紫禁城の音楽教室③
数日後。
季節はもう秋。
日本なら紅葉の季節で色とりどりに染まっている事だろう。
紫禁城の中にも紅葉がいくつかあった。
もみじが主に多かったように若汐には見えた。
本来なら落ち葉などが地面に落ちており、それが水面を漂い、水に浮遊し、磁石のように引き寄せられていることだろう。
しかしそれは現代の日本の話であり、ここは18世紀の中国だ。
そしてここはその時代の皇帝が収める城の中。落ち葉など、女官や宦官達により整備されている為ありはせずそのことに若汐は少しがっかりした。
その落ち葉を眺めるのも一興だと彼女の中では思っていることだからだ。
それが緋色に染まりつつあり、季節が秋である事を嫌でも知らされていた。
嫌でも、と言うのは若汐がタイムスリップしてから随分な時間が経っている事をそれは指していたからであった。
若汐は妃嬪になった後、乾隆帝に雨風にピアノを晒さないようにして欲しいと頼んでいた。あの閉じ込められた事件の後は特に早く作るように再度要求をした。
幾分か時間とお金が掛かってしまったが、必要経費だと節約主義の彼女は心を鬼にした。
その為、円明園の東屋に似たような形の倉庫にピアノは移動されておりそこで第5皇子、永琪に嫻妃にお願いされた通り、若汐はピアノを教えることにした。
「さて、第5皇子はどれくらい音楽の事はご存知ですか?」
「若汐。そんな畏まらなくて良いのよ。」
「いいえ。私は元は女官です、立場はわきまえておかなければ。」
愉嬪の言葉を即座に否定し、自身の考えを露わにする若汐。
相変わらず高貴妃の従者は密かに監視をしている。
その従者にもあえて聞かせる為に女官という言葉を含めた。
いい加減止めて欲しい、貴女と敵対するつもりもございません、という思いを込めて。
愉嬪も嫻妃も監視に気がついていたが、若汐は視線で制した。
その為、彼女らは言及せず気がついていないフリを続けている。
永琪はというと初めて見るピアノに緊張しているようだった。
自身の身体よりも遥かに大きい楽器。
皇子といえど、まだ幼い。無理もなかった。
証拠に顔が強張っているのだ。
ピアノの椅子に座っているが、その椅子も彼からしてみれば珍しい椅子だろう。
床に足が付かないだろう事を予測していた若汐はあらかじめ、足台を置いていた。
その足台にも恐る恐る足を置いている。
現代でも幼い子供がピアノの発表会などで自身の演奏を披露する時は、専用の足台を置いて弾く場合が多い。
ピアノ教室でピアノを教えていた若汐はその準備も行なっていた為によく分かっていた。
「皇子、まず深呼吸しましょう。」
「え?」
「初めて何かをする時というものは人間、大抵は緊張するものです。まずは身体の緊張をほぐしましょう。」
「深呼吸ですよね?」
「はい。あと、私に敬語は不要ですよ。少なくとも今は。」
膝を折り、わざわざ永琪と視線を合わせて若汐は笑顔で言う。
子供と話す時は大人から視線を合わせる。
現代では当たり前のことだが、この当時でそこまでする人物は少ないだろう。
若汐の気遣いに愉嬪と嫻妃は驚いた。
「深呼吸…」
「吸って、吐いて。もう一度やりましょう。はい、吸って、吐いて。…どうですか?」
「少し、落ち着いてきた。」
時間をかけて若汐はゆっくりと深呼吸をさせる。
ピアノの天敵は身体の強張りだ。
腕だけを動かす楽器ではない、指だけで動かす楽器でもない。
全身で演奏する楽器だからである。
だからこそ心のコントロールというものが大切になってくるのだ。
「いい表情です。ではまず、基本の姿勢からお教えします。」
ピアノの基本姿勢とはまず背筋は伸ばす。
そして肩の力を抜く。
イメージとしては全身の力を抜くような感覚だ。
そして鍵盤に手を置く。
この時、よく言われるのが卵が置いてあるかのようにと教えられる事が多い。
指に余計な力を入れさせないための例えである。
これらの事を分かりやすく永琪に若汐は教えていた。
その光景を見ながら嫻妃と愉嬪の2人は確信していた。
──この娘は何か大きな事を隠していると。
年齢にしてはあまりにも音楽の事を熟知し過ぎているのである。
いくら基本を郎世寧に教わった才能ある人物だったとしても、ここまで上手に分かりやすく人に教えるという事は困難だ。
しかも見た限り、教えると言う行為を慣れている。
それがあまりにもおかしな光景であった。
人に教えるという行為は経験豊富でなければ出来ない事なのだから。
だからこそ違和感をおぼえた。
だが、高貴妃のような邪悪な事を隠しているわけではないのだろう。
若汐が隠しているという事は、どうしても言う事が出来ないということなのだ。
ここ数ヶ月で若汐の人物像を2人の妃嬪は把握していた。
品格のある笑顔を見せる、礼儀を弁えた娘であると言う事を。
2人は密かに視線を合わせる。
──この事は一生、胸に秘めておこうと。
2人が気がついたという事は皇后が気がついていないわけがない。
ある1つの大きな決断を若汐より位の高い妃嬪が決意した時の話。
やはり当の本人は気がついていない。
高貴妃の従者には気がついていたというのに。
2人の妃嬪はそのことを思い出し、苦笑いをそっとした。




