。

彼は首を大きく旋回させ、周囲の人相を一通り確認する。

そして、卑屈な笑みを浮かべながら、誰に聞かせるでもなく独り言を呟き始めた。

この不可解な行動は、彼自身に対する職務質問である。

なんとも滑稽で、そして哀れな光景で見ていられない…。

この異常な行為からも分かる通り、彼の精神状態はすでに崩壊寸前まで追い詰められていた。

いつトランス状態に陥ってもおかしくないほどだ。

それでも周囲の人々は、彼を助けようとはしない。

むしろ、汚れたものを見るような軽蔑の眼差しを、容赦なく浴びせていた。

駿河は、叫び出したい衝動を必死に抑え込んでいた。

若干の癇癪持ちである彼にとって、感情を押し殺すという行為は、人一倍の労力を要する。

本来なら、感情の赴くままにわけの分からぬことを叫び、手足をバタバタとさせて暴れ回り、時には拳を振り上げてでも、理不尽な世界に抵抗したいところであろう。

それでも彼がそうしないのは、一方で彼が臆病者であるからに他ならない。これまでにも、彼は屈辱的な嫌がらせに耐え忍んできた。

常に周囲からの軽蔑の視線に晒され、時には暴力を伴うことすらあった。

安らげる場所など一つもなく、自宅でさえ罵詈雑言の書かれた貼り紙が散乱している有様だ。

誰一人として味方はおらず、肉親である両親ですら、帰省のたびに塩を投げつける。

それが、駿河光太郎という人間の現実だった。


己が異常者であることに気づいて、早十年が経過していた。

遡ること十年前――

当時高校生だった彼は、周囲の言動や行動に比べて、自分が異常なほどに大雑把で、適当で、楽観的であることに気づいた。

それは、ある日突然のことだった。

当初はクラス全体が何らかの集団洗脳でも受けたのだと思い、目を覚まさせようと躍起になった。

だが結果は、総スカン。

除け者にされた彼は、次第に「自分こそがおかしくなったのだ」と思い込むようになり、それ以降、自己主張を抑えるようになった。

しばらくして、彼は医者からこう診断された。

”精神異常集中力散乱型情緒不安定症候群”――通称、不真面目病。

これを診断されたということは、糞を食うような人生が確定することを意味していた。

周囲からは白い目で見られ、どんな嫌がらせを受けても、文句一つ言ってはいけない。

「それって差別じゃないのか?」

そう思ったこともある。

だが、この国では“差別は存在しない”ことが、学術的に証明されている。

どこかのお偉い大学教授が、そう結論づけた論文を発表したらしい。

つまり――攻撃者曰く、不真面目病患者に対する罵詈雑言や暴行は、あくまで“正義の鉄槌”であり、差別では決してないということになる。

そしてそれが、学術的に示されているのだ。


数年後。

就職活動中の彼は、己が“異常者”であることをすでに自認していた。もはやまともな職に就ける見込みはなく、仕方なく、警察官になることにした。

補足しておくが、警察官といえば十年以上前までは、子どもたちの憧れの職業であり、絶対的正義の象徴だった。

しかし今や、税金泥棒そのものである。

年間犯罪発生数は、今年で八年連続“0件”を更新中。

つまり、警察組織は丸八年、ほとんど仕事がないに等しいということだ。

仕事をしていないのに税金だけは貪る――その結果、街の人々から毛嫌いされるようになった。

そして皮肉にも、そんな職業こそが、彼には最もふさわしかった。


ふと足を止め、真剣な面持ちで物思いに耽る。

――これから、どのように時間を潰すかを考えているのだろう。

警察官は、例によって暇である。

毎日の業務といえば、何もしなかったことを懺悔する始末書の記入だけ。これは、卑屈に陥った上層部が全官員に義務化した“業務”のひとつだった。

昔は田舎から来たご老人に道を訊ねられる――そんな光景をよく目にしたものだが、いまや警察官は、街の人々に毛嫌いされている。

道を訊ねるなら駅員かコンビニ店員に、というのが、いつの間にか世間一般常識になっていた。

考え込んでいる駿河の頭頂部に、烏の糞が落ちた。

もう二、三歩前に進んでいれば避けられただろうに――とことん不憫な奴である。

「糞烏!焼鳥にしてやろうか!」

思わず口をついて出たその言葉に、彼ははっとした。

汚ならしい言葉の羅列に、周囲の人々は顔を引きつらせている。

その表情は、まるでこう語っていた。

――「烏の糞より、よっぽどお前の方が汚らわしい」と。換言するならば、【清き烏の生きる結晶が、不幸にも汚物に着地した】となる。

