第三話:鬼退治
鬼ヶ島に最初に到着したのは犬であった。浜辺に上がり、ブルブルと全身を震わせ水気を払い、後ろを振り向いて水平線を眺めたが、雉も猿も影すら見えなかった。
障害物も何もない空中を、ひた走るだけで良い雉が圧倒的に有利の競争かと思われたが、しかし犬の四つ足走りがぷっちぎりであった。起伏も水陸も我武者羅に突っ走り、ただそうしているだけで常に首位を保っていた。比類なき体力と無尽蔵の持久力がそれを可能にしていた。
なお、陸から海に突入するにあたっては、流石に幾分か速度が落ちてしまったのだが、――途中、犬は鬼ヶ島に流れる海流に引き寄せられ、その怒涛のごとく勢いを拝借しつつ泳いでいるうち、しまいには陸を走っていた時より速度が出ていた――当人の抜群の身体能力に加えて、地理的要因に邪魔されるという事態にも行き当らず、ヒリつくこと皆無の競争に始終していた。
「フフン」
と、犬は浜辺にて得意げに腕を組み、豊かに膨らんだ胸を殊更に威張る。
「どんなもんだい。単純な走力でボクに敵う人間なんかいないんだ――――さ、とっとと鬼畜外道どもを成敗して、ご主人様の元へ」と。
言い終わらぬうちに、彼女の前方、鬱蒼とした森の木々の間から何かが飛んでくる。矢をも凌駕する勢いであったが、犬は即座に手の平を顔面の前に構え、顔面を防ぎつつその投擲物を手中に収める。見れば何のこともない、ただの石ころであった。
犬は無言で石ころを握り潰し、前方を睨む。茂みを蹂躙しつつ現れたのは二体の鬼であった――肌の赤く、二本の角を頭に生やした、筋骨隆々で全裸の大男である。イボのような突起のびっしり付いた金棒を肩に担ぎ、二体して下卑た笑みを浮かべつつ、犬との距離を大股で詰めながら話し合っていた。
「犬かきで鬼ヶ島に向かってくる気狂い野郎を出迎えにきてやったら、まさか若え娘っ子とはなぁ」
「見たところ十五かそこらだぜ。腰もほっせえでやんの。片手で収まるんじゃねえの?」
「手でするみたいにシてやろうぜ。ま、俺が投げた石ころ軽々取ってみせたり、手の中で砕いたりしてたがよ、所詮は人間のガキだろ――じゃ、まずは一発」
鬼らはもう犬の目の前にまで迫っている。体躯の差は四倍ほどであろうか――ただでさえ巨大な鬼が、殊更に金棒を大上段に振り上げ、犬の脳天目掛けて振り下ろす。戦略も戦術もない、それは慢心に満ち満ちた暴力であった。
鬼からすれば別に、避けられようが受け止められようが一向に構わなかったのだ。そのような防御策をいくら講じてこようが構わず殴り続け、相手が完全に挫けるまでそうする気でいたからだ。
現に鬼は、金棒を躱されつつ懐に入り込まれ、屈みこんだ腹部にペタンと張り手されてもなお、「なかなかにすばしっこいな」と軽く苛立つ程度であった。「これは大人しくさせるにも骨が折れそうだな」と思い思い、相手の顔面に目掛けて膝蹴りを浴びせようと、やおら片足を上げていた時分である。
「【握食】」
と犬は呟きつつ、相手の腹筋に宛がっていた手の平を、グッと握り込んだ。
途端、そこを中心とした鬼の肉体が全体の六割ほど、バツンと握り潰される。
すなわち左半身が消失。残すは頭部、右腕、右足と、それらを辛うじて接続するだけの胴体のみとなり、鬼は手も突けず足も踏ん張れないまま、惨たらしくも砂浜に崩れ落ちた。
「ご主人様以外が気安くボクに触れるな」
足元に転がる鬼の残骸を見下しつつ、犬は手の平を開く。が、そこから何らの骨肉もこぼれ出ぬ。手の平に口でも付いていて、全て食らったかのようであった。
「ぞ、賊だ!」
片割れの鬼は狼狽しつつ、金棒の先を犬に向け牽制しつつ、森に向かって吼える。「生け捕りは考えるな! 殺してしまえ!」などと口では息巻きながらも、両足は産まれたての子鹿のように震えていた。
犬は騒ぎを起こさせ次第、目の前の鬼の上半身を握り潰す。ドスンと膝を突いた下半身の足首を掴み、逆さまにして持ち上げ、膝裏を嗅ぎ、ニオイを覚えた。
そうこうしているうち、騒ぎを聞きつけた鬼が一匹、二匹と犬の前に現れるが、誰も彼も一撃のうちに葬られる。両の手でもって握り潰し、両の足でもって握り潰し、両の歯でもって噛み潰し、犬は悪食の限りを尽くした。上陸から半刻もせぬうちに百近い鬼を討伐し、すっかり戦意を喪失して逃げ惑う鬼を浜辺まで追い詰め、その背中を食い破る段階にすら入っていた。
