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教会の門を潜った瞬間、飾り気のない鉄製の門扉が、ぎぎぎ……と不愉快な金属音を立てながら閉じた。直後、内部の錠が「ガチャン」と重々しく施錠される音が響き、背筋に冷たいものが走る。
冤罪で拷問まで受けたというのに、一言の謝罪もない――その事実に、駿河の腹の底は煮えくり返っていた。しかし、ここで波風を立てれば碌なことにならないのは身に染みている。怒りを飲み込み、代わりに舌打ちだけを小さく残した。
門の前では、「お務めご苦労様でした」と言わんばかりに、深々と頭を下げる和奏が待っていた。
「わたしの……勘違いで、本当に申し訳ありません」
先ほど自分があげた悲鳴のせいで、無実の二人が捕らえられてしまったことに、和奏は心底申し訳なく思っていた。だからこそ、彼女は教会へ直談判しに行った。
――あれは二人に対しての悲鳴ではない。
――痴漢など受けていない。
そう説明してようやく、二人の釈放が認められたのだ。
「いや、まぁ〜……というか!」
そこへ、いつものようにニタニタと悪びれもせず笑う私――神の姿が、駿河の癇に障ったらしい。
駿河は苛立ちを隠さず、神である私を指差し、大股で詰め寄った。
「お前が悪いんだろうがッ!」
そしてそのまま──私の頭を叩こうと平手を振り上げた。
しかし、私は咄嗟に実体を霧散させる。
空を切る甲高い音。駿河の平手は虚しく空中を滑り、空振りに終わった。
飄々と笑いながらその様子を眺めてみせると、駿河は顔を真っ赤にして咆哮した。
一方の甲斐は――和奏の目の前に躍り出て仁王立ちした。
「見てくれよ、僕を!勘違いじゃ済まされないだろ!」
その姿は、まさに地獄の亡者。
恐怖のあまり、穴という穴から体液が漏れ出し――これは比喩ではなく文字通りの話である――全身は汚物と異臭にまみれ、到底正視できる状態ではなかった。
物理的にもモラル的にも、年齢制限とモザイクが必要なレベルだ。
「見てくれよ、これ!どれだけ酷い目に遭ったと思ってるんだ!誰かさんの勘違いのせいで!」
「……すみません」
縮こまる和奏に対し、甲斐はここぞとばかりに不満を垂れ流し始めた。
その口調はまるで、今こそ人生最大の恨みを晴らす好機とでも言わんばかりだ。
「まず最初にな、あの冷水だよ!頭から何十回もぶっかけられたんだぞ!?普通に考えて拷問だろ!?いや、普通じゃないよな?おかしいだろ!? で、そのあとに――」
甲斐の語りは止まらない。言うまでもなく早口。内容はやたら細かく、どうでもいい描写まで彩り豊かで、もはや“実況”の域に達していた。
「手の指先はもう感覚がなくなってだな、足なんて痺れて勝手に藻掻き踊ってたんだよ!それに匂い!わかるか!?この匂い!全身から漏れ出た液体ってさ、こう……」
「……す、すみません……」
それでも和奏は、必死に反省の表情を保とうとする。眉尻を下げ、口元を固く結び、うなずきながら聞く。
自分のせいで二人が捕まったのは事実だ。責められるのも仕方ない――そう思っていた。
しかし、甲斐の不満劇はその先で急激に方向転換する。
「でな?あのとき冷水ぶっかけた信者!あれも許せん!あんな拷問を“儀式”とか言って正当化しやがって!とんだ狂信者だよ!全平教の教育、絶対おかしいって!」
和奏は瞬時に表情を固めた。
さっきまで自分の落ち度を責められていた。
だから反省の顔でいられた。
――だが急に宗教批判に切り替わられても困る。
(え……えっと……これは……反省で聞いたらいいの?でも宗教批判を反省顔で聞くのって変じゃない……?でも共感したらしたで、なんか思想的にヤバい人みたいになるし……)
