第5話 雪夜の日常~放課後編~
午前の授業が終わり、昼休みを挟んで午後の授業。
学生にとっては当たり前のスケジュール。
入学したての朱里は、まだ緊張しているかもしれない。
だが、2年生になった雪夜は、粛々と勉強に取り組んでいた。
宗隆との会話で多少心が乱れたものの、今はもう落ち着いている。
彼も完璧な人間と言う訳ではなく、1人の少年に違いはない。
それでも、基本的には途轍もなくハイスペック。
外見は当然として、勉強も運動も家事も得意だ。
その代わりに人間関係が苦手なのだが、それを補って余りある能力だと言えるだろう。
学問の授業で解けない問題はなく、体育などでは圧倒的な記録を残して来た。
そんな彼に女子生徒が惹かれるのは、ある意味で自然の成り行きかもしれない。
ただし、割と最近あったバレンタインデーでチョコをもらった数は、意外にも少なかった。
本当は渡したい者なら多数いたが、近寄り難い雰囲気がそれを阻んでいたらしい。
もっとも、本人にその意識はないのだが。
何はともあれ、今日も雪夜に近付けたのは、朱里や宗隆と言った例外のみ。
石川を入れても3人。
あまりにも寂しい数だが、彼は気にせず帰り支度を済ませて帰路に就く。
朱里は剣道部、宗隆は野球部に所属している為、帰りは必然的に1人だ。
勿論、真っ直ぐ帰って即座にCBO――と言う訳でもなく、雪夜にも予定くらいはある。
桜並木を通って慣れ親しんだ道に入り、暫くすると古びた建物が見えて来た。
一見すると武家屋敷で、趣がある。
しかし、彼は今更何を思うこともなく中に入り、玄関ではなく併設された剣道場に向かった。
中からは活気ある声が聞こえて来ており、思わず微笑む雪夜。
その笑顔はすぐに消えてしまったが、どことなく足取りが軽くなっている。
入口まで来た彼の目に映ったのは、大勢の少年少女たち。
まだ小学生くらいだが、全員が中々の腕前だ。
そのことにまたしても頬が緩みかけたが、表情を取り繕って挨拶する。
「こんにちは」
「あ! 雪夜先生だ!」
「え!? あ、ホントだ! こんにちは!」
「こんにちはー!」
雪夜が声を掛けた途端に、子どもたちが一斉に振り向いて挨拶を返して来た。
それ自体は構わないが、尚も騒ごうとしているのはよろしくない。
だからこそ雪夜は注意しようとしたが、そう言った役目は別の人間にある。
「こらこら。 皆、稽古中だぞ? 続けなさい」
「あ! はい!」
「ほら、行くぞー!」
「こーい!」
さほど大きな声ではなかったが、子どもたちは逆らうことなく言うことを聞いた。
そのことに胸中で感心しながら、雪夜は歩み寄って来た人物に頭を下げる。
「すみません、師範。 邪魔をしてしまいました」
「いやいや、気にしなくて良い。 それより、早く着替えて来い」
「わかりました、失礼します」
穏やかながら、力強さを感じさせる男性。
今年で40歳を迎えると聞いているが、とてもそうは見えないほど若々しい。
名前は近藤修司。
この道場の長であり、雪夜の師匠かつ父親代わりのような存在だ。
身が引き締まる思いの雪夜は丁寧に一礼し、更衣室で着替えを済ませてから道場に戻る。
ちょうど休憩時間に入ったらしく、子どもたちが思い思いに休んでいた。
全員かなり疲れてはいるが、充実した顔をしている。
かつての自分を思い出した雪夜は、何とも言い難い感慨を覚えていた。
するとそこに、修司が近寄って来たのだが――
「雪夜、やるか?」
「え? ですが、稽古中なのでは?」
「休憩中だから、構わんよ。 それに子どもたちにも、良い刺激になるだろう」
「そう言うことでしたら……よろしくお願いします」
「マジで!? 師範と先生の試合だってよ!」
「わー! みたーい!」
「こら、休憩中だからって騒ぐんじゃない。 見学は良いが、静かにするように」
『はーい!』
雪夜と修司の手合わせが見れると聞いて、子どもたちがにわかに沸き立つ。
修司が窘めたことで大人しくはなったが、ワクワクしているのは隠し切れていない。
そんな子どもたちに苦笑しながら、集中力を高めつつ準備運動する雪夜。
体が温まったのを確認し、改めて向かい合った修司は、彼にとってCBOの強敵を凌駕するほど恐ろしい。
先ほどまでの穏やかさは鳴りを潜め、全身から濃密な殺気にも似た迫力を感じた。
それでも委縮することはなく、正面から立ち向かう雪夜。
そんな彼に修司は微笑んだが、それは極めて短い時間。
道場にピリピリとした空気が張り詰め、子どもたちは緊張している。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
互いに礼をして、構えを取った。
まるで鏡合わせのような、全く同じ動き。
しばしの間、両者は間合いを取り合っていたが、勝負は一瞬で決着が付いた。
「面ッ!」
雪夜が放った、鋭い面。
