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最新のモンクエをやってみたいという甲斐の要望もあり、由佳の家でゲームをすることになった。
甲斐は緊張した面持ちのまま、由佳の案内で玄関をくぐる。二階建ての一軒家だ。中に声を掛けてみたが、返答はない。
「誰かいるの?」
尋ねると、由佳は一瞬だけ視線を落とし、冷めた口調で答えた。
「母がいる」
モンクエとは関係のない話題になると、途端にトーンが落ちる。
ちなみに、由佳自身も帰宅時に「ただいま」とは言っていなかった。
生真面目病患者には、そもそも“ただいま・おかえり”の習慣が存在しない。人との接触を避ける彼らは、家族団欒も不要とみなし、挨拶という文化すら排除するのだ。
由佳の部屋に入ると、壁にはモンクエのポスター、棚にはモンスターのフィギュアが所狭しと並んでいた。
甲斐が羨ましがると、それまで無表情だった由佳の顔に、ぱちんとスイッチが入るように光が宿った。
「あ、それね! これ限定版の――あの、初回生産だけのやつ! 発売日にお母さんにお願いして、朝五時から並んでもらって……あっ、見てこれ、この爪のとこ! ゲームの設定画だともっと丸いんだけど、こっちの立体はちゃんと鋭くてさ! ほら、比較すると――」
由佳はまるで息継ぎを忘れたかのように、言葉を次々と重ねていく。
語尾が少し跳ね、早口になり、指先も忙しなくフィギュアを指し示す。
「でね、この子! この子はゲームだと雑魚なんだけど、進化すると攻撃力が一気に二倍近く伸びて――あ、あと将来的に裏ダンジョンで仲間にすると特殊スキルも解放されるんだよ! あと、それで思い出したんだけど、公式設定資料によると――」
目の輝きはすでに常軌を逸し、瞳がキラキラと揺れている。
呼吸さえ上擦り、体が微かに前傾し、まるで“好き”が体温になって噴き出しているようだった。
「そ、それでね! 初代ラスボスのこいつ! 戦闘BGMがほんっとうに良くて、あの入りの“ドゥンッ”て音で鳥肌立つの! あとリメイク版だとアレンジが――」
止まらない。
完全に由佳は“推し語りモード”に突入していた。
その姿はなんとも健気で、そして痛いほど真っ直ぐで。
甲斐の胸は、気がつけば温かいもので満たされていた。
「よし。じゃあモンクエやろうぜ」
「うん。そうだね」
にこりと笑った由佳が、何気なくテレビ台に視線を移した――その瞬間だった。
由佳の動きが、ぴたりと止まった。
まるで時間だけが彼女の周囲で凍りついたように、体が一切動かない。
「……えっ、ない」
掠れた声は、さっきまでの弾むような調子とはまるで別物だった。部屋の空気が一気に冷え、甲斐の背筋にいやな汗が滲む。
テレビ台は空っぽだった。
甲斐の頭を、黒い影のような予感がかすめる。
次の瞬間、由佳は押し入れの戸を乱暴に開け放った。
中をかき回す手は震えており、指先はうまく掴めず、物が何度も床に落ちる。
「……ない……ない……どうして……どこ……どこにあるの……」
呟きはしだいに早口になり、声は細く千切れそうになっていく。
由佳は雑誌や衣類、段ボール箱を押しのけ、引き出しを引っ張り、扉を開け閉めし、すべてを無秩序にひっくり返し始めた。
フィギュアが床で転がる。
本棚からゲーム攻略本がばさばさと落ちる。
床はあっという間に散らかった物で埋め尽くされた。
「ない!どうして!どこに……どこにあるの……っ」
声が割れ、息がうまく吸えていない。
目は血走り、頬が紅潮し、呼吸は荒く、肩が上下に大きく揺れている。
ついさっきまで楽しそうに語っていた人物とは、同じ人間とは思えなかった。由佳は、何かに憑かれたようにゲーム機を探し続けている。
甲斐はただ、その場に突っ立ったまま、言葉ひとつかけられなかった。
由佳の変貌があまりにも急で、あまりにも切実で、目の前の光景をどう受け止めればいいのか分からなかった。
由佳が部屋中の物をひっくり返したことで、あらゆる物が床に散乱した。紙が舞い、フィギュアが転がり、箱や本が音を立てて落ちていく。
その中の一枚が、ふわりと甲斐の足元へ舞い落ちた。
チラリと拾い上げて目を落とす。
――由佳と、複数の少女が写る集合写真。
しかし、由佳以外の少女たちの顔は、太い黒ペンで容赦なく塗りつぶされていた。
ただの塗りつぶしではない。ひと目でわかる――そこには明確な“悪意”が込められていた。
インクは紙の裏側まで染み込むほど濃く、筆圧は異常なほど強く、紙がところどころ毛羽立っている。顔の輪郭を無視して、何度も何度も、乱暴に往復する線が重なっていた。
目の位置、口の位置など関係なく、「存在そのものを否定する」かのように、黒がページを支配している。
まるで、“見えないようにするために描いた線”ではなく、“許せないという感情を叩きつけた線”
そんな風にさえ見えた。
線の端々には描き手の手の震えが現れ、怒りなのか悲しみなのか、それとも恐怖なのか――
どれとも判断できないほど荒んだタッチになっている。
黒い跡はインクの艶を帯び、光に当たるとぬめっと鈍く反射し、その存在感は、ただの落書きという域を明らかに超えていた。
それは、由佳が受けた“いじめ”という事実そのものが、写真に形となって残っている
――そんなおぞましい迫力があった。
