外伝.『閻魔、誕生 ― 冥極零司の裁き』
冥界の重い扉が閉じる。
父の背中は揺るぎなく、零司はただその後ろを歩いていた。
「零司。心に刻め」
父の低い声が、魂を凍らせる。
『他人に情を持つな。ほころびはやがて心を腐らせ、裁きを曇らせる』
零司はただ「はい」と答えるしかなかった。
冥極家に生まれた零司は、幼い頃から父の声を叩き込まれていた。
『他人に情を持つな。ほころびはやがて心を腐らせ、裁きを曇らせる』
冷たく鋭い響きは、零司の心を縛る鎖となった。
彼の家は代々「閻魔」として人を裁く家系。情を見せることは、家の恥とされた。
学校でも、零司は孤立していた。
笑わず、友達も作らず、ただ成績優秀で冷徹な少年。
けれど、唯一しつこく声をかけてくる同級生がいた。
「よっ! 冥極! 帰りに駄菓子屋寄ってこうぜ!」
「……くだらん」
名前はシン。零司とは正反対の、いつも笑っている少年だった。
ある日、同級生から声をかけられた。
「なぁ、冥極。悪い、100円貸してくれないか?」
零司は即座に首を振った。
「嫌だ」
その子の顔に、寂しさが浮かぶ。
なぜだか胸が痛んだ。
零司は仕方なくポケットから硬貨を取り出し、手渡した。
「……すぐに返せ」
「ありがとう!」
笑顔で走り去る姿を見て、零司は立ち尽くした。
(なぜ僕は彼にお金を貸したのだろう?)
そして理解した瞬間、恐怖が広がる。
情を持ってはいけない。父の言葉が、耳に焼き付いて離れなかった。
ある夏祭りの夜。
零司は屋敷に閉じ込められ、窓の外を見ていた。
提灯の明かり、遠くの太鼓、笑い声。
そこへ忍び込んできた影があった。
「よっ、冥極! ほら、抜け出そうぜ!」
シンと他のクラスメイトだった。
「な?!君達がこんなとこ____」
無理やり手を掴まれ、引っ張られる。抵抗する間もなく、屋敷を飛び出した。
夜の祭りは眩しかった。
金魚すくいに興じる子供、りんご飴に群がる家族、笑い声と光の渦。
そして――
屋台の前でシンが立ち止まった。
「ほら、うちのおとーの焼きそば。食ってみろよ!」
「コイツん家の焼きそばサイキョーだから!」
鉄板で踊る麺、ソースの匂い。
差し出された割り箸を取り、恐る恐る口へ運ぶ。
「……美味い」
零司の口から、自然とその言葉がこぼれた。
各国の高級料理を食べてきた。だが、こんなに心に沁みる味は初めてだった。
胸の奥が、熱くなる。
笑い合う祭りの空気に包まれ、零司は初めて「人の温かさ」を知った。
しかし翌朝、父に見つかった。
「零司。昨夜、どこへ行っていた」
声は冷たく、背筋を凍らせる。
零司は答えられなかった。
その日から、父の監視は厳しくなった。
「お前は閻魔となる。余計なものは全て捨てろ」
そして僕は皆の前から姿を消した。
記憶は心の奥に押し込められ、やがて零司は裁きの座に座り最初の“仕事”が与えられた。
罪人が引きずられてくる。
痩せ細った体、震える唇。
「……どうか……助けて……娘が……娘だけは……」
その姿に、ほんの一瞬だけ迷いが走る。
だが、父の言葉が頭を締めつける。
『他人に情を持つな。ほころびはやがて心を腐らせ、裁きを曇らせる』
零司は深く息を吸い、冷徹に言い放った。
「汝____地獄へ」
罪人が泣き叫びながら暗闇へと消えていく。
零司は拳を握りしめ、小さく震えていた。
だが涙は流さなかった。
父の声が脳裏で響く。
『他人に情を持つな』
その言葉と共に、あの夏祭りの夜の記憶は心の底へ沈んでいった。
焼きそばの匂いも、笑い声も――もう二度と、思い出すことはない。
人々は呼んだ。
冥界を統べる冷徹な王。
閻魔・冥極零司と。




