消えた婚約者
愛する人の悲しみを見るのは、自分が苦しむより辛いものだ。その苦しみを取り除けるとしたら、どんな代償でも払うと誓う。しかし、時として愛は盲目になる。善意が招く結果について、私たちはどこまで想像力を働かせることができるのだろうか。
田中健一は、コーヒーカップを握る手を震わせながら、目の前の女性を見つめていた。彼女は美しく、知的で、彼が愛した女性そのものだった。しかし、彼女の左手薬指には指輪がない。
「すみません、お間違えではないでしょうか?」美咲──彼がかつて愛し、婚約していた女性──は困惑の表情を浮かべている。「私は田中さんという方は存じ上げませんが...」
健一の胸に、冷たい石が落ちたような感覚が広がった。
三か月前、彼は過去に戻った。美咲の両親が交通事故で亡くなるのを防ぐために。彼女が泣き崩れる姿を見るのが辛くて、愛する人の悲しみを取り除いてやりたくて。
時間旅行許可証を取得し、事故の起こる一週間前に戻って、両親を説得した。旅行の計画を変更させ、あの日あの時間に、あの交差点にいないようにした。
改変は成功した。両親は生きている。
しかし──
「失礼いたします」健一は立ち上がった。美咲は相変わらず困惑している。彼女にとって、健一は見ず知らずの男でしかない。
帰り道、健一は過去改変局のデータベースにアクセスした。改変後の世界線を調べるために。
画面に表示された情報に、彼は愕然とした。
美咲の両親が生きているこの世界線では、彼女は大学を中退していた。両親の期待に応えるため、家業の和菓子屋を継いでいる。彼女が通っていた大学──健一と出会った場所──にはもういない。
二人が出会うきっかけそのものが、消えてしまっていた。
健一は公園のベンチに座り込み、頭を抱えた。彼の善意の改変が、二人の愛を、結婚への道筋を、全て消し去ってしまった。
スマートフォンが震えた。過去改変局からの通知だった。
『改変報告書の提出期限を過ぎています。速やかに提出してください』
健一は画面を見つめた。報告書には改変の理由と結果を記載しなければならない。しかし、どう書けばいいのだろう?
「愛する人の悲しみを取り除こうとした結果、その人との愛そのものを消してしまいました」とでも?
夕日が公園を赤く染めている。子供たちの笑い声が聞こえてくる。平和な日常の風景だった。しかし健一には、この世界のどこにも自分の居場所がないような気がした。
彼は「もしも」を殺してしまったのだ。美咲との「もしも」を。二人で築くはずだった未来の全ての「もしも」を。
時間旅行者が直面する最初の試練は、改変の結果を受け入れることだ。技術的には成功でも、感情的には破綻。健一の物語は、多くの時間旅行者が経験する「改変後うつ病」の典型例でもある。愛する人を救おうとして、愛そのものを失う。これは時間旅行の最も残酷な皮肉の一つかもしれない。