鐘が鳴る
「付き合う」なんて宙ぶらりんの口約束だ。まだ東京にいたころ、付き合うって何だろうと真剣に考えたことがあった。そこに法的拘束力はないし、言質を取られるわけでもない。それこそ返品したくなったらいつでもできるのだ、かつて自信を持てなかった頃の自分がそうしたように。そんな随分と曖昧な関係にも関わらず世の中の恋人たちはその口約束に責任を感じ、特別感を抱く。時には束縛し合い、価値観のずれから喧嘩に発展し、涙を流しながら訴える。「何で理解してくれないの。」
時には年単位をかけて熟成され、全てをさらけ出した関係も別れるとただの知人未満の存在に成り下がる。もし廊下ですれ違おうものならお互いに目を合わさないよう、その一点にのみ全神経を集中させるだろう。なぜただの口約束にそんな労力が割かれなければならないのか。そんな悪しき慣習の歴史は遠い昔に誰かが、泊りがけで旅行に行くような関係の女性を「彼女」と名付け、その行為を正当化したことから始まっているのだろう。そしてその関係はいつしか「付き合う」と呼ばれるようになった。ここでふと思う。その関係を付き合うとさえ命名しなければ、面倒くさいいざこざは起こらないし、眠れない夜もない。つまり付き合うことをせず、女友達として「二人で旅行をする」行為に再現性があれば、その方が遥かに快適なのではないかということだ。そんな考えを持って以来、付き合うことの必要性を疑問視し、軽んじていた。だからこそ真理と再会した後は、女友達としてここまで一緒に歩んできたのだった。また付き合おう、と言い出さなかった真理ももしかしたら同じ考えなのかもしれないと思ったこともあった。そんな快適な関係から今、変わろうとしている。口約束を飛び越えて、契約をする。返品は基本的に不可能で、その関係は法的な拘束力を持つ。
それでも。
二人で一生を歩んでいくという覚悟に、今、命名する。
「真理、結婚しよう」
それからどれだけ時間がたっただろう。気づけば時計は12時を回り、どこからか鐘の音が聞こえる。その鐘はきっと除夜の鐘だ。分かっていても、今夜だけは、ウェディングベルだと、そう言わせてほしい。
一年後、僕たちは第一子を授かった。