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冗談を交わしながら笑い合っているところに、和奏がどこか神妙な面持ちで近寄ろうとしていた。――そして、ここで“素敵な再会”を邪魔したのは、他でもないこの私である。
私は、顔を真っ赤にし、鼻息を荒くしながら、枯れた花を後ろ手に握りしめ、和奏の前に立ちはだかった。和奏の可愛らしい容貌を前にして、興奮を抑えきれるはずがなかった。これは仕方のないことである。何しろ私は“神”である前に、“男”なのだ。
さて、ここで神について少々補足情報を述べさせていただく。
――実は、神と言えど“性別”は存在する。
新しい概念、すなわち新たな神が生誕すると、八百万の神々が出雲に集結し、その神の性別をどうするか議論する。通常は数ヶ月、場合によっては数年かけて慎重に決められるのだが、私の場合は即座に「男」に決まった。
理由は単純明快。
ガラクタ=役立たず=男。
という、あまりにも安直な発想からである。不服に思う向きもあるだろうが、これが実態である以上、どうしようもない。
そもそも古来より、男神の扱いは雑なのだ。
三貴子を見れば一目瞭然である。主宰神である天照大御神がしっかり者の女神であるのに対し、荒くれ者の須佐之男、影の薄い月読……。男神の評価は得てして低い。さらに言えば、浮気性で性にだらしないという点も男神の共通項であり、これはギリシャ神話を見ても変わらない。
つまり、私も例外ではなく、性欲旺盛であり、美人にはとにかく弱い――というわけだ。
「はぁはぁ……君、可愛いねぇ……はぁはぁ……ねぇねぇ、君何歳?どこから来たの?」
粘り気を帯びた、湿ったような声で、私は和奏の耳元に囁きかけた。言葉は糸を引くようにまとわりつき、決して心地よいものではない。むしろ、聞いた瞬間に鳥肌が立つ類いのものだろう。
私は彼女の視界の端から端へ、まるで悪戯好きの妖精のごとく縦横無尽に飛び回り、顔を近づけては離れ、また近づける。その度に風が僅かに揺れ、和奏の髪がふわりと舞う。
案の定、彼女は怯え切っていた。
肩は小刻みに震え、指先は胸元できゅっと握り締められている。脚までも内股になり、全身を縮こまらせながら後ずさる。その表情は強張り、喉の奥でかすかな悲鳴が震えていた。
――しかし、そんな些細な抵抗など、もちろん私には関係がない。
返事が欲しい。ただそれだけなのだ。
私は和奏の返答を待つが、当然、彼女に私の姿も声も届いてはいない。
「ん?なんで無視するの?」
私は彼女の正面へと回り込み、鼻先が触れんばかりの距離まで顔を寄せた。息がかかるほどの至近距離。和奏はびくりと肩を跳ねさせる。
その刹那――。
「キャーーーーーーッ!!ヘ、ヘンタイ!!近寄らないでぇぇぇ!!」
和奏は、張り裂けんばかりの悲鳴をあげた。
ただの悲鳴ではない。腹の底から絞り出すような、全力の恐怖の声だった。
その声に反応したのは、私ではない。
――駿河と甲斐である。
二人の肩が同時にビクッと跳ね上がった。
周囲の通行人も驚いて振り返り、一瞬で人の視線が一点に集中する。視線の先には、震える和奏。そして至近距離にいた駿河と甲斐。
無論、私の姿は誰の目にも映っていない。
必然的に人々の脳内で導き出される結論は一つだった。
――この女性を怯えさせた元凶は、この男二人だ。
「ち、違うんです! 俺たちじゃ――」
「話を……聞いてくれ!」
駿河と甲斐は慌てて弁明しようとするが、群がった人々の怒号がそれをかき消す。
「言い訳するな!」
「現行犯だろ!」
「誰か全平教を呼べ!」
彼らは腕を掴まれ、背中を押され、逃げ場を失っていく。
私はというと、騒ぎの中心で、ただぽかんとしていた。まさか、私のささやかな興奮の余波で、ここまでの大惨事になるとは思っていなかったからだ。
こうして駿河と甲斐は、必死の無実の主張むなしく、“痴漢”の濡れ衣を着せられたまま、人々に捕らえられた。
そして、罪人として――全平教会へと連行されることになったのである。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
コンクリート打ちっぱなしの狭い室内。
壁は冷え切り、照明は裸電球が一つだけ吊るされ、じりじりと不気味に明滅している。湿気を含んだ空気はぬるく、溜まった水が時折ぽたりと床に滴る。そんな空間で、駿河は――取り調べという名の拷問を受けていた。
両手両足は太い鎖で拘束され、椅子に縛り付けられたまま身動きが取れない。
そこへ、一定の間隔で氷の粒が浮かんだ冷水が容赦なく頭上から浴びせられる。
バシャァァッ!!