和奏の眉はぎゅっと寄り、目は泳ぎ、口元は震える。
頭の中では「理解・同情・謝罪・賛同・拒否」がぐるぐる同時に巡っていた。
甲斐はそんな和奏の葛藤など露知らず、さらに加速する。
「あいつらおかしいんだよ!まず清掃だよ!三時間に一回掃除!?虫が殺せないからって……いやいや、虫のほうが人間より大事なのか!?俺の寄生虫はどうでもいいのかよ!?お前は笑うところだけど俺は本気で言ってんだぞ!?」
言いながら、甲斐は両手両足を大袈裟にばたつかせ、全身を震わせる。
その背後にはまだ湿り気を帯びた床の跡が残り、異臭が漂い、和奏は距離を取ろうとしつつも逃げ場がなく、ただ気まずそうに頷くしかなかった。
(え、えっと……ここは……共感の顔を……?いやでも私は信者じゃないけど、この場所の前で宗教批判に頷くのは……どうなの……? でも否定したらしたで、「じゃあお前は信者側か!」とか怒鳴られそうだし……)
和奏は完全にパニックだった。
表情は「反省・同情・困惑・恐怖」が同時に浮かび、もはや一つの顔で表現できる限界に達していた。
その間も甲斐の早口は止まらない。
「拷問室だっておかしいだろ!?あの地獄みたいな部屋さ!冷水の温度管理どうなってんだよ!?あれ、絶対わざと氷入れてるだろ!?標準仕様!?規格か!?ふざけんな!あと銅像!なんで全部屋にあるんだよ!?見てただろ!?目が合うんだよ!あれ、絶対動くって!!」
和奏の意識は遠のきかけていた。
もはや話の要点すら掴めず、言語が耳の中で「ガガガガガ……」とノイズのように響き、甲斐の話が異国の言語のように聞こえ始める。
(あ……もうわからない……日本語なのに、全然わからない……)
頭がくらくらし、視界の端が白み始める。
こうして――
怒鳴り散らす駿河、愚痴をまくしたてる甲斐、精神を削られる和奏。
三者三様の声が入り乱れ、場はもはや収拾のつかない混沌だった。
やがて、いくら攻撃を仕掛けても実体化しない私に嫌気が差した駿河は、平手打ちを諦め、甲斐の方へ向き直った。
「もういいじゃないか。その子は謝ってるだけマシだろ」
「よくないよ! 僕がどれだけ酷い目に遭ったと思ってるんだ!」
「いや、半分は自業自得だろ。俺も同じ目に遭ったけど、汚物塗れにはなってない」
「汚物塗れって言うな!!」
怒ってはいるが、甲斐の声色は先ほどに比べて明らかに柔らかくなっていた。
甲斐は根に持たない性格だ。愚痴を一通り吐いたことで鬱憤が軽くなったのだろう。今のやり取りは、もはや喧嘩ではなく、駿河との“揶揄し合い”に近かった。
「大体さ、えっと……どなたでしたっけ?」
駿河は改めて和奏へ向き直る。
「す、すみません……名乗っていませんでした。朝比奈和奏です」
「和奏さんは悪くありませんよ。悪いのはアイツ……あのガラクタです。あんな気色悪い奴が近づいてきたら、叫びたくなるのも当然だよ。まして女性なら尚更だ」
「酷いよ〜駿河ちゃ〜ん」
私は身体をくねくねと捻りながら不満を訴えたが、「黙れ、喋るな」と駿河は一切容赦がなかった。
そのやり取りのおかげで、甲斐の早口愚痴がようやく止まり、和奏はそっと胸を撫で下ろした。
しかしその後はその後で、駿河と甲斐の“汚物塗れ”を軸としたふざけた掛け合いに移行し、和奏は完全に話題から置いてけぼりになった。
くだらなすぎて呆れはするが、同時に――
こんな風に言い合える二人の関係が、ほんの少し羨ましくもあった。
「というか、誰か拭くもの持ってない?」
甲斐がそう言った瞬間、和奏は心臓が跳ね上がった。
――持っている。
ポケットの中には、清潔なハンカチがある。
