優しい世界 ―Re:write―
____この世界は、優しい。
誰かが差し出す手。
誰かがこぼす笑い声。
どこまでも穏やかで、どこまでも柔らかい。
けれど時々、思うんだ。
優しいってなんだろうか?
もしも、痛みを感じなくなることが優しさなら。
もしも、誰にも頼らずに済むことが幸せなら。
その世界は____あまりにも優しすぎて、きっと、少しだけこわい。
◆昼下がりの「深夜の世界」。
仕込みも一段落し、厨房には香ばしい油の匂いが漂っていた。
揚げたての唐揚げをひとつ、つまんで頬張るシンの横で、
車椅子のシュウが声をかけた。
「兄。買ってもらった車椅子の試運転をしたいから、ついでに買ってくるもの無い?」
「お? あぁえっと……野菜と肉、それに醤油を将口店で受け取る予定だったな。どうだ、一緒に行くか?」
「ううん、僕ひとりで行くよ。兄はゆっくりしてて」
「そっか……でも、ECOを連れてけよ。何かあったらすぐ連絡しろよ」
その一言で、ECOが立ち上がる。
「了解しました。買い物ですね。任務、開始します」
こうして、ぎこちないコンビのお使いが始まった。
◆シュウは財布を握りしめ、ECOは無表情に前を歩く。
商店街の喧騒の中で、どう話しかけていいか分からない。
「……あの、ECO」
「なんですか、弟様?」
「今日は……その、よろしく」
「はい。無事に帰宅できるよう任務遂行します」
(……会話、終わった!?)
思わず内心で頭を抱える。
八百屋の前で、ECOがぴたりと立ち止まった。
「……キャベツ。値引きシール。コストパフォーマンス良好です」
その様子に気づいた店主のおばちゃんが、笑顔で声をかけた。
「まぁまぁ、シンさんのとこの弟さんねぇ!お使いかい?えらいねぇ!」
「あ、あの、このキャベツ五玉ください」
割引シールの貼られたキャベツを指差すと、
おばちゃんは手を止め、にこりと笑った。
「おやおや、こっちのキャベツにしておきなさい。入荷されたばかりで甘みがあるよ」
「あの……で、でも……」
「大丈夫。値引きと同じ値段でいいからねぇ」
「え?」
「ほらぁ、シンさんってガサツに見えるけどね。あの子、お父さんの教えで“食”にはうるさいんだよ。
“安物で客を喜ばせても、それは料理じゃねぇ。利益優先して客に安物食わせる奴があるか”ってね。
って、よく店先で怒られてたもんさ」
「兄が……」
その言葉に、シュウの胸が小さく疼いた。
兄の知らない一面。
父に叱られていたという過去。
いつも笑って、何でも出来る兄の、そんな姿が想像できなかった。
「あとこれ、キュウリ。浅漬けにすると美味しいわよ。持っておゆき!」
「お使いの報酬ですね。ありがとうございます」
「……あ、ありがとうございます」
二人は深々と頭を下げた。
---
肉屋でも、醤油屋でも、
兄や父の知らなかった話をたくさん聞かせてもらった。
おまけのコロッケまで貰い、心もお腹もあたたかい。
だがその帰り道。
ふと、耳に賑やかな声が届いた。
____公園。
子供たちの笑い声、転がるボールの音。
その中心で御子が子どもたちと笑い合っている。
シュウは無意識に止まり、その光景を見つめた。
「弟様?」
「あ、ごめん」
その瞬間、空からぽつりと冷たい雫が落ちてきた。
「あ、雨……」
やがて本降りとなり、二人は古いアーケードの屋根の下に駆け込んだ。
ECOは濡れた前髪を払いながら呟く。
「雨天……非効率的ですね」
「そうだね……兄、心配してるかも。傘の代わりになる物……」
シュウは買い物袋を頭に乗せた。
不格好な姿に、ECOの瞳がわずかに和らぐ。
「……弟様は時々、非合理です」
「そ、そうかな?」
「……でも、嫌いではありません」
その一言に、シュウの心臓が跳ねた。
「あと二時間は降るでしょう。私が傘を取りに戻ります。
生肉もありますので、このまま待つのは非合理的です」
「え? 濡れちゃうよ?」
「問題ありません。防水加工済みです。
それに……マスターが慌てて走ってくる姿が想像できます。
傘もささずに抱きついてくる確率、80%。もし揚げ物中なら店は炎上です」
「炎上!? ちょっ、ECO!?」
もう彼女の姿は雨の中に消えていた。
「……行っちゃった」
「……慌ただしい人形だねぇ」
声がした。
いつの間にか、隣のベンチに男が座っていた。
黒く古びた帽子。濡れたコート。
笑っているのに、目が笑っていない。
「!? ごめんなさい、他に誰もいないと思ってました」
「いやいや、こちらこそぉ驚かせてしまってぇ悪かったねぇ。お詫びにコレをあげよう」
男はポケットから黒く光る石を取り出した。
まるで闇を凝縮したように、不気味に光る石。
「お前さん……足が自由になりたいと思わないかぁ?」
「オジサンは……お医者さんですか?」
「いいやぁ、違うねぇ。だが、これは“自由になれる石”さ。思うがままになりたいとぉ思わないかぁ?」
「だ、大丈夫です。今のままで満足してますから」
男は笑う。
「さっきも思ったろう? 走れたらいいなぁ、サッカーしたいなぁ、って。」
「……やめてください」
男の声が、心の奥を抉る。
「兄に頼らなきゃならない時がある。迷惑ばかりかけてるって思ってるだろう?
でもこれがあれば、もう迷惑なんてかけない。一人で歩ける。高い車椅子だっていらない。」
「……迷惑を、かけない……」
雨音に溶けながら、その言葉だけが胸に残る。
男は囁いた。
「そう……誰にも、頼る必要がなぁぁい。」
心が揺れた。
「どう使うの?」
男は唇を歪め、嬉しそうに囁いた。
「いい子だ。これを握って寝るだけでいい。
次に目が覚めたとき――思い通りの世界が待ってるさ」
そのとき。
「おーい! シュウーーッ!!」
雨音を切り裂く声。
傘を振り回しながら走ってくる影。兄だった。
振り返ると、男の姿はもうどこにもなかった。
ただ、手のひらの石だけが、ぬめるような温もりを残していた。
兄の顔は雨ではなく、汗で濡れていた。
その姿を見て、シュウの胸が痛んだ。
また迷惑をかけてしまった。
また、心配させてしまった。
帰り道。
ECOがぽつりと呟く。
「……マスターの行動は合理的ではありません。もう少しで店が爆発して____」
「やめろーーーッ! 恥ずかしい!!」
三人で傘を分け合いながら帰る道。
笑い声が響くそのポケットの中で――
黒い石は、静かに、確かに、脈動していた。




