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紫禁城の音楽教室②

──その話から数日後。

 若汐は円明園の倉庫で楽譜を探していた。

 本来なら自らの宮女に命じるべき事だろうが、楽譜を見たことがない2人に任せる事は出来なかったのだ。

 嫻妃からの話を聞いた後、少し時間が欲しいとお願いをした。

 それからまずは郎世寧の元を訪れた。

 皇子にピアノを教えても大丈夫かという事が懸念材料となっていたのだ。

未来に影響を与えないだろうか、という事が彼女は心配だった。


「大丈夫デス。問題ないデスヨ。」

「本当ですか。」

「本当デス。令貴人に嘘を吐けませんよ。」


 久しぶりに見た碧眼に若汐は自らのピアノの恩師を重ねた。

宝石を思わせるかのような綺麗な青色。

 彼女の恩師もそうだった。

日本語が拙い人で、いつもカタコトで話をしていた。

 ごく稀にスラスラと話せる程度の人だった。

よく見ればあの人に似ているところがあるな、と若汐は思い出していた。


「今日ここに来たのは楽譜の復習のため、ということで。」

「ええ。問題ありマセン。」


 この口裏合わせも慣れたものだ。

最初は若汐の身分のことで口裏合わせをした。

 次はピアノの事を郎世寧が教えたということにしようと口裏合わせをした。

ある意味、この2人には紫禁城の中では別格の絆というものが出来上がっていた。

 出会いが特殊だったからだろう。

 この2人の絆を引き裂く事は簡単に出来まい。

たとえ、それが時の皇帝であろうともだ。


「楽譜は円明園にありますか?」

「最初にピアノを見せた倉庫にあると思いマス。」

「分かりました。ありがとうございます。」


 郎世寧から情報を得た若汐は早速、円明園に向かうことにした。

彼女は立ち上がる。

 春海を下がらせていた為、視線をそちらへ向けた。

すると郎世寧が低い声でこう呟くように言った。


「高貴妃にご注意を。」

「…分かっています。」


 若汐は視線だけを移し、碧眼と目が合う。

今この瞬間も高貴妃の従者がひっそり彼女を監視していることに気がついていた。

 春海を下がらせたのは話の内容を聞かせないようにする為だけではない。

 若汐は従者を牽制させる為にわざと目立つよう、春海が視界に入る場所へと指示を出していたのである。

 人は何かを集中して監視したとしても、視界に目立つものが入ればついそちらに目をやってしまうものだ。

その人間の習性を利用した。


(しつこい女は嫌われるわよ。)


溜息を漏らしたくなるのを若汐は堪えた。

──そういう訳で、今に至る。


(なかなか見つからないわね。貴重なものを適当に置きすぎじゃない?)


 陶器なども置かれており、どれほど貴重なものなのか若汐には分からない。

そこまでの知識も何もない素人だからである。

 もしもこの時代に現代の鑑定士など専門の人が見たら分かることなのかもしれないが、彼女には分かることではなかった。

そんな若汐にも分かるのはぞんざいに管理されているということだ。

 最初に見たピアノも同じように管理されていたなと思い出す。

円明園の女官や宦官は1部適当な人間が居るらしい。

 試しに自分の記憶を探ってみることにした。

 だが、円明園の女官ではあったが郎世寧付きの女官でもあった若汐は勤めていた場所がそもそも違っていた。

一体誰なのか、考えても分からなかった。

 彼女はそんな風に思案しながら探し物を続けていると、ヒラリと舞い落ちる葉のように数枚の纏まった薄い本が床に落ちてきたのを発見した。


──楽譜だ。


 そっと大切に壊れものを扱うかのように若汐は拾い上げた。

 現代ではあまりお目にかかれない作曲者本人が書いた楽譜の原本をコピーしたものである。

 ピアニストとしては興奮を抑えるのに必死であった。

18世紀の楽譜を今、若汐は持っているのである。

 現代では資料などで何度か見たことあったものの、原本を持ってみたという経験はなかった。


──貴重な体験をしている。


 妃嬪となった彼女が興奮を抑える必要はないのだが、女官だった頃の癖で態度や表情を表に出さないようになっていた。

そんな心境の中で楽譜に書かれてある題名を心の中で読み上げた。

 ドイツ語である。

大学でドイツ語も講義で取っていた為、若汐は簡単にだが読む事が出来た。

それだけではない。

 この曲に関して言えば、弾いたことのある人間ならば題名を見れば分かる曲だった。


日本語訳すると、


『フランスの歌曲「ああ、お母さん、あなたに申しましょう」による12の変奏曲』


というものが直訳の原題である。

 当時、フランスで流行っていた恋の歌を元に変奏曲としたものだ。

 通称、『きらきら星変奏曲』と呼ばれている曲。

ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1778年に作曲したもの。

 ハ長調K.265。

 懐かしい気持ちで若汐は題名を眺めていた。小学校高学年頃だっただろうか、初めて弾いたのは。

 幼かった自身の事を思い出しその頃の思い出に耽った。

あの頃は今のように難しい曲を弾く事が出来なかったこと。

 落ちこぼれ、そう言われていたこと。

なかなかこの曲を弾きこなす事が出来なかったこと。

 まだ、『出来ない人』側だったこと。

それらの事を事細かく思い出していた。

 やがてそっと破くことのないように若汐は楽譜を開く。

大切に、大切に。

モーツァルトが書いた楽譜をじっと眺めた。

 音符に触れれば、作曲したモーツァルトが楽譜を書きながらピアノを弾いている光景が思い浮かぶかのようで。

それはそれは楽しく作曲した曲だったのであろう事が容易に想像出来た。


(この曲なら皇子に教えられるだろう。勿論、変奏曲になる部分は無理だと思うけど。)


 さて、この曲をどうやってあの皇子に教えようか。

しばし思考する。

 だが、今はやめることにした。

楽譜を手に入れるという目的をはたした若汐は、春海が待つところへと向かった。



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