【番外編】昴ではない貴方へ
東京の湾岸に住んでいる。
そう言うと、たいてい少しだけ反応される。
「え、いいじゃん」
「夜景きれいそう」
「港区っぽいね」
たしかに、窓からは大きな橋が見える。夜になると光が水面に落ちて、黒い海の上に細い道みたいなものができる。
でも、そこを誰かが歩いてくるわけではない。
ただ光っているだけだ。
湾岸の夜は、思っていたより静かだった。
コンテナ、倉庫、誰もいない歩道、たまに通るトラック、遠くの電車の音。
東京のど真ん中にいるはずなのに、人間の生活から少し外れているような気がする。
地元の海とは違う。
地元の海は、暗くても海だった。
波の音があって、砂があって、灯台があって、そこに立つだけで昔の自分に会えるような場所だった。
湾岸の海は、もっと無口だ。
思い出を返してくれるわけでもない。
慰めてくれるわけでもない。
ただ、そこに黒くある。
だから俺は、よく見に行った。
慰められたかったわけではない。
いや、たぶん慰められたかった。
⸻
その夜も、眠れなかった。
部屋の明かりを落として、ノートパソコンを開いていた。
画面には、自分で書いた小説のファイルがあった。
『百年後の君へ』
何度も読み返したタイトルなのに、深夜に見ると、少しだけ他人の作品みたいに見える。
昴。
真理。
星也。
美林。
世界を変えようとした真理。
真理を救えなかった昴。
その後の世界を憎んだ星也。
そして、その全員の横で、ずっと生きていた美林。
俺は、自分で作った人物たちのことを、もう完全には分かっていない気がしていた。
特に美林はそうだった。
書いている時は、もっと便利な人物だと思っていた。
明るくて、空気を変えて、真理を外へ連れ出して、星也のそばに残る人。
でも今読み返すと、美林が一番怖い。
あの人だけが、ちゃんと現実に残っている。
真理は理想になった。
昴は後悔になった。
星也は復讐になった。
でも美林は、生き残った。
軽口を叩きながら、明るく振る舞いながら、誰かの死後の時間を引き受けた。
そういう人間が、一番強い。
午前一時五十七分。
スマホには、昔のLINEが残っていた。
俺を振った子とのトーク。
消せばいいのに、消していなかった。
未練というより、証拠として残していたのかもしれない。
俺はたしかに、あの子に選ばれなかった。
その事実が、まだ時々、俺の中にある。
もう好きとか、戻りたいとか、そういう単純な話ではない。
ただ、あの子に選ばれなかった俺が、まだどこかで立ち尽くしている。
俺は小説のファイルを閉じようとした。
その時、画面に一文が増えた。
俺は何も打っていない。
あなたは、私を好きだったのではなく、私に選ばれたあなたを好きだった。
指が止まった。
文字は、ゆっくり次の行へ進んだ。
だから私を、物語の結末にしようとした。
部屋の中が急に静かになった。
外では車が走っているはずなのに、何も聞こえない。
俺はノートパソコンを閉じた。
暗くなった画面に、自分の顔が映る。
その後ろに、女が立っていた。
俺は振り返らなかった。
女は画面の中で、俺の肩越しにこちらを見ていた。
顔ははっきりしない。
真理にも見えた。
あの子にも見えた。
全然知らない女にも見えた。
女は言った。
「続きを書いて」
⸻
翌朝、パソコンを開くと、昨夜の文章は消えていた。
代わりに、デスクトップに新しいファイルがあった。
『湾岸の君へ.docx』
俺は少し笑った。
またかよ、と思った。
でも、開いた。
一行目には、こう書かれていた。
昴は、真理を救いたかったのではない。
真理を救えなかった昴を、昴自身が救いたかった。
俺は読み進めた。
舞台は、俺の部屋だった。
湾岸のマンション。
窓の外には大きな橋。
机の上には小説の原稿。
床にはジム用のバッグ。
洗面台には、合コンで部屋に来た子が忘れていったヘアピン。