「これだから嫌だったんだよ」
その遥か上空、一足遅れて到着した雉は、死屍累々の浜辺を見下ろしつつ嘆息する。誰の仕業かは考えるまでもなく明らかだった。死体の山から鬼の腕を毟り取り、骨ごと噛み砕いて呑む血みどろの乙女、彼女に相違なかった。
「鬼ヶ島の攻略なんて、ワンちゃんの独壇場に決まってんだろって。……こんな勝負、公平さのカケラもないよ。いくら主様の立案とはいえ、こりゃ愚の骨頂さね」
それは全然、遥か真下の犬には聞かせる気もない声量のぼやきであったが、しかし犬はボリボリと咀嚼しつつ、上空の雉をやおら振り向いた。丸い瞳を殊更にかっ開き、獲物を狩らんとする畜生の目をしていた。
犬がこんな風である以上、雉は迂闊に上陸できない。取って食われかねないからだ。
「……しょうがない」雉は肩を竦める。「こちとらは金銀財宝でも探し当てるとするかね」
というのも、鬼といえばすなわち蛮族である。連中はきっと人間から金品を奪い集め、どこかに隠しているに相違ない――こう踏みつつ、雉はその方面で手柄を立てようと計画を変更したのだ。島の隅から隅に至るまで、彼女は駆け巡りつつ調べ尽くした。
そうこうしているうちに、ようやく猿の見参である。少年の船頭に漕がせつつ小舟に乗って沖より現れ出で、これより浜辺に船をつけようという段、最前の犬と同様、頗る激しい海流にグンと引き寄せられ、彼女の乗っていた小舟は勢いそのまま浜辺に打ち付けられた。
船頭と猿とは船から投げ出され、船頭は頭の方から砂浜に飛び込み、猿は空中で一回転してから両足揃えて着地した。
猿は死屍累々の有り様を目の当たりにし、雉同様、大して驚きもしない。血の海を構わず奥に進み、途中で船頭を振り向き、激痛と恐怖とで混乱を極めているところに容赦なく「来い」と命じる。特に理由はなかった。
猿は目に見えるものすべて、横切りがてら検分した。鬼の体躯は人間の男の五割り増しほど、いずれも男根が生えており骨格から何から男性的、得物は金棒であることを知識に入れた。
森に入り、猿は打ち捨てられた人間の女の死体を発見する。特に捨てる場所は決まっていないらしく、森の中の至る所に散らばっていた。いずれも凌辱の痕跡はあるものの、妊娠の形跡は見られなかった。
そこから更に奥に進んでいくと、木々の枝葉の切れ間から、ひときわ巨大な木が覗いていた。あまりに巨大であるため幹の部分までしか見えず、その上に生えているだろう幹やら葉やら、何もかも雲に隠れてしまっているほどであった。方角的に、島の中央に生えているものと思われた。
「………………」
猿は立ち止まり、じっと大木を見上げる。斜め後ろを歩く船頭も立ち止まりつつ、「アレがどうかなされましたか」とおずおず尋ねるが、てんで聞く耳を持たぬ。
その後方、不意にザワザワと草を踏む音が近付いてきた。少年はヒッと短く悲鳴しつつ後ろを向いて後ずさり、猿はゆるりと振り返る。
血みどろの犬である。敵味方、人と鬼の分別もつかぬ、飢えた畜生の目をしている。――彼女は疾風のごとく藪から飛び出し、開いた右の手を前に突き出す。標的は猿。今まさに頭部に掴みかからんとする間際、
「【キョダツ】」
と猿は呟いた。
途端、犬の全身から緊張という緊張すべて、たちまちのうちに解きほぐされる。不意に小石に躓いたような、フッと脱力する――ひらりと身を翻した猿の横を、犬は呆けた顔で通過し、受け身も取れぬまま墜落する。地面を二、三度ほど跳ねつつ転げ回り、木の幹に背中を打ち付けてようやく止まった。
「……いてて」
犬は上体を起こしつつ片膝立ちになり、手の甲で背中を擦りつつ、周囲をギョロギョロと睨む。自身を棒立ちで見下ろす、猿の面の女がそこに立っていることを認め、
「……ああ、猿姉か」
と合点する。痛みに眉をしかめつつ立ち上がり、「いま来たとこでしょ。遅かったね」と悪戯っぽい笑みを向けた。
「首尾は?」猿はぶっきらぼうに問う。
「フフン!」と犬は腕を組み、より一層ニンマリとして、声高らかに答える。
「もうぜーんぶボクが殺しちゃったもんね! もうこの島には生きた鬼なんて一匹たりともいないのさ! 雉姉と猿姉には悪いけど、正妻の座はボクのものに決まり」
「キャンキャン吠えてるところ悪いけどそうはいかないのさ。帰るまでが遠征って言うだろ?」
犬、猿、船頭は一様にして見上げる。雉である。木の葉が頭巾につかんばかり遥か上空にて、足を組みつつ滞空していた。
