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その日、立て続けに不幸が重なったことで、和奏の心はすっかり擦り切れていた。
気づけば彼女は、ファミリーレストランのボックス席に座り、目の前の鉄板から立ち上る肉の匂いをぼんやりと眺めていた。
ジュウ、と音を立てて焼かれるステーキ。
ナイフを入れると、肉汁が溢れ、湯気とともに香ばしい匂いが鼻を突く。
――今日は、どうでもいい。
そんな投げやりな気分のまま、和奏は黙々とステーキを口に運んでいた。
噛む。
飲み込む。
また切る。
ただそれを繰り返す。
今の世において、必要以上の栄養摂取は自粛すべき行為だとされている。
健康だの、資源だの、持続可能性だの――もっともらしい理由はいくらでも並べられる。だが、そんな理屈は、今の和奏にとってはどうでもよかった。
(……好きにさせてくれればいいのに)
気づけば、テーブルの端には空になった皿が重なっていた。
一枚、二枚……やがてそれは、はっきりと“食べ過ぎ”だとわかる枚数になる。
その様子を見て、声をかけてくる者が現れた。
「……少し、食べ過ぎじゃありませんか?必要以上の摂取は動物達に対する虐待行為と同じです。それを理解されていますか?」
善意を装った口調。
だが、その声音には、どこか咎めるような響きがあった。
ただでさえ、心が荒んでいた和奏は、その言葉を聞こえなかったふりをした。
視線も向けず、ナイフを動かす手も止めない。
すると、その人物は態度を変えた。
「聞いてますか?今の時代に、その食べ方は――」
声は徐々に大きくなり、周囲の視線を集め始める。
和奏は眉をひそめ、唇を噛みしめた。
――放っておいてほしい。
それだけなのに。
だが、運の悪いことに、その場には“さらに厄介な存在”が居合わせていた。
全平教の信者である。
注意する人物の声に反応するように、信者がこちらを見やり、そして皿の山に目を留めた。
「……これは、よくありませんね」
その一言を皮切りに、状況は一気に悪化した。
注意、指摘、正論、そして善意を名乗る圧力。
気づけば、和奏は完全に包囲されていた。
あれよ、あれよという間に逃げ場は失われ、ただ食事をしていただけのはずが、いつの間にか“糾弾される側”へと追い込まれていた。
その場に漂うのは、肉の匂いではない。正しさを振りかざす人間たちの、息苦しい空気だった。
さて、どうしたものかと和奏が完全に追い詰められていると――
その時だった。
店内のざわめきを切り裂くように、二人組が現れた。
ひとりは、高身長で屈強な体格の黒人の男だった。
つるりとしたスキンヘッドに、衣服の上からでもはっきり分かるほど盛り上がった筋肉。肩幅は広く、腕は丸太のように太い。じっと立っているだけで、周囲の空気を押しのけるような圧があり、素人目にも只者ではないことがわかる。
もうひとりは、その男とは対照的に、まだ若い女性だった。
栗色の髪をセミロングに整え、年齢は二十代前半ほど。派手さはないが、目元には強い意志が宿り、口元にはどこか人を食ったような余裕がある。小柄ではないが、隣に立つ男の存在感に隠れ、それでもなお埋もれない芯の強さを感じさせた。
二人は、糾弾の輪の中心にいる和奏には一切目もくれず、群がる一向へ向き直ると――
十数枚にも及ぶ空皿を、無言で掲げて見せた。
テーブルの上に残された和奏の空皿は、せいぜい三枚。それと比べれば、彼らの掲げる皿の山は桁が違う。
――全平教の価値観に照らせば、それは比較にならないほどの罪を意味していた。
動物の命を奪い、その肉を喰らい、さらに十数回も繰り返した証。
つまり彼らは、和奏など問題にならないほど、大量の殺生に加担した存在だったのである。
一瞬、店内の空気が凍りついた。
嵐の前の、あまりにも不自然な沈黙。
その沈黙を、あえて踏み潰したのが――若い女性だった。
「――美味しゅうございました」