そんなものは現実にはない。
でも、読んでいる間だけ、確かにそこにあった。
小説の中の俺は、合コンの帰りに女の子を部屋へ連れてきていた。
雨の夜だった。
彼女は窓の外を見て、
「すごいね、東京って感じ」
と言った。
俺はそれを聞いて、少し救われた気がしていた。
そのあと、彼女の髪の匂い、濡れた傘、部屋の薄い照明、グラスについた口紅、そういう描写が続いた。
露骨なことは何も書かれていない。
でも、妙に湿度があった。
人と人が近づく時の、言葉が少なくなる感じ。
相手の体温が近いのに、心だけ置いていかれる感じ。
そして翌朝、彼女が帰ったあと、机の上に紙が置かれていた。
そこにはこう書かれていた。
一晩で埋まる穴なら、最初から穴ではない。
俺はそこでファイルを閉じた。
笑えなかった。
⸻
その日、会社では普通に働いた。
チャットを返し、資料を直し、会議で「一旦持ち帰ります」と言った。
人生で一番よく言っている言葉かもしれない。
一旦持ち帰ります。
仕事も、恋愛も、人生も、何もかも持ち帰ってばかりだ。
そして家で開いてみたら、だいたい濡れている。
夜、駅から家まで歩いていると、湾岸の風が強かった。
倉庫の壁が鳴っている。
フェンスにポスターが貼ってあった。
白いスーツの男。
見たことがあるような、ないような男だった。
ポスターにはこう書かれていた。
自分か、自分以外か。
ただし、海だけは例外。
数メートル先には、別のポスター。
腕を組んだ男。
霊に主導権を渡すな。
ただし、深夜の港湾では逃げてもいい。
さらに隣。
目つきの鋭い男。
褒める時は具体的に。
ただし、顔のない女には近づくな。
最後のポスターには、四つの色だけが印刷されていた。
肌色。
黒。
白。
濃い茶色。
人物の顔も名前もない。
ただ、下に一行。
四色で表現できる男。
俺はなぜか、それが一番嫌だった。
実在の誰かではない。
ただの記号だ。
でも、記号だからこそ、どこにでも出てこれる気がした。
俺は歩く速度を上げた。
⸻
部屋に戻ると、机の上に封筒が四つ置かれていた。
差出人は、それぞれ違った。
昴
真理
星也
美林
俺は、まず美林の封筒を開けた。
なぜか、そうした方がいい気がした。
便箋には、丸い字でこう書かれていた。
あんたさ、重いんだよ。
でも、重いのが悪いって話じゃない。
重いものを、重いまま相手に渡すからダメなの。
軽く見せる努力って、誠実じゃないようで、実は誠実な時がある。
相手が受け取れる形にするってことだから。
真理はそれが下手だった。
昴も下手だった。
星也は、下手とかいうレベルじゃなかった。
私?
私は上手いふりをしてただけ。
でも、ふりでも人は救えるよ。たぶんね。
そこで一度、文字が途切れていた。
少し下に、追記があった。
あと、顔は見る。
そこは人間なので。
俺は笑った。
ちゃんと美林だった。
次に真理の封筒を開けた。
愛は研究ではありません。
仮説を立て、検証し、三回目で結論を出すものでもありません。
私は、誰かの結末ではありませんでした。
あの人も、あなたの結末ではありません。
誰かを救済にすると、救済されなかった時、その人を憎むことになります。
それは、とても不公平です。
昴の手紙。
俺は真理を救いたかった。
でも、本当は真理を失った自分を救いたかった。
それに気づくまで、ずいぶん時間がかかった。
時間を戻せても、見方を変えられなければ同じことを繰り返す。
星也の手紙。
俺は、父さんの未完を背負わされた。
人は簡単に、誰かに続きを託す。
親が子に。
恋人が恋人に。
作者が登場人物に。
好きな人に、自分の敗者復活戦をさせるな。
最後の一文だけ、筆圧が強かった。
俺は四通の手紙を机に並べた。
自分の小説の登場人物に説教される夜。
かなり終わっている。
でも、少しだけありがたかった。
⸻