全身を一瞬で貫く氷のような衝撃。
冷水は衣服を通して肌に貼り付き、骨の髄まで凍りつかせる。呼吸を吸うたび肺が痛む。顔から滴る水は顎を伝い、滴り落ちる。すでに身体は震えが止まらず、駿河の唇は紫色に変わりつつあった。
「……痴漢しただろう」
信者が、無機質な声で何度も繰り返す。
返答しない駿河に、再び冷水が容赦なく浴びせられた。
バチャッッ!!
駿河はぎゅっと目を閉じ、歯をきしませる。
黙秘権を盾に耐え続けてきた。しかし、冷水による寒さと痛み、さらに光のちらつきや湿った空気による精神的圧迫が、少しずつ彼の意識を侵食していく。
何時間も続く拷問。
もう、時間の感覚すら曖昧だった。
(……いっそ、このまま舌を噛んで――)
そんな絶望的な考えが頭をよぎり始めていた。
一方、隣室。
ここでも同じく拷問は行われていたが、甲斐は駿河とは対照的に、無謀にも真正面から抗っていた。
「やっていない! 本当にやっていないんだ!」
声は震えながらも、必死に胸を張り続ける。
しかし信者は冷水をぶっかけながら暴言を吐く。
「凍えて死ね!」
その言葉を聞いた瞬間、甲斐の目がぎょろりと大きく見開かれた。
「死ねだと? お前が今僕に冷水をぶっかけたことで、僕の身体を住処とする無辜の寄生虫達が亡くなってしまったことを理解しているのか!?全平教ともあろう者が、無関係な虫を殺害するなどあって良いのか!?」
声量・迫力・熱量。全てが極端だった。しかも論理がめちゃくちゃだ。
だが――信者はこれをまともに受け取った。
「え……寄生虫……?殺害……?」
顔がみるみる青ざめていく。
手は震え、冷水の入ったバケツがカタカタと音を立てる。
この下っ端信者は、マニュアル対応こそ完璧だが、それ以外の事態には全く対応できない。黙秘権の行使や一般的な反抗なら押し切れる。しかし――甲斐のような“想定外の詭弁”には頭が追いつかない。
甲斐はこれを好機と捉えた。
「見ろ!あぁ……旋毛にいたノミちゃんが寒さに震えて弱っていく……あぁ、なんて可哀想に……この殺人鬼め!僕のノミちゃんを返せ!!」
「わ、私は……私はなんて恐ろしいことを……兵藤様……申し訳ありません……!」
信者はその場に膝をつき、両手を合わせ、震えながら天に許しを乞う。
甲斐は両手足を拘束されていながら、大袈裟に表情を歪め、涙を流し、怒鳴り散らす。完全に“演技の世界”だった。
下っ端信者は完全に降参し、頭を下げた。
――しかし。
その直後、部屋に新たな信者が入ってくる。
その顔は冷静で、妙に弁が立ちそうな雰囲気を纏っていた。
「……であれば、髪をむしり、皮膚を剥いで寄生虫を取り除いたうえで取調べを続けましょう」
甲斐の顔色が塩をかけたナメクジのように一瞬で変わった。
「ま、待て……や、やめ――」
信者は無慈悲にも、机の上からバリカン、ハサミ、ペンチを無造作に取り出す。甲斐は暴れ狂うが、拘束具のせいで逃げられない。
「いやだ!!やめろ!!ノミちゃんもコケもダニも関係ない!!全部ウソだ!!! ごめんなさい!!許してくださぁぁぁい!!」
甲斐はついに無様に泣きじゃくり、許しを乞った。
信者の手は容赦なく、甲斐の髪へと伸びていく。
万事休す――。
