継皇后④
それから数日後。
「陛下、そこはこう弾きます。こうではありません。指を痛めてしまします。」
「これで…合っているか?」
「はい。そのまま進めていきましょう。」
皇帝の隣で若汐はピアノの指導をしていた。
皇子や公主よりも限られている皇帝の時間の間の中でどれほど教えられるか。
指導者として若汐は試されていた。
だが、意外にも皇帝は飲み込みが早く、すぐに次の段階へ向かうことが出来た。そういえば、と若汐は思い出す。皇子や公主に音楽を時間がある時は教えているが、皆一同にして飲み込みが早かったことを。
これはこの父親の遺伝なのかもしれない。昔、若汐がどこかで見た雑学の知識では97%ぐらいの確率で音楽の才能は引き継がれるそうだ。一夫多妻制恐るべし。
そんな今のピアノには関係ないことを考えつつ、自身の夫にピアノを教えていた。 今回、楽譜はあえて見せていない。見たとしても音符を読むのは容易ではないからである。
限られた時間の中ではピアノだけで一杯だ。それだけではない。他にもきちんとした理由があった。
「陛下、お時間です。」
「もうか。あっという間だな。…また今度、教えてくれ。」
「御意。」
「そなたはいつまで経っても、女官の頃のように仰々しいな。」
「妃である前に、臣下でございます。」
「身の程を弁えている、か。皇后が言っていたことは本当のようだな。」
「ありがたきお言葉でございます。」
李玉に声をかけられると名残惜しそうに皇帝はピアノの席を立つ。二度と座らなくていい、だなんて若汐は思うが指導者としてのプライドがそれを許さない。
あの曲を完成させるまでは皇帝だろうがなんだろうがきっちり弾けるようになってもらおう。そう考えてしまうのだった。
また数日後、ピアノを同じように教える。たどたどしい感じは段々となくなってきていた。再び時間が来て同じように退散する。この日々が続いた。
その日々の中で皇后に呼び出された。何の用だろう、と皇帝のせいであまり皇后の元へ行く時間を作ることが出来なくなっていたので疑問に思った。
もしかして何か不興を買っただろうか、と考えてみるがそれはないと即答。
いつも挨拶に行く時は気を張っているからである。粗相はしていないはずだ。疑問に思いながらも若汐は皇后の元へ向かった。
「皇后娘娘ご機嫌麗しゅう。」
「楽に、座って。」
若汐は言われて隣に座る。茶を出された。
皇后の表情を見る限り、何か自分がしたわけではないみたいだ。むしろ嬉しそうにしていた。
何か嬉しいことでもあったのだろうか、もしかして懐妊したのだろうか、そんな考えを巡らせていると声をかけられた。
「こうしてゆっくり話すのは久しぶりね。陛下のピアノの指導に大変でしょう。」
「皇子や公主を教えておりましたからさほど大変ではございません。それに陛下は筋がとても良いです。これならあと二月くらいすれば曲をきちんと弾けるようになるでしょう。」
「そうなの。ごめんなさいね、私が言ってしまったばかりに。貴女の音楽の才能を子供たちだけに教えるというのだけでは勿体ないような気がして。だからと言って妃嬪が進んで貴女に教わりたいと思うわけでもないでしょうしね。」
「そのようなものですか?」
「女の矜持を捨ててまで貴女に教えを請いたいと思う妃嬪はいないでしょうね。愉妃は息子の世話があるから違うのだけど。」
「愉妃娘娘からそのことは伺っております。子のことを最優先にすべきは当たり前のことですから。」
「もし、曲が完成したら私たちに聴かせてくれるかしら。」
「皇后娘娘が言わずとも陛下からきっとおっしゃられますよ。」
久しぶりに皇后との会話を若汐は楽しんだ。今だけは悲劇の皇后ということだけは忘れよう、そう考えて。
それから二月後。肌寒い秋は過ぎていき、冬が近くなっていた。吐息が白く寒い日が続いている。
世界全てがしんとした静寂さを与えつつあった。
翌日は立冬の宴が控えていた。夫である乾隆帝に若汐はこう言われていた。宴でピアノを披露したいと。
確かに若汐の夫は上達した。
向上心というものが人一倍あるのだろう。
基礎を教えたらみるみるうちに弾けるようになっていっていた。
だが、宴で披露するということは他の妃嬪達にも自分が教えましたと言うようなもの。
しかも教えたのは連弾だ。2人で仲良く弾かなくてはならない。仲良く、が問題なのである。
一部の妃嬪は良くない顔をするに違いない。皆に好かれようだなんて若汐は微塵も思ってはいない。
ただ、穏便な関係を築きたいと思っているだけである。確実に嫌われる妃嬪は居るなぁ、と盛大に溜息を漏らしてからよし。と覚悟を決めた。
(陛下が言ったことだし知らない。嫉妬するくらいならピアノ弾いてみろ!)