春のことを思い出した。
あの子と三回目に会った日。
その日は最初から、俺の中で勝負日だった。
店も、歩く道も、帰り際の空気も、どこかで決めていた。
「今日で決める」
そう思っていた。
でも、恋愛は試験ではない。
合格通知のように交際が来るわけではない。
内定承諾の期限があるわけでもない。
三回目だから何かが確定するわけでもない。
俺は、あの子を見ていたようで見ていなかった。
あの子の話を聞いているようで、ずっと自分の人生の音を聞いていた。
ここで選ばれたら、俺はもう大丈夫だ。
そう思っていた。
東京に来たこと。
湾岸に住んでいること。
身体を変えたこと。
小説を書いたこと。
見る側から出る側へ行こうとしていること。
その全部に、判子が欲しかった。
あの子は、判子ではなかった。
当たり前だ。
⸻
夜中、テレビが勝手についた。
画面には、巨大な障害物のコースが映っていた。
運河の上に吊られた丸太。
倉庫の壁に沿って伸びる細い足場。
湾岸の橋の下にそびえる最終ステージ。
観客はいない。
海の上に人影だけが並んでいる。
昴。
真理。
星也。
美林。
あの子。
そして、ポスターの四人。
白いスーツの男は、そり立つ壁の上に座っていた。
恋愛指南の男は、スタート地点で腕を組んでいた。
褒め方を説く男は、メモ帳を持っていた。
四色で表現できる男は、最終ステージの頂上に立っていた。
顔は分からない。
でも、なぜか分かる。
あれは、そこにいてはいけない。
画面の中で、恋愛指南の男が言った。
「始めろ」
気づくと、俺は画面の中にいた。
第一エリア。
合コンのテーブル。
向かいに女の子がいる。
グラスの氷が鳴る。
彼女が笑う。
俺も笑う。
会話はうまくいっている。
でも、テーブルの中央に文字が浮かぶ。
この子は、あなたの証明書ではない。
足場が沈む。
俺は走る。
第二エリア。
新宿のクラブ。
音がでかい。
照明が眩しい。
体温が近い。
誰かの香水。
知らない女の子の笑い声。
俺は、勝っている気がする。
でも、床に文字が浮かぶ。
勝っている時ほど、何を失っているか見えない。
足場が割れる。
俺は飛ぶ。
第三エリア。
地元の海。
深夜二時。
灯台。
波の音。
誰かと出会うはずだった場所。
波打ち際に、あの子が立っている。
俺は近づこうとする。
あの子は首を横に振る。
「私は、そこにはいない」
その声だけがはっきり聞こえた。
次の瞬間、彼女は真理になっていた。
真理は言った。
「あなたが会いたかったのは、私ではなく、会えたあなたでしょう」
俺は動けなかった。
背後から、美林の声がした。
「そこで止まるなって」
振り返ると、美林がいた。
笑っている。
でも、いつもの軽さではなかった。
「好きな子に救われたい男って、かわいいよ。ほんとに。見てて痛いし、ちょっと愛しい。でも近くにいると、たぶんしんどい」
美林は海を見た。
「私もさ、明るくしてたら何とかなると思ってた時期あるよ。真理が死んで、星也が残って、それでもご飯作って、笑って、普通の顔して。そうしないと、全部沈むから」
彼女は俺を見た。
「軽いって、逃げじゃない時もあるんだよ」
その言葉で、海が消えた。
⸻
最後のエリアは、俺の部屋だった。
湾岸の部屋。
窓の外には黒い海。
机には原稿。
ベッドには誰もいない。
部屋の中央に、昔の俺が立っていた。
細くて、自信がなくて、初デートの前に友達へ相談していた俺。
その俺が言った。
「楽しかったよな」
俺は黙っていた。
「女の子とご飯行けるだけで、めちゃくちゃ嬉しかったよな」
俺は頷いた。
「いつから、結果になったん?」
答えられなかった。
その時、最終ステージの頂上から、四色の男が一歩前に出た。
何も言わない。
誰も動かない。
昴も、真理も、星也も、美林も、あの子も、白いスーツの男も、恋愛指南の男も、褒め方を説く男も、昔の俺も。