バリカンの刃が甲斐の髪へ触れようとした、その寸前だった。
分厚い扉が「ガンッ!」と叩かれ、慌ただしい足音とともに信者が駆け込んできた。
「報告!例の二人、無罪との連絡が入りました!」
一瞬の静寂の後、甲斐の顔がぐにゃりと崩れ落ちた。
張り詰めていた気力の糸がぷつりと切れ、全身の穴という穴から水分が垂れ流れ、息をするだけでぐじゅ、と音がしそうなほど見るも無惨な状態だった。
駿河と甲斐は、そのまま釈放されることとなった。
手枷と足枷が外され、付き添いの信者に先導されながら、取調室から出口へと向かって歩く。ようやく自由になったはずなのに、二人の足取りは重かった。
何時間も拷問を受けた身体は鉛のように鈍く、精神は削れきっている。
しかし同時に――初めてまともに、全平教会の内部を観察する余裕が生まれた。
ここに連れ込まれた時には、恐怖と混乱でそれどころではなかったが、改めて見渡すと、この教会は“異様”としか言いようがなかった。
まず驚くのは、ありえないほどの清潔さだ。
廊下は白い石材で敷き詰められ、磨き上げられた床は光を反射して鏡のように輝いている。埃どころか、小さな繊維片すら落ちていない。
理由はすぐにわかった。
廊下の端では、信者たちが雑巾を片手に、無言で床を磨き続けていた。どの顔にも疲労が滲み、腰を曲げ、ひたすら同じ動作を繰り返す。
そして別の場所では、ほうきを持った信者が壁の角という角を入念に掃き清めている。
三時間に一度、大規模な清掃を行うという。
その真の目的は――虫が一匹でも入らぬよう、徹底的に清潔を保つため。
殺生を避けたいからこそ、虫が入り込む余地すら排除するというわけだ。
潔癖ではない。だが、狂気じみた清潔さだった。
駿河は思わず小声でつぶやいた。
「……いや、他にやることあるだろ」
しかし誰にも届かない。
信者たちは、一心不乱に清掃を続けていたからだ。
さらに目を引いたのは、どの部屋にも必ず置かれている銅像だった。
高さ一メートルほど。
厳しい目つきで前を睨みつける男――教祖・兵藤克忠の姿だ。
そして、ただ設置されているのではない。
全ての部屋に、だ。
廊下には廊下用の銅像。会議室には会議室用の銅像。取調室にも。
食堂にも。祈念室にも。
駿河と甲斐は知らないが――
実は、トイレや風呂場にまで、男女問わず必ず銅像が置かれている。
排泄や入浴という、人間の最も無防備な瞬間にも常に“教祖の視線”があるのだ。
一般的に考えれば異常な光景だが、信者たちはこれを当然として受け入れている。
銅像の前を通るときには、ほぼ全員が一度立ち止まり、軽く頭を下げるほどだ。
さらに教会内を歩くと、至る所で信者たちが銅像に縋る姿が見えた。
「克忠様……先ほど、睡眠という怠慢をしてしまいました……どうかお許しを……」
「掃除の最中、わずかに埃を見落としてしまいました……罰を……」
彼らは銅像に抱きつき、涙を滲ませ、許しを乞う。
それが“日常業務”として組み込まれているらしい。
清掃 → 懺悔 → 清掃 → 懺悔。
その無限ループだ。
駿河と甲斐からすれば、目の前に広がる光景は理性が拒絶する、常識の埒外にあるものだった。
そして、二人は確信した。
――ここの連中、全員頭がおかしい。




