403講義室
夢でよく訪れる場所がある。
ちょっと山間にある地方大学で、私はそこの学生という設定だ。
夢の中での私は焦っている。自宅にレポートを忘れてきたとか、寝坊して講義の時間に遅れそうだとか、理由は色々。そして必死で403講義室に向かっている。いつも目的地は403講義室だった。なんてことのない、南棟の4階の角から3つめのドア。何故だかそこに辿り着けない。歩いても走っても、空気はねっとりと重く、一歩がやけに小さく、休み時間になると学生たちが廊下にあふれ、あるいは自分が道を間違えていて、そこは北棟だということにドアの前で気付き……。
間に合わないと叱られる。単位を落とす。就職がふいになる!
もうだめだと諦めかけた時に、いつも目を覚ますのだ。
布団の中で、夢だった安堵感と、また間に合わなかったという口惜しさと、本当は何か現実で忘れている大事な予定があったのではないか? という不安とが交錯する。
その大学のことを、あまりに何度も夢に見すぎて、実際に通っていた本当の母校よりも鮮明に思い出せてしまう。大きな楠のあるエントランス、ちょっとオシャレな天窓付きのカフェテラス、今時珍しい古風な銅像のある広場。
そんな大学は、どこにも存在しないはずだった。
……だから今日、出張帰りに知らない街を歩いていた時に、まさに夢に見たあの大学そっくりの建物を発見した時には、驚きのあまり二度見どころか五度見くらいしてしまった。
大きな楠、銅像、少し古びた学舎。間違いない、あの大学だ。初めて訪れた場所なのに懐かしささえ覚える。
もしかして、いつかどこかでテレビか雑誌か何かでみたことがあったのかもしれない。現実的にはそんなオチがつくのかもしれない。
今はそんなことよりも。
(――403講義室に行こう)
私は決意していた。いつも辿り着けないあの講義室へ、今日こそ行くのだ。夢の中では無理だとしても、現実ならばきっと行けるだろう。これから直帰する予定だったから、服装も学生とそう変わらない。年齢もまあ……まだギリギリ許容範囲だろう。しれっと混ざってしまえばきっとバレることはない。
ここで辿り着くことができたなら、もうあの悪夢を二度と見ないで済むに違いない。これが最初で最後のチャンスだ。
何故だか妙に確信めいた気持ちだった。
私はつとめて学生を装いながら、大学の門をくぐった。
学生証を提示する必要があったらどうしようかな、と思っていたけれど、それはなかった。今時の学校的にセキュリティ大丈夫なのかな、と逆に心配になったりする。南棟と北棟を間違わないように何度も確認し、階段を上って4階に到着。
ああ、夢で見た通りの白茶けた廊下だ。
斜めに差し込む午後の光に埃の粒が光っている。
403講義室にはあっけないほど簡単に辿り着いた。現実世界でも何かしらの障害が生じるのではないかと思っていたので、スムーズ過ぎて不安になるくらいだ。入口にカードリーダーらしきものがあり、学生証をかざして出席確認するシステムのようだったけれど、学生証がないと入れない仕組みというわけでもなかったので、そのまますんなり入室できてしまった。
150人くらい収容できる大きめの講義室だ。これから次の講義が始まるようで、続々と学生たちが入ってくる。これなら一人くらい部外者が混じっていてもバレることはないかもしれないな。……これも何かの縁だ。私は403講義室で行われるであろう次の講義をこっそり聴講してみようと思い、最後部の窓際の席に座った。
ざわつく教室内、ノートや教科書を出し入れする紙が擦れる音。予習でもしているのか、ペンを走らせる音。談笑する声。大学の雰囲気を味わうだけでも何だか愉快な気持ちになる。
こんな非日常もたまにはいいものだ……。
……それにしてもなかなか講義が始まらないな。
心地よい喧騒にしばらく浸った後に、私はようやく気が付いた。
講義と講義の合間の休憩時間が、こんなに長いはずはない。学生たちもずっとざわついている。入口からは相変わらず、次々と学生たちが入ってくる。いや、入りすぎだろう。さっきから何十人入ってきたんだ? それなのにまだ満席になる様子がない。大きめの講義室ったって限界はあるんじゃないか?
いま何時か確認しようとしたけれど、カバンの中に時計がない。スマホもないぞ、忘れてきたのかな? 教室中央に壁掛け時計がある筈なんだけど、ずいぶん遠くて良く見えない。いや、この教室、こんなに広かったか?
おかしいな?
立ち上がろうと思ったけれど、自分の隣には既に学生が何人も座っていて、脱いだ上着や荷物でぎっしり埋まっていて立ち上がれない。いや、立ち上がれないことはないはずなんだけど、彼らに迷惑そうな顔で睨まれてしまうと、変に動き回るのが申し訳ない気持ちになって大人しく席に座り直してしまう。
窓から差し込む日差しがまぶしくてくらくらする。
教壇も、さっき入ってきた入り口も、あまりにも遠くてよく見えない。
学生たちは雑談を続ける。ざわざわざわざわ通低音のように響き渡って思考も遮られる。空調の行き届いていない室内は息苦しさが増す。講義はまだ始まらない。きっとまだまだ、ずっと始まらない。
こんな気まぐれ、起こさなければよかった。
いつもと同じように、ちゃんと遅刻していれば、レポートを取りに家に戻っていれば、道に迷っていれば。
ちゃんと悪夢を見ていれば、もういちど目覚めることができたのに。
403講義室になんて、辿り着くべきではなかったのに。