別れ②
1766年、7月17日。雲一つない空。
若汐は郎世寧の居る円明園に訪れることを皇帝から特別に許された。それはもう郎世寧が長くないということを知らされたからである。病に侵されてもなお、円明園で絵を描いている郎世寧の元へ若汐は向かった。
久しぶりに会った郎世寧の髪はもうすっかり白髪になっていた。
「お久しぶりです。郎世寧殿。」
「…あぁ。若汐。…最期、に、貴女に、会える、とは…。」
「最期だなんてやめてください。何の絵を描いていたのですか。」
「ひ、みつ、デス。」
「そうですか。残念です。…郎世寧殿。私は貴方に仕えられたことが、幸せでした。妃になった今でもそう思っています。貴方がいなければ、今の私は居なかった。本当にありがとうございます。」
「…それは、私、も、デス。2度と聞けない、と思っていた、イタリア語が、あの日に聞けた。貴女に会えて、本当に良かった。貴女に、私は救われました。」
「…今でも帰りたいと思っていますか。」
「イイエ。もう、あの日、私は、帰ることが、でき、まし、た。…最期に、もう一度、聴かせてもらえ、ませ、んか。」
「もちろんです。その為に来ました。」
もう一度、出会った時に歌った曲を若汐は歌った。
郎世寧は涙を流しながらその歌を聴いていた。
──あぁ。この身体はここに埋まろうとも魂は故郷に還ることがこれで出来る。
眠るように、郎世寧は息を引き取った。
その姿を若汐は呆然と眺めた。あまりにも優しい顔をしたまま、亡くなっていた。
思い起こされるのはタイムスリップをしたあの日。
困っている人を放って置けないと優しい眼差しで言ってくれたことであった。
彼がいなければ、若汐が言ったように今の彼女は居ない。
最悪、侵入者として死刑になっていただろう。
郎世寧という男とは愛とは違う固い絆で結ばれていた。
例え会うことが出来ずとも、その絆が薄まるということはなかった。
だからこそ彼は、最期の最期まで彼女の秘密を守り切ったのだ。
彼女はそのことが嬉しくて、そして同時に悲しくて、大粒の涙を流した。
前皇后が亡くなった時よりも、若汐は泣いていた。大声で子供のように泣いていた。
春海が何事かと離れていたが駆け寄る。何があったのかは郎世寧の亡骸を見れば分かることであった。
床に座りこんで泣いている若汐のことを春海は抱きしめた。
あの碧眼をもう見ることは叶わない。あの美しい蒼い目に自分が写ることはない。
それが死というものだと分かっていても、彼女の涙が止まることはなかった。
それほど、郎世寧という存在に若汐は救われていたのだ。
だって島野蒼という存在を知る、唯一の人間だったのだから。
彼は最期まで、若汐に優しくあり続けた。
──宮廷画家、郎世寧には侍郎の官位が贈られた。