つまり、哀れなのは駿河ではなく、糞の方である。

赤面した駿河は、そそくさとその場を離れた。

あまりにも可哀想で、涙なしでは語れない。ぐすん。

……さっきから「お前は誰だ」と思っている方もいらっしゃるだろう。

私はまだ登場していないが、そのうち登場するので、しばし辛抱してほしい。

先に平たく言っておくなら――神的な存在、としてくれて構わない。


――――――――――――――――――――――――――――――


 公園の蛇口で、頭頂部に落ちた糞と、零れ落ちた涙を洗い流す。

ショート刈り上げの髪をかきむしると、水滴が飛び散った。

鏡代わりに蛇口の金属面を覗き込む。

そこに映ったのは、どこか疲れ切った顔――それでいて、妙に眼光だけが鋭い男の姿だった。

目つきの鋭さが災いして、無表情で立っているだけでも喧嘩腰に見える。

そのせいで、初対面の人間には大抵「怖い」「怒っている」と誤解されるのが常だった。

「……これでも、笑ってるつもりなんだけどな」

ぼそりと呟くと、彼は制服の袖で顔をぬぐい、映画館へと足を運ぶことにした。

パトロールの一環でもなければ、なんらかの捜査でもない。

単純に――映画を観に来たのだ。

忘れてはならないのは、彼が職務中であるということ。つまり、彼は制服姿のまま、堂々とサボっているのである。

この行動には意味がある。

それは、同士を探すこと。先ほども述べた通り、彼は不真面目病患者である。

この病は、十万人に一人の確率で発症すると言われている。東京都の人口が一千四百万人として、単純計算すると都内には百四十人ほど存在する計算になる。

「いずれ、どこかで同士に巡り会えるかもしれない」

彼は密かにそう期待していた。

流石は世紀の楽天家。どんなに辛い状況であっても、頭の片隅にこびりついた前向きな思考だけは、決して途絶えなかった。

――だが、私から言わせれば、彼の能天気度合いはまだまだ甘い。

私はこの「十万人に一人」という数値に、深い懐疑を抱いている。なぜなら、不真面目病の診断方法が、あまりにも杜撰だからだ。

不真面目病かどうかの判断は、アンケート結果をもとにしている。

しかし、その内容があまりにも直球すぎるため、いくらでも誤診や誘導が可能なのである。

ましてや“不真面目病”とレッテルを貼られれば、社会的迫害を受けることが分かりきっているこの時代だ。果たして、正直に答える者などどれほどいるというのか。


――以下は、アンケート内の質問事項の一部抜粋である

・あなたは学業、または職務を一時的に放棄したことがあるか。

・集中力が切れることはあるか。

・怒りを抱いたことがあるか。

どうだろう、馬鹿らしいにもほどがある。

医者といえば本来、誰もが認める秀才であり、人格者であるはずだ。

しかし、この不真面目病専門医師たちに限っては、利権に群がり、威張り散らす、ただの馬鹿にしか見えない。

不真面目病専門医師は、暫定的に「上級国民の子孫」しか就けない職業である。

大物政治家、巨大企業の役員、官僚など――いずれも富裕層の二世・三世たち。それも、出来の良いエリートではない。むしろ“落ちこぼれの寄せ集め”だ。

精神的理由を盾にして学校へ通わなかった者。

警察が動かないのをいいことに、不良行為に耽った者。

そんな連中が、一人残らず裏口入学によって“名門大学卒”の肩書きを得ている。

羊頭狗肉とはこのことだ。

彼ら似非えせエリートに任せられる職務など、たかが知れている。そんな連中が唯一こなせる“楽な仕事”――それが、この不真面目病専門医師という職業なのだ。

彼らの仕事は、患者にアンケートを書かせ、その結果を棒読みで告げるだけ。

「あなたは不真面目病です」と。

幼稚園児でもできそうな作業である。

それでいて多額の診察料を巻き上げるのだから、詐欺と言われても致し方ない。

だが、現時点の駿河は、まだそこまでの真相には辿り着いていない。


彼は無表情を貫く館員に軽く会釈すると、受付でチケットを購入した。

館内は閑古鳥が鳴いていた。

かつては子どもの笑い声やポップコーンの香りで満たされていたであろう空間は、今やただの無音地帯と化している。

照明は最低限に落とされ、冷房の風が古びたカーテンをわずかに揺らす。

ポスターの端は日焼けして色褪せ、宣伝文句の「感動の超大作!!」の“感”だけが剥がれ落ちていた。

売店のガラスケースには、消費期限をとっくに過ぎたキャラメルポップコーンが整然と並び、