だが、目の前の甲斐は汚物と異臭にまみれた状態。その身体を自分のハンカチで拭く……というのは、どう考えても生理的に無理だった。
しかし、持っていないと嘘をつくのも心苦しい。せっかく機嫌が良くなりつつある二人に、水を差してしまう気もした。
(ど、どうしよう……)
和奏は咄嗟に、以前から気になっていた別の話題を切り出すことで、その場を逸らそうと決心した。
「そちらの……緑色で、髭もじゃで、禿げ散らかっていて、足がない……気色悪い人は誰なんですか?」
和奏の突然の毒舌に――
「ぶっ……!」
「ははははは!!」
駿河と甲斐は腹を抱えて笑い転げた。
当の和奏本人はぽかんとしている。なぜ二人が笑うのか理解していない。彼女はただ“見たまま”を口にしただけなのだ。
それにしても、なんという不躾な連中だろう。
神に向かって面と向かって愚弄するとは、罰当たりどころの話ではない。
祟りに匹敵する大愚行である。……黄泉の国に招待してやろうか。
天照大御神の反撥心による勅令を言い訳に、私は悪巧みへと打って出た。
ゆらり、ゆらりと和奏に近寄る。
「そんなこと言わないでよ。ねぇねぇ君、可愛いね。いくつ?バスト教えて」
「ちょっ……気持ち悪いんですけど。近寄らないでください。また叫びますよ!」
「「やめてくれ!」」
悲鳴を上げる寸前の和奏。
情けない声を上げたのは駿河と甲斐である。まぁ、先ほどあんな酷い目に遭ったのだから当然か。
人間は学ばない生物。
その原理を利用した天照大御神の思惑は、和奏の第二の悲鳴まで秒読みだったが――間一髪で二人が阻止した。
駿河はわざとらしくゴホンと咳払いし、私について説明した。
「人の不幸を餌にする、自称・神のヘンテコな生物。なぜか付きまとわれてます」
「それは災難ですね……」
憎らしいほど心のこもった返しに、駿河はすっかり気を良くした。
会話はその後も続き、「あ、そういえば映画館で会いましたよね?」という、ラブコメの定番みたいな寒い展開もあったが、大した話ではないのでここでは割愛する。
和奏はしみじみと呟いた。
「……まともな人が、まだこの国にもいたんですね」
だが、それはあくまで彼女の主観に過ぎない。
客観的に言えば、駿河と甲斐はどう考えても“はぐれ者”である。
和奏の思いつめたような表情は、彼女の美しさも相まって神秘的ですらあったが、心の内では――(……どうせなら、イケメンがよかったな〜)という極めて身も蓋もない願望に包まれていた。
人間の表裏の乖離には呆れるばかりだ。
「それにしても嬉しいな。ここ十年、不真面目病の人を探しまわって、全然見つからなかったのに……ここで一挙に二人も知り合えるなんて。奇跡ですよ、奇跡」
「それ誰のおかげだと思う?」
私は駿河の前に踊り出て、期待の眼差しで見上げた。
だが――無視。
この時の私はちゃらんぽらんであるため、無視にも特に反応しない。なんとも幼気なものだ。
それにしても二人とも鈍感すぎる。
この度重なる“邂逅”など、そうそう起こるわけがない。
考えれば、誰のおかげかすぐにわかるはずなのに――奇跡という便利な言葉に胡坐をかき、思考を止めてしまうとは、なんと間抜けな連中だろう。
そして、神への態度を改めるべきである。
見返りは“尊敬と感謝”だけで済むのだから、こんな安価な価格設定は他にない。
それすらしないとは、現代人の道徳的欠如には思いやられるばかりだ。
「あっ、でも……わたし、以前にも不真面目病の人と会ったことあります」
和奏はぱっと顔を輝かせた。
彼女にとって、それはこの十年で唯一の“美談”なのだ。
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