全員が黙った。
それが一番おかしかった。
何も言っていないのに、空間の意味が壊れていく。
深刻なはずの場所に、しょうもなさが入り込む。
神聖なはずの告白に、変なノイズが混ざる。
俺は少し笑った。
笑ったら、泣きそうになった。
四色の男は、紙を一枚落とした。
紙はゆっくり降りてきて、俺の手の中に収まった。
そこには、たった二行だけ書かれていた。
重くするな。
でも、軽く扱うな。
それだけだった。
⸻
目が覚めると、朝だった。
テレビは消えていた。
机の上に原稿が置かれている。
印刷した覚えはない。
タイトルは、
『湾岸の君へ』
最後のページに、手紙があった。
百年後の君へ。
あなたがこれを読む頃、
私はもう、あなたの物語の中にはいないかもしれません。
でも、それでいいと思います。
誰かを愛することは、
その人を自分の物語に閉じ込めることではありません。
誰かに愛されることは、
自分の人生の正しさを証明してもらうことでもありません。
もし次に、あなたが誰かと出会うなら、
その人を結末にしないでください。
その人を、始まりにもしないでください。
ただ、そこにいる人として見てください。
そして、あなた自身も、
誰かの物語の報酬になろうとしないでください。
あなたは、あなたのまま、
見る側から出る側へ歩いていけばいい。
真理
その下に、別の筆跡があった。
昴:やり直しは、過去を消すためじゃない。見方を変えるためにある。
星也:同じ失敗をした時は、認めろ。そこから始めろ。
美林:軽くなれ。でも薄くなるな。あと顔は見る。
さらに余白に三つ。
白いスーツの男:自分か、自分以外か。だが愛は、その二択ではない。
恋愛指南の男:主導権を握れ。ただし、相手の人生まで握るな。
褒め方を説く男:ちゃんと見てから褒めろ。テンプレはバレる。
一番下。
四色の点が四つ並んでいた。
肌色。
黒。
白。
濃い茶色。
その横に、手書きで一言。
まず寝ろ。
俺は原稿を閉じた。
外は晴れていた。
湾岸の朝は、夜よりずっと普通だった。
トラックが走り、会社員が歩き、コンビニの前で誰かが煙草を吸っている。
顔を洗い、髭を剃り、プロテインを飲んだ。
現実はあまりに現実だった。
でも、その現実が少しありがたかった。
玄関を出る前、ふと窓の外を見た。
海が見えた。
黒くもなく、幻想的でもなく、ただ少し濁った東京の海だった。
それでよかった。
全部に意味があるわけじゃない。
でも、意味がないわけでもない。
そのくらいが、ちょうどよかった。
スマホが震えた。
通知は、資格試験の勉強アプリだった。
俺は笑った。
現実すぎる。
⸻
その夜、久しぶりに一人で釣りに行った。
ふ頭の公園。
釣果はゼロ。
サメも釣れない。
エイもいない。
変な女も出ない。
四色の男も出ない。
ただ、風が吹いていた。
少し物足りなかった。
でも、同時に安心していた。
帰り道、湾岸の橋を見た。
いつか誰かとここを歩くかもしれない。
いつか誰かと地元の海を歩くかもしれない。
でも今夜は、一人だった。
それでよかった。
部屋に戻ると、机の上に小さなメモが置かれていた。
朝にはなかった。
そこには、短くこう書かれていた。
五回目以降を、ちゃんと生きろ。
俺はそれを捨てなかった。
午前二時。
水音はしなかった。
インターホンも鳴らなかった。
女の声もしなかった。
ただ、窓の外の海が、静かに光を返していた。
俺は布団に入った。
まだ、決めなくていい。
まだ、物語にしなくていい。
でも、逃げなくていい。
見る側から、出る側へ。
誰かの結末ではなく、誰かの救済でもなく。
俺自身の足で。
目を閉じる直前、どこか遠くで美林の声がした気がした。
「軽くなれって言ったでしょ」
少し遅れて、真理の声。
「でも、薄くならないで」
俺は返事をしなかった。
返事をしないまま、眠った。