あろうことか、そう言い放ち、口角をくいっと吊り上げ、はっきりと笑ってみせた。
この世界において、笑うことは慎むべき行為であり、状況をわきまえぬ笑みは、時に罪と見なされる。
ましてや――
大量の空皿を掲げた直後の笑顔など、全平教の信者にとっては、挑発どころではない冒涜に等しかった。
次の瞬間。
阿鼻叫喚が店内を埋め尽くした。
「ふざけるな!」
「反省しろ!」
「何を考えている!」
女性はそれを意にも介さず、挑発するように肩をすくめる。
「あ〜、美味かった美味かった」
わざとらしく、何度も繰り返す。
騒然とする店内。
怒号、罵声、正義の名を借りた言葉の暴力。
そして――
言葉が通じないと悟った瞬間、人々は次の段階へ進んだ。
複数人が、一斉に二人へ飛びかかる。
だが、そこで真価を発揮したのが黒人の男だった。
男は一歩も退かない。
掴みかかってきた相手を、まるで子どもでも扱うかのように投げ飛ばす。
体格差も、人数差も、まるで意味を成さなかった。
実力は、歴然。
肉弾戦で敵わないと悟ると、今度はテーブルの上の物、皿、カトラリー、あらゆるものが投げつけられた。
だが――
男はそれらを、すべて素手で弾き飛ばした。
中には鋭利なものもあり、男の手から血が滴り落ちる。
それでも、男は顔色一つ変えなかった。
怒りも、恐怖も、そこにはない。
ただ、静かな意思だけがあった。
その殺伐とした最中、若い女性がふいに和奏のもとへ駆け寄る。
「――逃げるよ!」
考える間も与えず、和奏の手を掴んだ。
されるがままに引かれ、和奏は黒人の男の背に守られながら、店内を後にする。
背後では、まだ怒号が飛び交っていたが、それは次第に遠ざかっていった。
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「……で、その男は大丈夫だったの?」
甲斐が、ふと思い出したように訊ねた。
「わかりません……」
和奏は小さく首を振る。
「その時の私は、気が動転していましたし……お礼を言うだけで精一杯でした」
言葉を選ぶように、一拍置いてから続ける。
「店の外に出たあと、その女性が……『今度、一緒にケーキでも食べよ』って。はにかみながら言ってくれたんです。それだけ言って、また店の中に戻ってしまいました」
和奏は視線を落とし、身をすくめるように続けた。
「……わたし、そのまま二人を置いて、逃げ帰ってしまって」
胸の奥が、きゅっと縮む。
彼女はそれ以降、二人とまた会えることを願い、あのファミリーレストランに通うようになったのだ。
「それって……もしかして、今日囲まれてた店?」
駿河が確認する。
「……そうです。つい、食べちゃって……」
その言い方は、どこか照れたようで、お茶目で済まされてしまいそうな響きがあった。
だが実際は――
一緒に食べよう、と言われた手前、ただ待ち続けていただけなのだ。
数年経っても現れず、それでも期待を捨てきれず、ついに我慢しきれなくなった結果が、今日だった。
「でもさ……」
甲斐が、いつもの調子で口を挟む。
「数年経っても来ないってことはさ。もしかして、全平教に捕まっちゃったんじゃない? それで、あの酷い拷問を……」
和奏は、はっと息を呑んだ。
――その可能性を、彼女は一度も考えたことがなかった。
今になって突きつけられ、呑気に待ち続けていた自分が、ひどく間抜けに思えてくる。
「……」
「それで、その二人が誰なのか。他に手がかりはないの?」
今度は駿河が問いかけた。
「わたしも……聞いて回ったりはしたんです。でも、有力なのは特に……」
そこで、和奏の表情が少しだけ変わる。
「あっ……ただ……」
「ただ?」
「もしかしたら、“差別教”の二人かもしれない、って言われたことはあります」
「なんだその仰々しい名前は!」
あまりにも阿呆らしい宗教名に、駿河の顔には露骨な懐疑の色が浮かんだ。
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