優しい世界 ―Remnant―
__この世界は、優しい。
どこまでも穏やかで、どこまでも柔らかい。
もしも、傷つくことさえ許されない世界なら。
もしも、泣くことすら間違いだと笑われるのなら。
そんな世界は、きっと――あまりにも優しすぎて、
少しだけ、こわい。
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声を張り上げ、公園を駆け回る。
風が頬を撫で、笑い声が溢れる。
(いつぶりだろう……こんなに走ったの)
同じくらいの年の子供たちが次々に現れ、
ボールを蹴り、笑顔を交わす。
シュウも混じり、夢中でサッカーをした。
胸が震え、息が切れても笑いが止まらない。
――ああ、これが“自由”ってやつなんだ。
だが、その光景を遠くから見つめる影があった。
黒い帽子の男。赤く濁った瞳が細められる。
「……そろそろだな」
指を鳴らす。
パチン――その音は、世界の鼓動と共鳴した。
次の瞬間、足に鉛のような重みが落ちる。
膝が崩れ、地面に叩きつけられた。
「……え? あれ? あれ??……」
焦って起き上がろうとする。
だが、膝は震え、指先も感覚がない。
「ごめんね!今立つから……すぐ……!」
子供たちの笑い声が止まった。
目の前の小さな影たちが、ゆっくりと距離を取る。
「もういいよ、あっちで遊ぼうぜ」
「つまんねぇや、帰ろ帰ろ」
「ま、そういうやつだよね」
「え……まって……! 待ってよぉッ!」
誰も振り向かない。
伸ばした手が空を切る。
その瞬間、シュウの胸の奥から黒い光が抜け出した。
男はそれを掴み取り、笑いながら口に放り込む。
____ムシャリ。
「んん?……悪くない。けどぉ、ちょっと味が薄いなぁ……」
舌なめずりをしながら、指を鳴らした。
再び、子供たちの姿が現れる。
だがその表情は、さっきの無邪気な笑顔ではなかった。
瞳が暗く濁り、唇が冷たく歪む。
「早く立てよ、ノロマ!」
「邪魔すんなよ、空気読めねぇのか!」
「ほんと、台無しだよ」
罵声が降り注ぐ。
それは雨よりも冷たく、針のように刺さった。
「や、やめて……やめてよ……」
再び黒い光が、体の奥から抜け出していく。
男は恍惚の笑みを浮かべ、再び喉に流し込んだ。
「……うん。さっきより美味いなぁ。
でも、もう少し“人間の味”が欲しいねぇ…あぁ…そうか……“知っている顔”がいいのかぁ?」
パチン。
世界がまた歪む。
子供たちは消え、代わりに“見覚えのある顔”が現れた。
みっちゃんが、冷たい笑みを浮かべて言った。
「やだ〜♡ 何もできない弟がいて、シンさんがかわいそう〜♡ 本当かわいそう♡」
仁が煙草をくわえたまま吐き捨てる。
「使えねぇ弟だな……お前がいると、酒が不味くなる」
常連の誰もが、同じように笑っていた。
誰一人、助けようとはしなかった。
「……違う、違う……そんなこと言うはずない……!」
「本当にそう思うか?」
耳元で声が響く。
「お前は気づいてただろぉ?みんな“優しくしてくれる”のはぁ、安く酒を飲むためだぁ。
お前に優しくすれば兄が喜ぶ。そして哀れな弟を見て、安心してるだけさ。
お前の“優しい世界”なんて、全部そうやって作られてるんだょ」
黒い光が再び体から抜け出し、眩いほどに輝いた。
それを見て、男は歓喜に震える。
「いい……いいねぇ……この味だ……絶望の熟成、たまらねぇッ!さぁ仕上げといこうかぁ…」
黒い光を飲み込みながら、狂気の笑みを浮かべる。
世界がひび割れ、空が血のように赤く染まる。
「しゅう…」
兄の声が聞こえた。
「兄……!」
シュウの胸が震える。
その姿を見た瞬間、すべてを察した。
(来ないで……違う……違うんだ……)
だが、兄は静かに立っていた。
降る雨に濡れた顔は、泣き出しそうなほど悲しみに満ちている。
そして、その口から零れたのは――
最も聞きたくなかった言葉だった。
「ごめんな、シュウ……もう……………疲れた」
その瞬間、世界が音を失った。
シュウの頬を、静かに涙が伝った。
気づけば、次から次へと零れ落ちていた。
視界が崩れ、心臓が砕ける音がした。
光が弾け、黒い男が歓喜に咆哮する。
「美味いぃッ! 実に美味いぃッ!
絶望が生まれるその瞬間こそ、最高のご馳走よぉッ!」
黒い光を貪りながら、血のような舌を這わせる。
「もっとだ……もっと喰わ________」
――轟音。
男の体が、何かに殴り飛ばされた。
地面に叩きつけられ、ひび割れた世界が揺れる。
「…誰だぁ?オテェは……?」
その前に立っていたのは、拳を震わせる男。
怒りと悲しみを滲ませた目。
炎のように燃える闘志。
「お前だな?うちの弟、泣かせたのは……?」
「だとしたらぁ???」
拳が鳴る。
その一撃が、夢そのものを震わせた。
「――ぶっ飛ばす。」




