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別れ③

1766年、8月19日。皇后が亡くなった。分かりきっていた死だった。

 若汐はそれでも涙が溢れて止まることはなかった。

 葬儀は皇貴妃と同様に行うように皇帝が命じた。葬儀を取り仕切ったのは皇貴妃である若汐だった。

 歴史通り、諡を追贈されることもなく前皇后のような壮大な葬儀が執り行われることはなかった。史書に編纂されることもなかった。

 それが何よりも若汐は悲しかった。


「もしかして、気づかれておられましたか。」


葬儀が終わった後、一人寝殿で若汐は呟く。


「私のことを、気づかれておられましたか。」


そんな素振りを見せたことはなかったが、あの頭の良い皇后のことだ。気がついていてもおかしくないと若汐は今さながら思ったのだ。

 皇帝に最期に捨てられるようにされた悲劇の皇后。

 若汐が何かしていれば歴史は変わっていたのかもしれない。だが、それをしても良いのは今を生きている人のみだ。

 若汐の中の島野蒼は今を生きているわけではない。未来を生きている。だから、その資格はない。

分かりきっていた死だとしても、辛いことに変わりはなかった。


──もうあの優しい笑顔を見ることはできない。


静かに涙を流しては布で拭いていた。






(体調が…悪いな。)


皇后の死から数年が経った。新たに皇后が決まることはなかった。

 皇貴妃である若汐が居るので後宮には問題はないが、長期間居ないというものどうなのだろうかと若汐は密かに思っていた。

 そんな中、若汐は体調不良を訴えるようになった。現代ではまだ若い歳であるがこの時代においてはもう若汐も若くはなかった。

 ある日、乳にしこりのようなものが出来ているのが風呂上りに分かった。


──乳がんか。


このところ、体調が悪い日が続いていた。

悪性が良性か、検査しなければ分からない。

 どちらにせよこの時代に癌を患ってしまったということは今度は自身の命のカウントダウンが迫っているということである。

 若汐はまず子供たちに向けて遺書をしたためることにした。

至らない母親ですまないということ、そして成長を見届けられなくて申し訳ないということを4人の子供たちに向けて書いた。

 春海に、自分が死んだ後に渡すようにと命じておいた。春海は侍医に見せれば何とかなると言っていたが、この時代において癌は間違いなく死病だ。

 手術することも出来ない、抗がん剤治療などもっと無理な話だ。

この時代にそんな特効薬はない。若汐はあくまでも現実をきちんと受け止めていた。

 死から目を背けることはしなかった。恐ろしくはある。だが、避けられないものもあるということをこの時代において大いに学んだ。だからこそ若汐は落ち着いていられた。

 それでも対処療法だけは続けて、どうにか体調をごまかした。だが、癌は悪性だったようで若汐をどんどん蝕んでいく。

 もう、長くは生きられないと若汐は悟った。



そして1775年。太陽の最盛期が迎える夏の始まり。若汐は円明園に来ていた。

 まだ真夏という月でもないのに、その日は酷く暑かった。

乾隆帝は若汐の体調を心配して着いてきていた。

 今日が自分の最期になるだろうことを予測して彼女は何よりも愛したピアノに触れておきたかった。

 現代に戻れるかも分からないのだ。

最期くらい、ピアノに触っておきたかった。

 体力も奪われ、まともに歩くことも困難だったが、春海と翠蘭が支えてくれたおかげでピアノに座ることができた。

 何を弾こうか迷ったがこの体力で弾ける曲は限られているな、と苦笑しながらあの曲にしようと決めた。

 最初に出会った皇后に向けて弾いた、亡き王女のためのパヴァーヌ。それをゆっくりと円明園で若汐は弾き始めた。

 天上にまで届くような美しい音色は病魔に蝕まれていようが変わらなかった。乾隆帝はその様子をじっと静かに眺めていた。

 彼女が弾けば、どんな曲も荘厳な物語みたいだった。


(うまく、指が、動かない。)


 最期だというのに、いや最期だからこそだろうか。

病魔はピアノを弾くことすら邪魔をしてくる。

 だが、ピアニストとしての根性がそれを打ち破った。若汐は今この瞬間もピアニストであることをやめようとはしなかった。

 その職業を、情熱を失っても愛していたからだった。ピアノが好きだった。幼い頃からずっとそれだけだった。他人から嫉妬されようが何をされようがピアノが好きだったのだ。何よりも好きだった。

 一番は何よりもピアノだけだった。ピアノを情熱を失っても愛していた。

最後はピアノに向けて弾く。

 こんなにも愛することが出来る楽器と巡り会えたことの感謝を込めて若汐は弾き続けた。

名残惜しいが、最後の一音を弾き終える。

いつもの挨拶はしなかった。

 乾隆帝に向けて弾いたわけではなかったからだ。

ただ、ピアノに座ったまま一礼をした。

後悔なんて山ほどある。

 出来ることならもっと生きていたかった。生きて、生きて、子の成長を見届けて、ピアノももっと弾いて、そして死にたかった。

 ピアノに対する情熱など、とっくに取り戻していた。

だが、それは叶わない。

 暑い日だというのに酷く寒気がして震えが止まらなくなった。

 そろそろお別れの時間が来たようだ、とピアノの蓋を閉める。

 ピアノの鍵盤の上で死にたくはなかったのだ。鍵盤が下手をすれば壊れてしまうかもしれない。それは愛するものへの冒涜だった。蓋の上に頭を置く。とても冷たく感じた。


あぁ、寒い。

寒い…なぁ。

死にたくない、なぁ。

でも、お別れしなくちゃなぁ。

大切な人と何度もお別れしたように。

この楽器ともお別れしなくちゃ、なぁ。

嫌だ、なぁ。

もっと、もっと…弾きたいなぁ。

誰に、聴いて、もらわなくても、いい、から。

ピアノの、為に、弾き、たい、なぁ。

寒い…。

さむ…い。

さむ…

さ…

………。


若汐の身体から力が抜けた。地面に倒れこんだ。


「若汐様…!若汐様…!!」


春海と翠蘭は自らの主人に駆け寄る。

既に息を引き取っていた。

2人は涙を流す。


──生い茂っているはずの木からはらりと何枚もの緑の葉が若汐の死を悲しむかのように舞い落ちた。


その場に居た乾隆帝はずっと若汐の亡骸を抱きしめていた。

人目も憚らず、涙を流している。

時の皇帝が涙を流すことなど、父親が死んだ時でさえなかった。

父親が死んだ時は、自身が皇帝の座に着くと決まるからである。

彼は、若汐という妃のことを彼女の最期まで愛していたのだ。


──そして円明園に現れた女官は、最期の最期までピアノを愛しぬいた。


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