全国を見渡しても、これを凌げる高校生は少ないかもしれない。
ところが――
「胴ッ!」
雪夜の面を避けながら膝を抜き、腰の回転で見事な胴を決める修司。
完璧な一撃は雪夜の胴を打ち抜き、誰が見ても一本となった。
あまりにも綺麗に決められた雪夜は、小さく溜息をついてから修司に向かって頭を下げる。
「有難うございました」
「有難うございました。 もう少しやるか?」
「……そうですね、このままでは終われません」
「ははは。 相変わらず、負けず嫌いだな。 良いぞ、いくらでも掛かって来い」
「はい、よろしくお願いします」
その後、雪夜は何度も繰り返し修司に挑んだが、結局最後まで勝つことは出来なかった。
悔しく思いつつも、子どもたちの時間を奪う訳には行かないと考えた彼は、今は指導に回っている。
人付き合いが苦手で、学校では1人でいることが多い雪夜だが、ここでは積極的だ。
子どもたちに的確かつわかり易くアドバイスし、実践してみせる。
上手く出来たらしっかり褒めて、出来なかったら何故出来なかったかを一緒に考えた。
雪夜の指導法が必ずしも正しいとは限らないが、少なくとも子どもたちからは好評で、信頼も厚い。
実際に彼によって上達した者も多く、修司も満足している。
そうして時間が過ぎ去り、子どもたちを見送った雪夜は、再び修司と相対した。
本来はここからが彼の時間で、いつも稽古に付き合ってもらっている。
それゆえ、てっきり今日もそうかと思っていた雪夜だが、修司から思わぬ言葉が飛び出した。
「雪夜、少し話があるから着替えて来い」
「話……ですか?」
「そうだ」
「……わかりました」
雪夜としてはもっと手合わせしたかったが、修司の言い付けを破る訳には行かない。
大人しく着替えた彼が道場に帰ると、修司は黙って歩き出した。
雪夜は、どこに行くのかと思っていたが、そこは屋敷の縁側。
いまいち意図がわからないまま、修司に無言で促されて腰を下ろす雪夜。
そのまま静寂が続き、ますます雪夜が不思議になっていると、おもむろに修司が口を開く。
「雪夜、何かあったのか?」
「何か、とは?」
「何かは何かだ。 ほら、学校とか家で」
庭を見つめながら問われた雪夜は、心臓が跳ねる思いだ。
実際には大したことではなく、言われるまで忘れていたほどだが、それに気付かれたことに驚いている。
内心で苦笑を浮かべた雪夜は、大人しく打ち明けることにした。
「少し昔のことを思い出しました」
「昔……ゲーム関係か?」
「まぁ、そうですね。 学校で誘われたんですけど、断りました」
「……そうか」
それっきり、口を閉ざした修司。
微妙に居心地が悪かった雪夜だが、辛抱強く続きの言葉を待つ。
すると修司は息を吐き、言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「雪夜、お前は凄い奴だ」
「何ですか、いきなり」
「良いから聞け。 両親を早くに失っても挫けず、勉強も出来て、運動も出来て、オマケに家事も出来る。 剣道の腕も、俺が認めるほどだ」
「未だに、一本も取れたことがないですけどね」
「はは! それは10年……は言い過ぎか。 5年早いな」
「では、3年以内に達成してみせます」
「お前のそう言うところ、俺は好きだぞ。 ……話を戻そう。 とにかく、お前は凄い。 それこそ、同年代でお前より優れた人間がいるのか、疑問なほどだ」
「どうしたんですか、師範? どこか具合でも悪いんですか?」
「こら、茶化すんじゃない。 俺が言いたいのは、優秀過ぎるからこそ不安だと言うことだ」
「不安?」
「そうだ。 お前は、大抵のことなら1人で解決してしまう。 だが、1人の人間に出来ることには、限界がある。 それはわかるな?」
「……はい」
「そう言ったときに大事なのは、頼れる仲間がいるかどうかだ。 たくさんじゃなくて良い。 でもな、もう少し他人と関わっても良いんじゃないか?」
「……覚えておきます」
「それで良い。 勿論、俺に出来ることがあるなら、遠慮なく言え。 お前には子どもたちが世話になってるし、お前との手合わせは俺自身の稽古にもなるからな」
「むしろ、世話になっているのは俺の方だと思いますが……有難うございます」
「良し。 じゃあ、今日はこの辺にしておくか。 お前も帰って、することがあるんだろう?」
「えぇ、いつも通りです」
「俺はゲームのことは良く知らんが、あまり根を詰め過ぎるなよ?」
「大丈夫ですよ、分別は付けているつもりですから。 では、失礼します」
「あぁ、またな」
立ち上がった雪夜は修司に一礼し、武家屋敷をあとにした。
修司に言われたことを胸に刻みつつ、具体的にどうすれば良いかはわかっていない。
しかし結果的には、これが切っ掛けになったのだろう。
この日、雪夜が彼女と出会ったのは、運命なのかもしれない。