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皇后・富察氏①

それは、青く透き通るような天気をした日の出来事であった。

 正式に郎世寧の女官となった島野蒼こと若汐はこの時代の女官として馴染むべく、血反吐の吐くような努力をした。

 これほどの努力をしたのは学生の時の勉強くらいではないだろうか、と当の本人は思うほどであった。

何故、血反吐を吐くような努力が必要だったのか。

 それは郎世寧付きの女官となっただけで、宮中の掟からは逃れられないからである。

様々な掟があったが、中でも辛かったのが『歩く時は揺れてはいけない』であった。

姿勢の正しさも掟にあるのだが、元々ピアニストである若汐は問題なかった。

だが、宮女の履く靴で揺れずに歩くという行動はとても難しいことであった。

 タイムスリップした少女の身体は幾分か普通の人間より手足が小さい。

よって靴の大きさ合ったものがなかったようである。

少々、靴のサイズが大きいと若汐は常に感じていた。

 だからこそ移動する時は常に意識しなければならなかった。

 掟を破れば罰が待っている。

それだけは避けたいと血反吐を吐く思いで若汐は歩く努力をした。

足には小さなたんこぶができるほどであった。


(これでまた演奏頼まれたらペダル踏めるかな…)


 郎世寧にお茶を運ぶべく揺れずに歩く若汐はそんな心配をした。

もちろん茶器の音を鳴らしながら歩くなど言語道断。

 揺れて歩いている証拠だからである。

若汐は慎重かつ素早い動きで目的地に向かった。

目的地は円明園の一角にある建物内だった。

 郎世寧はそこで絵画を描く作業に没頭している。

 そろそろ休憩を入れる時間だった。

郎世寧という画家は1度集中してしまうと他のことが見えなくなる性格の人間であった。

芸術家はそのような人間が多いと聞く。

 音楽家である若汐も自分も似たような部分があるな、と郎世寧の性格を責める気にはなれなかった。


「郎世寧様。休憩のお時間です。」

「……。」

「郎世寧様。」

「あ、若汐。すみません、気づきませんデシタ。」


大きな声を出してはいけない。

これも掟の1つである。

若汐は小さめな声かつ凛とした声で郎世寧の背中に声をかけていた。

少し腹式呼吸を使っているのに気づく人間は誰も居ないだろう。


「お気になさらず。休憩なさってください。お茶をお持ち致しました。」

「ありがとうございます。」


 描いていた絵画を背中にして郎世寧はお盆から直接茶器を受け取る。

イタリア人といっても祖国を離れてもう何年にもなる。

 大清国の文化にはすっかり慣れていた。

お茶を蓋を開ける時に香りを楽しむために蓋を何度か仰いでから少しずつ飲む。

その姿を若汐は随分と慣れた仕草だなと見つめていた。


「すっかりもう仕事に慣れまシタネ。」

「そんなことはありません。日々、一生懸命ですよ。」

「一生懸命。良い言葉デス。」

「そうですね。」


 その『一生懸命』がどれほど大変なのか、と愚痴を吐きたくなるのを若汐はグッと堪える。

 今の自分の立場や時代の違いを考えれば自分の愚痴など理解されるわけがない。

身分は奴婢である。

そして中身は数百年先の未来の人間。

 郎世寧はそのことを知ってはいるが、この時代に順応する大変さまでは理解できまい。

 だが若汐はその大変さを顔には決して出さない。

リサイタルの時のように笑顔を作ったままである。

 これも多くある掟の1つ。

宮女は笑顔を崩してはならない、である。

 これを若汐は常にリサイタルを開いている気分であれば平気だと自己解決していた。


「若汐は凄いデス。1度も罰を受けていまセンネ?」

「それは郎世寧様付きの女官だからです。恐らく掟が他の宮女より緩いのです。」

「そんなことはありません。紫禁城の中は私の女官であっても扱いは同じデスから。」

「左様でございますか。では、罰を受けていないのは掟を守るようずっと気を使っているからだと思います。」

「……やはりここは窮屈な場所デスね。」

「他の方に聞かれたら大変なことになりますよ。」

「今は誰も居ませんから。平気デス。」


郎世寧はそう言うと悪戯っ子のような表情をしながら碧眼を細めた。

白人独特の透き通るような蒼い瞳。

 まるで深海を思い出させるような綺麗な瞳だと若汐は自身が写し出されながらそう思った。

清は大清国と言われるくらいな為に大陸が大きく続いている。

 長江や黄河といった巨大な河はあるが恐らくはこの時代で直接、その目で海を見た人間はほとんどいないだろう。

若汐の思考は至極珍しく、現代的な考え方だと言えた。

 郎世寧はお茶を飲み終えると、傍にあった机にコツンと音を立てて茶器を置いた。

 日本では食器の音を鳴らすことはあまりよくないとされているが、若汐が見ていた中国の時代劇ドラマでは音を立てていることが多いと思い出す。

 掟の中でも食器の音を鳴らしてはならないはなかったな、と自身の記憶を確認していた。


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