また、こちらも最前の犬と同様、得意げな顔をしていた。
「なんでそんな顔してるのさ。負けい……負け雉のクセに」
一転、犬は怪訝な表情になる。猿は隣で静観し、船頭は『空中に人が?』と大口を開けていた。
「ワンちゃんに先を越されちまったもんだから、アタシは空から島中を探索して回ってたのさ」雉は足を組み替えつつ回顧する。「どっかに金銀財宝でも眠ってればめっけものだってね。額によっちゃあ鬼退治よりお手柄ってもんだ」
「……そ、それってもしかして…………」犬は察しつつ、額に冷や汗を滲ませる。
「吠えなきゃ可愛いワンちゃんだよ」雉は空中で頬杖を突き、「置いてけぼりにしちまうのが忍びないね」と底意地の悪い笑みを浮かべる。
「海流か」
猿が呟き、雉は「そうさね」と頷く。犬は猿を振り向きつつ「どういう意味?」と問うが、答えは雉の口から得意げに語られた。
「アンタ、海を渡ってこの島に来るとき、めっぽう激しい海流に引き込まれたろう? 溺れないよう踏ん張るのがやっとの、遡行なんか絶対不可能の激流さ――残念なことにアレは、島の周りのどこか一ヶ所だけがそうなってるわけじゃないんだよ――全周なのさ。島に引き寄せる海流、つまり島に引き戻す海流が、この鬼ヶ島の周りをグルっと取り囲んでいるんだよ」
アーッハッハッハ…………と突き抜けるような高笑いが、森全体にこだまする。
「分かるだろ? アンタらはいくら島からの脱出を試みたところで、その度に怒涛の海流に押し返され、ちょっとも出られやしないのさ。アタシみたいに空でも歩けない限りはね――任務遂行ご苦労様だが、アンタらとはここでお別れだ。アタシが成果を報告し奉り、正妻の座を頂戴するんだよ」
「愚かな」
意外にも、雉の勝ち誇りに水を差したのは猿であった。
目を見開いた猿の面。表情の程は読めぬ。声色も普段と相も変わらぬ、平坦な調子であった。
「そりゃ負け惜しみかい?」雉は依然、余裕たっぷりに笑んだまま首を傾げる。「アンタらしくもない。この期に及んで往生際の悪いことだよ」
「主はこう約束された。鬼ヶ島攻略を果たした暁には、我々のうち一人を正妻に迎え、残りの二人は側室にすると――正妻だろうが側室だろうが、三人を迎えると仰られたのだ。鬼退治の後、三人で生還しなくてはその約束を果たせぬだろうが――物覚えが悪いのか頭が悪いのか分からんが、いずれにせよ鳥頭よ。貴様一人が帰還し果せたところで、主は貴様の鳥頭具合に絶望し、自ら首をくくられるであろうことは想像に難くない」
「……………………」
雉は膝頭を指でトントン叩きつつ聞いていたが、「ハッ」と嘲笑し余裕の崩れぬ。「やっぱり負け惜しみじゃないか」
「確かに主様はそう仰られていたよ。アタシら三人をひとまとめに迎え入れるつもりでおられた。だけど主様とて、行って帰ってくるだけのことすらままならない無能の臣下だと最初から分かっていれば、臣下にすらしなかったんだ。いいところ奴隷止まりだろうね――アンタらは自分の無能さを誤魔化し誤魔化し主様に仕え、それが辛うじて通用していただけ。その無能さが露呈した日には主様も、『私にはお前しかいない』って、アタシ一人を正妻に迎え入れてくださるだろうよ………………」と。
ここまで調子よく話していた雉であったが、――ふいに、とある信じがたい錯覚を目の当たりにし、柳のごとくしなやかな双眸をパチクリと瞬きする。
犬が居ないのだ。
さっきまでそこで、大人しくしていたはずの犬が――さては、
「虚奪かッ!」
と見上げる頃には既に手遅れである。どこをどう辿って来たか、雉の頭上から犬が降下してきている。頭を下にし、右の手を固く握り締めて振りかぶっている。
次の瞬間には犬の正拳突きが、雉の脇腹を直撃し、雉は衝撃そのまま地面に叩き落される。
奇妙なことに、雉は相当な高所から突き落とされたにも拘らず、道端で転んだ程度の痛みしか感じず、骨肉も内臓も無事そのものであった。――が、先刻の犬と同様、体に力が入らず地面から起き上がることが出来ぬ。ジタバタと無様にもがくことしか出来ない体にさせられていた。
そのすぐ隣、犬がズドンと地面を抉りつつ着地する。
「作戦会議といこうか」
猿が音頭を取った。
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