音楽に愛された妃①
皇后は妃嬪達の挨拶の折、大層喜んでいた。
自身の子供たちが学問や作法だけでなく、西洋の音楽にも精通し始めてきたということを妃嬪達から聞いたからである。
それは言うまでもなく、若汐が皇子や公主たちにそれぞれに合った楽器を教えていたからであった。
誰しもがピアノを得意になれるわけではない。
それぞれ長所と短所というものが人間にもあるように楽器にも存在する。
例えば今出てきたピアノ。
楽器を移動させるのが大変だという点。
木で作られている為に部屋の湿度などで音色が変わってしまう繊細な点。
そして音。
指定された場所に指定された音を鳴らさなければ正しく響くことはない。
当たり前に思われるかもしれないが、全ての楽器がそうではないのだ。
それらのことを考慮し、若汐は円明園などに保管されていた楽器を皇子と公主に何度か試して得意そうなものを教えるようにしていた。
この頃、乾隆帝からのピアノの演奏披露の命令はほとんどなくなった為に時間を十分に作ることができた。
皇后の話によれば政務にかかりきりになっているとのことだった。
若汐は一生それでいい、ともう自分に構わないで欲しいと強く願った。
何が悲しくて架空の人物がこんなにも皇帝に演奏披露しなくてはならないと若汐は日々思っていた。
演奏すること自体は楽しい。
練習することだって楽しい。
それはピアニストなのだから当たり前のこと。
だがあくまでも自分は架空の人物なのだ。
この時代の人間ではない。
きっと光に包まれて来たように消えていなくなるような空気に似た人間。
そこに居るけど、居ない。
そんな矛盾を含んでいる人間が若汐という人物なのだ。
「令貴人、本当にありがとう。陛下も知ればさぞお喜びになることだわ。」
「皇后娘娘。過分なお言葉でございます。私は臣下として勤めをはたしているだけでございます。」
淡々と事実を述べる若汐。
音楽教室で教える能力は培っていたため、彼女は特に苦労することはなかった。
もちろん、それは終生秘密にすべき事実である。
若汐が言うことは決してない。
品位のある笑顔でそう答えた若汐を明らかに不機嫌な顔で見ている者が居た。
高貴妃である。
やはり奴婢であった彼女が皇后に気に入られ、妃嬪に気に入られ、そして何よりも皇帝にも気に入られているという事実が許せずにいた。
夜伽が減ろうとも、ピアノの演奏を披露させていた。
それは気に入られている証拠であった。
例によって当の本人は気が付いていないが、高貴妃はその事実を聞いただけで皇帝が若汐をどう思っているのかをすぐに気が付くことができていた。
気に入らない。
何故この女だけが。
ピアノを取り上げたら何もない、ただの小娘だというのに。
怒りは積み木のように積みあがっていく。
そのピアノを取り上げてしまおうと実行したが、徒労に終わった。
あそこまで若汐がピアノの構造を把握しているとは高貴妃も思わなかったのだ。
乾隆帝が来る直前だったというのに。
あの小娘は慌てることなく蓋を元の場所に嵌めた。
その様子を従者から聞いて茶を零したことは記憶に新しい。
どうすればこの小娘に恥をかかせることができる。
この小娘が得意だというピアノで。
そればかりを考える日々。
その日々の中で若汐はどんどん音楽を皇子や公主に広めていく。
どんどん味方が若汐の知らぬところで増えていく。
高貴妃の怒りが憎しみにと変化していくまで時間はかからなかった。
「本当に令貴人は音楽しか取り柄がないわよね。」
「左様でございます。つまらない女です。」
馬鹿にしたような表情で嫌味をたっぷりと込めた言葉を高貴妃は言う。
だが、若汐はその言葉を否定しない。
むしろ肯定してきた。
高貴妃がイラつくと感じる笑顔を見せながら。
傷ついた様子も見せずに彼女は応じる。
その笑顔が更に高貴妃をヒートアップさせた。
再び口を開こうとしたその時である。
「高貴妃、少し言い過ぎよ。」
「…申し訳ございません、皇后娘娘。」
初めてだったかもしれない出来事だった。
高貴妃は焦る気持ちを抑えた。
皇后に発言を注意されるということは今までなかったものだった。
今まで皇后や妃嬪たちと円滑に関係を築いてきたのが高貴妃という人物であった。
しかし、若汐への憎しみで我を忘れてしまっていた。
場の空気が悪くなっているということに気が付いていなかったのである。
若汐をどう辱めるか、そう考えている日々でその憎らしい本人は皇子と公主に音楽を教えていたのである。
つまり、母親である妃嬪達も味方につけているということであった。
場の空気が悪くなるのも無理のない話だ。
特に、母親であれば子の成長を促している者の嫌味を聞かされるのは嫌な話であろう。
子を持たない高貴妃はその気持ちを知らなかったのである。
あまりに皮肉すぎる話であった。
自分がその気持ちを知らないばかりに皇后や妃嬪達との円滑な関係が一瞬で崩れ去った。
──終わった。
高貴妃はその言葉をどうにか飲み込むしか手立てがなかった。
その様子をじっくりと見ていた人物がいるとは知らずに。
「陛下の万寿節に子供たちの楽器を披露することってできるかしら?」
皇后にお茶を誘われた若汐は唐突にそう言われた。
万寿節とは皇帝の誕生日のことを言う。
皇太后や皇子、公主も集まり皇帝の誕生日を祝う。
近々、皇后がその宴を取り仕切ることになっていた。
ドラマでも見たことがある若汐はその意味を知っていたが、皇后の発言に思わず茶を吹き出しそうになってしまった。
(なんでいつもみんなして突然かなぁ!危なかったじゃない。)
皇后の前で茶を吹き出すなど掟でご法度である。
どうにか普段通りに茶を飲み込んでから笑顔のまま若汐は答えた。
「初心者向けの曲でしたらできるかと存じます。」
「まぁ、それは本当?なら宴の項目に加えることにするわ。」
花が咲き誇るような嬉しそうな笑顔で皇后はそう言った。
そのような笑顔を見てしまっては期待に応えざるを得ない。
教養を教えてもらった恩もある。出来ないとは言えない。
若汐は皇后の美しい顔を見てそう思う。
どのような曲を皇子や公主たちに練習してもらうか、彼女は思考を切り替えた。
初心者でも演奏でき、かつ様々な楽器を含めても披露できる曲。
すぐに思い当たった。
そしてこの曲ならきっとできる、という旨の話を皇后にした。
皇后は同じように喜んでいた。若汐は気合を入れて教えようと決める。
──その会話を一人の女官がひっそりと聞いているとも知らずに。