「販売中止」の札がそれをガラス越しに封印している。

音といえば、時折どこかで鳴るプロジェクターの微かな唸りと、館員の革靴が床を擦る音くらい。

咳払いすら場違いに感じられるほど、世界は沈黙に支配されていた。

駿河は小さく息を吐き、場内へと足を踏み入れた。

平日ということもあるが――一番の要因は、映画の内容にある。

彼が鑑賞しようとしているのは、平成初期に公開されたレトロ作品『ゴースト/幻のニューヨーク』であった。

現代の映画がどれも、道徳教育ビデオのように地味で退屈な中、この作品は手に汗握る展開と濃厚な感情描写を持つ“感動巨編”だ。

だからこそ、現代人には受け入れられていない。笑いも涙も、今の時代では不健全とされているからである。

だが、はみ出し者の駿河にとっては、それがむしろ心地よかった。

“起承転結”のある物語にこそ、生の鼓動がある――そう信じていた。

薄暗い劇場を進み、指定席に腰を下ろす。

場内には、駿河以外の観客は誰もいなかった。

いつも不思議に思う。

なぜ、こんなにも人気がないのに、この作品は今も上映され続けているのか。赤字のはずなのに、誰かが、意図的に残しているとしか思えなかった。

ピンポン、ピンポン――。

開演ブザーが鳴り響く。

ちなみに十年前までは「ブーーー」という無骨な音だったが、

“クイズを間違えたみたいで不愉快だ”とのクレームが殺到し、この柔らかい音に変更されたのだ。

ブザーが鳴り終わるのと同時に、一人の女性が駆け込んできた。

彼女は一秒遅れたことを罪とでも思っているかのように、座席側へ深々と頭を下げる。そして、物音を立てぬように緩慢な動作で、駿河から二つ離れた席に静かに腰を下ろした。

駿河は思わず目を丸くした。

まさか、自分以外の客が来るとは――。

破顔した唇の端が、わずかに震えていた。


上映中、駿河は女の存在が気になって仕方がなかった。

スクリーンには目もくれず、二つ隣の女の横顔を凝視している。映画を食い入るように見つめる彼女。駿河の関心は物語ではなく――その“横顔”だった。

ダイヤモンドを埋め込んだような爛々とした大きな瞳。

暗闇の中でも確かに光を湛え、見る者の心を吸い寄せる。

ピラミッドのように整った高い鼻梁には、凛とした意志が通っていた。

ドングリほどに小さな口元は、微かに結ばれ、品のある意地と孤独を滲ませている。

陽光を纏ったかのような白磁の肌は、空気さえ跳ね返すほどの透明感を帯びており、冷たい蛍光灯の光の中でもなお、柔らかな温もりを放っていた。

その美しさは、彫像のように完璧でありながら――確かに、血が通っていた。

作り物ではない。現実に抗いながら生きている人間の“鼓動”があった。

私が彼女と初めて出会った時、その可愛らしさに理性を吹き飛ばされ、危うく鼻息で嵐を起こしかけたほどだ。

それほどに彼女は、美しさと愛くるしさを同時に内包していた。

だが、駿河は私ほど感性豊かではない。

彼にとっては、女であるとか、美しいとか、そんな分類はどうでもよかった。

この世界で、自分以外の“何者か”が存在している。

それだけで、十分に奇跡的だったのだ。

しかも、彼はこの映画を三十回以上観ている。内容など、もう台詞の一字一句まで頭に入っている。映画よりも女のほうに興味を持つのは、当然といえば当然だった。

――そして、事件は起きた。

物語が山場に差し掛かったその時――彼女の瞳の奥に、光の粒が瞬いた。

ほんの一瞬、スクリーンの白がその瞳に映り込み、まるでガラス越しに朝日が射し込んだような淡い輝きが揺らめいた。

そして次の瞬間、ひと粒の涙が、頬の曲線をゆっくりと伝い落ちた。

それは、こぼれたというより、“静かに解けた”という表現が近い。

溜め息のような微かな呼吸に押し出され、涙は重力に逆らうことなく、自然の摂理に従って頬を滑り落ちていく。

スクリーンから漏れる光が、その雫の表面に映り込み、七色の反射を放った。

涙はまるで、暗闇の海に浮かぶ星のように、ひときわ鮮烈な存在感を放っていた。

それは怒りの涙ではなかった。

悲しみの涙でもない。

――ただ、そこには“人”がいた。

感情を抑圧された時代に、それでも胸の奥から湧き上がってしまう何か。

誰かを想う、優しい情の残滓。

絶望の中でなお、どこかを信じてしまう、愚かで愛しい心の温度。

駿河はその一滴に、息を呑んだ。

暗闇の中で、スクリーンの光がその涙を抱きしめるように照らしていた。