ああ――そうか、と甲斐は思い出す。
昔、由佳はクラスメイトから壮絶ないじめを受けていたことを。そして、甲斐は見て見ぬふりしかできなかった、自分の情けない過去を。
「なにしてるの!」
突然、鋭い声が部屋に刺さった。
物音を聞きつけた由佳の母親が、勢いよく扉を開けて飛び込んできたのだ。
そして、パニック状態で部屋中を探し回っている由佳の腕を、力任せに掴んだ。
「やめなさいッ!」
手首が折れそうなほどの力だった。
由佳はビクッと震え、怯えた子犬のように母親を見上げる。
涙で滲んだ瞳が揺れ、か細い声で恐る恐る尋ねた。
「ねぇ……お母さん。……わたしのゲーム、知らない?」
「なに言ってんの。とっくに捨てたわよ」
その言葉は、刃物よりも冷たく、無情に突き刺さった。
由佳はその場で膝から崩れ落ちた。
ぽた、ぽた、と大粒の涙が床に染みをつくっていく。
やがて号泣が溢れ、嗚咽が喉を震わせる。
その姿を、“大袈裟だ”の一言で片付けるのは、私から言わせれば冷酷非道の極みである。
人にとって大切なものの重さは、他人が決めつけていいものではない。それを、自分の尺度ひとつで笑い飛ばすなど――傲慢にも程がある。
泣き崩れる由佳を前に、甲斐は呆然とし、胸が締め付けられた。
「由佳がおかしくなったのは、お前のせいだ!」
突然、母親の怒りの矛先が甲斐へ向けられた。
甲斐の悪評は保護者の間で噂として広がっており、母親はその“あることないこと”を怒りのままに列挙し始めた。
「変態だって聞いてる!問題児だって聞いたわよ!娘に近づくなんて、どういうつもり!?」
罵詈雑言を浴びせながら、母親はじりじりと甲斐に近づく。
甲斐は後退りし、気づけば壁際まで追い詰められていた。
膝がガクンと崩れ、座り込む。
恐怖と動揺で、声が出ない。
喉が張り付いたように震え、何も言葉にできなかった。
「出ていきなさいッ!二度と由佳に関わるな!」
甲斐は跳ねるように立ち上がり、逃げるようにして玄関へ向かった。靴もろくに履けないまま、由佳の家を飛び出した。
どうしてこんなことになってしまったのか。
甲斐は帰宅途中、何度も何度も自分に問いかけた。
母親の態度からして、モンクエが捨てられたのは昨日今日の話ではない。
では、なぜ由佳は今まで気付かなかったのか。そんなこと、あり得るのか?
――いや、あり得る。彼女は僕とモンクエの話をしている時以外、他のクラスメイトと同じようにどこか様子がおかしかった。
恐らく、それは家でも同じなのだ。
モンクエの話題以外、彼女は何も感じられない。だからこそ、ずっと気付かなかったのだ。
では、どうすればいい……?
思い悩んだ末に、答えはすぐに見つかった。由佳の家でゲームをする必要なんてない。
僕の家に来てもらえばいい。たったそれだけのことだ。
――まだ望みはある。
――諦めてなるものか。
しかし、その望みはあっさりと断たれた。
翌日。
担任教師から告げられたのは、由佳の 転校 だった。
その一言は、あまりにも簡潔で、あまりにも冷たかった。
理由は語られず、引き留める余地もなく、ただ淡々と「もう来ない」と告げられるだけ。
甲斐の胸の奥で、何かがぽっきりと折れた。
音はしなかった。ただ、世界の色が一瞬で抜け落ちた。視界が白く霞む。耳鳴りが遠くで鳴り、担任の声が水中から聞こえるようにぼやけていく。
――ああ、終わったんだ。
甲斐は、その瞬間に生きがいを失った。
また、あの孤独で憂鬱な日々に逆戻りしてしまった。
席に戻っても、身体の感覚がどこか遠くにある。机に触れているはずなのに、温度がわからない。自分が呼吸しているのかどうかすら曖昧だった。
その日、甲斐はずっとうつろな目で過ごした。
黒板に書かれる文字は意味を持たず、ただ白い線が揺れているだけに見える。
教室の雑音はどこか遠い洞窟の奥で反響しているように、ぼんやりと耳に届く。
──考えることを拒む。
もし考えてしまえば、心が完全に壊れると本能が告げていた。
感情が動けば、その勢いで涙も悲鳴も溢れ出すだろう。だから、感情そのものを切り離した。
それが唯一の防衛策だった。
帰宅後も、身体は勝手に動いていた。
日頃の習慣でモンクエを起動し、コントローラーを握り、画面に集中する。
すると不思議なことに、胸の痛みがすっと軽くなった。
ゲームをしている間だけ、心が癒されるのだ。学校での嫌な記憶が薄れ、視界が明るくなる。
ゲームの中から溢れ出してくるのは、由佳との楽しい会話だった。
楽しげに語る由佳。
誇らしげに語る由佳。
真剣にアドバイスする由佳。
甲斐の失敗談を聞いて笑う由佳。
気付けば、頬を一筋の涙が伝っていた。
だがそれは、悲しさや虚しさからではない。
自分でも理由はわからないが、心はふしぎと晴れやかだった。
――ゲームをしている間だけは。
それからの日々は、重く、暗く、息苦しかった。
学校へ行っても空虚な時間が続き、家へ帰れば由佳のいない現実がのしかかる。
甲斐は、ある瞬間にふっと思った。
外に出たって、どうせろくなことはない。
辛く、孤独な日常が待っているだけだ。
そんな世界に、もう未練なんてない。
僕はただ――ゲームさえできればそれでいい。
その日、甲斐は引きこもりになることを静かに決意した。
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