若汐は開き直った。こういうどうしようもない時は開き直るのが一番だ。
翌日。皇后が取り仕切る宴の中で皇帝が言ってきた。
「実は朕も子供たちを見て音楽を学びたくなって、ようやく完成した。令嬪。」
「はい。陛下。」
視線が痛く一部の妃嬪から感じたが無視をして中央に立つ。
自分の意志でやってないことはたった今、皇帝から言ったであろうに。
何故すぐ嫉妬してしまうのか、若汐には理解できなかった。
ピアノが中央に運ばれる。若汐はここまで運ぶのさぞ大変だっただろうな、と心の中で労っておいた。
そして二つ椅子が置かれる。
少し若汐用の椅子は低めだったが、仕方のないことだと割り切った。今回の曲はペダルが必須の曲ではないので靴は履き替えない。
このまま演奏をする。陛下、と椅子に座った自身の夫に小さく呼びかける。
「演奏するときは?」
「歌うように息をするのであったな。」
「左様でございます。」
二人は準備が整うと、一斉に弾き始めた。
日本名で言うとあまりにも有名な曲、「ねこふんじゃった」である。
この曲は一人の曲ではない。連弾用に作られた曲であり、作曲者も何もかも分かっていない曲の一つだ。
若汐はまだまだ初心者の皇帝に対し、ズレないようにしっかりと合わせて弾いている。
宴は皇帝がメインだ。自分は脇役に徹するのみと考えていた。
今日だけは楽譜を広げて弾いていた。皇帝はその楽譜を読むことは出来ないが、自分の弾く部分をしっかりと正しい音とリズムで弾いていた。それだけではない。手を交差させて弾いているのである。若汐に音楽を教わっている皇子や公主たちはその奏法を教わっていない。
演奏はもちろんのこと、興味津々とその手の動きを見ていた。
若汐はうまい具合に片手で楽譜をめくり、自身の演奏も手を抜かずに弾いていく。およそ3分半ほど。曲は終了した。
若汐は立ち上がりお辞儀をする。盛大な拍手が贈られた。
「父上すごいです。」
「感動しました!」
「手を交差させる演奏方法があるなんて初めて見ました!」
皇子や公主が特に喜んでいた。教え子が喜んでいる姿を見るのは時代が違えども嬉しいものだと若汐は感じていた。
そして皇子や公主に楽譜を見せに行く。皇子や公主はある程度なら楽譜が読めるようになっているからだ。
「この曲を陛下はお弾きになったのですよ。」
「こんなに難しい曲を!?」
「フラットがいっぱいだ!」
「こんなの私には読めない…父上はすごいです!」
そう。
この反応こそが若汐が楽譜を見せなかったもう一つの理由だったのだ。
自分の子供たちが父親を称える。この行為はどの時代であっても嬉しいものだろう。それに皇帝としての威厳も保つことが可能だ。故に、楽譜の読み方をあえて教えていなかったのである。
「そんなに難しい曲を朕は弾いていたのか?そなたのような。」
「はい。皇子や公主がそうおっしゃっているではありませんか。」
私はもっと難しい曲貴方に披露しましたけど。という言葉はどうにか飲み込んだ。
こうして皇帝を喜ばせることと指導は大成功。
皇帝に忠を尽くしたという理由で令妃に昇格した。
上位に仲間入りである。こんな褒美は望んでいなかったんだけどな…と一部の妃嬪の視線を受けながらそう若汐は思った。
平穏に暮らしていくのは大変そうだと内心ため息をついた。