まるで、世界が一瞬だけ“彼女のために止まった”かのようだった。

――いた。

彼が長年探し求めていた“同士”が、まさに目の前にいたのだ。

平常心を保てるはずもない。

椅子を軋ませ、思わず身を乗り出しかけた体を、肘掛けを握りしめることで、どうにか抑えた。

女はそんな駿河の葛藤など知らぬ顔で、止まらない涙を拭うことも忘れ、ひたすら感動に浸っている。


――そして、その光景を、映写室の奥から見つめる“もう一つの影”があった。だが、話の腰が折れるので、今はまだ触れないでおこう。


上映が終わり、場内の照明がゆっくりと灯る。

スクリーンに残った白光が消え、現実の色が少しずつ戻ってきた。

彼女はスッと立ち上がり、静かな足取りで通路を進んでいく。駿河は鼓動を抑えられなかった。胸の内側が熱を帯び、喉が張りつく。

――今、声をかけなければ。勇気など欠片もなかったが、勢いだけで口が動いた。

「……あの、あなた、どうして――」

振り返った女の顔は、駿河の想像とはまるで違っていた。

――無表情。

それは、感情という名の温度がすべて抜け落ちた顔だった。目は静止した水面のように微動だにせず、光を宿していない。口角も眉も、まるで彫刻のように固定されている。冬の湖面のように冷え切っており、風一つ吹けば粉々に割れてしまいそうな繊細さと、同時に、何人たりとも踏み入れを拒む静謐さを纏っていた。

その瞳には、世界が映っていなかった。

駿河の姿も、映画館の明かりも、誰の存在も――すべて透過している。

まるで、他人どころか自分自身すら視界に入っていないような虚無。

“生きている”というより、“まだ死にきれない何か”のようだった。

駿河は狼狽した。

彼女の顔があまりに静かすぎて、息をすることさえ躊躇われた。

きっと相手も自分に気づいている、同じ何かを感じ取っているはず――そう信じていた。

しかし、その確信は一瞬で崩れ落ちた。

氷の表面を靴で踏んだときのように、細いひびが心の奥底まで走り抜けていく。

音はしない。だが、確かに壊れた。

“希望”と呼べるものが、何の抵抗もなく。

 「あっ……おえ」

喉の奥から、間抜けな音が漏れた。

思えば彼が、公務や買い物時のレジ以外で声を発したのは、四年前――両親から塩を投げつけられた時の「やめてよ」以来である。

なんとも情けない話だ。

女の無表情は、白磁の肌と相まって、まるで幽霊のように見えた。

冷たい、しかしどこか神々しい。

だが、その頬に残る淡い涙の跡が、さっきまでの光景が幻でなかったことを物語っていた。

 「……なんでしょう」

突き放すような口調に、駿河の心臓が縮み上がる。

十年間、誰とも対等に話してこなかった彼にとって、この一言は鋭い刃のように突き刺さった。

言葉を探そうとするが、口は動かない。

沈黙が、二人の間に鉄の壁のように立ちはだかる。

「用がないのであれば、失礼させて頂きます。これ以上の無駄な時間の浪費は体に毒です」

淡々としたその声音に、駿河の中で何かが崩れた。

「ああ……」と短い嘆息が漏れる。

無表情、無機質、無関心――どれも彼のよく知る顔だ。

そうだ、彼女は“同士”ではなかった。

これはただの勘違い。長年の孤独が見せた蜃気楼。

「いえ、なんでもありません。人違いでした。どうかお気になさらず」

駿河は静かに頭を下げた。

その仕草には、笑みの代わりに埋め込まれた“規律”があった。この国では、安易な笑顔は嘲笑とみなされ、侮辱罪に問われる。だから、人は感情の代わりに礼節で自分を覆う。それが、唯一許された“防衛の作法”だった。

彼もまた、その形式に従っていた。

けれど、深々と下げた頭の中では、声にならない呻きが渦を巻いていた。

自分が何かを間違えたのか、それとも最初から何もなかったのか――。

その問いの答えは、もう誰にも届かない。

「そうですか……」

女は軽く頭を下げると、そそくさと出口の方へ向かった。駿河はうなだれたまま、立ち尽くしている。全身から力が抜け落ち、靴先ばかりを見つめていた。

角を曲がる寸前、女がふと足を止める。

静かに振り返り、駿河の背中をじっと見つめた。

その瞳は、虚ろだった。

まるで、先ほどまで涙を流していた感情までもが、世界のどこかに置き去りにされてしまったかのように。

彼女の視線が、彼に届くことはない。

駿河はただ、冷めきった床を見つめたまま動かなかった。

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