マーキング
「あ、先輩、赤くなってますよ。」
資料を取りに来た後輩が、俺の首すじを指さして言った。軽く触ると、かすかな膨らみが指先に当たる。
「もしかして、昨晩はお楽しみでしたか…?」
ニヤニヤと笑う後輩。
「そんな相手いないの、君もよく知ってるでしょ…。虫にでも刺されたかな…。」
実を言うと、心当たりが一つ。しかしこの場で喋るにはいかないので、あくまでシラをきる。
「えー、そうですか。つまんないの〜。」
「いいから。ほらココ、修正入ってるからよろしく。俺お手洗い行ってくるわ」
「はーい。」
後輩に紙の束を押し付けて席を立つ。オフィスから廊下に出ると、少し肌寒かった。
鏡の前に立つ。相変わらずくまの取れない目がこちらを見ている、ではなくて。首すじの赤くなった部分をよく見る。小さい赤い点が二つ。多分かさぶたになっているのだろう、下手に引っ搔くと余計赤くなりそうだったのでそのままにしておくことにした。帰ったら、説教だな。
午後8時。帰宅。ドアを開けると、ゲームの戦闘音が玄関まで聞こえてきた。
「ただいま。」
「あー、うん。」
スウェット姿の長い黒髪の女性が一人、ソファに寝転んでゲームをやっていた。
「なぁ、」
スーツをハンガーにかけながら話しかける。
「…。」
当然のように無反応。この対応に苛立ちも感じなくなってしまった自分が悲しい。
「おいって。」
「…。」
「あのさぁ。」
「…!」
派手な爆発音がして、画面にゲームオーバーの文字が浮かんだ…
「ああもう、話しかけるからミスっちゃったじゃん!」
コントローラーをポイと放り投げ、こちらを向く彼女。
「あーはいはい、ゴメンゴメン。」
「ぜんっぜん誠意が見られないんですけど?」
「いやだって俺そこまで悪くないし。」
「はぁ?」
目を釣り上げる彼女。いや実際俺が責められる言われはないと思うんだが、ここで下手に機嫌を損ねるとこれ以降しばらく話を聞いてくれなくなるため素直に謝っておく。うわぁ俺ってばめっちゃ大人。
「…ゲーム中に話しかけてすみませんでした。」
「…うん。」
しゅん、と彼女が大人しくなる。
「で、話があるの?なに?」
「ああ、そうそう。」
首元の赤みを見せる。
「ここ。昨日お前がやったとこ。後輩に『赤くなってますね』って揶揄われたんだけど。見えるところにはやるなって言ったよな?」
「ん〜どれどれ?」
俺の首すじを覗き込む彼女。ふわりと、髪の毛からフローラルの香りが漂う。
「あー。ここだとワイシャツで隠れないんだ、ごめんね〜。」
ふふ、と笑う彼女。
「で、なんて言われたの?『キスマークついてますよ』って?」
「ちっ…。」
舌打ちと一緒に睨んでおく。絶対面白がってるな、こいつ。
「ごめんごめんて。」
「別の場所にしてくれよホント…。」
「えー、でも、首すじと太ももの裏くらいなんだよね、太い血管通ってるとこって。」
「いいじゃん太ももの裏で。なんでダメなの?」
「なんかヤダ。私の美的センスに反する。」
男の家でスウェットでだらけてる人間に美的センスもクソもないだろ、と思ったが黙っていることにした。
「まぁ、昨日はいっぱいもらったから、今日は別に首すじじゃなくていいや、腕かして。」
俺は黙って腕時計を外すと、左腕を差し出した。
「んじゃ、失礼します。」
彼女は俺の手首をとると、カプリ、とその鋭い歯を突き立てた。
痛みはほとんどないのだけれども、もう何回も見たこの光景はいまだに慣れない。
30秒くらいで、彼女は口を離した。
「うん、今日はもういいや。」
「そう。」
「でもやっぱり、首の方がいいなぁ。」
「だからダメだって…」
彼女は俺の耳元に口を近づけると、こう言った。
「印見えたら、私のモノだってアピールできるじゃん。」
今日も美味しかった〜、と言ってゲームに戻る彼女。僕と彼女の関係は見た目より複雑だ。形式上は一応、僕が契約主、で彼女が契約先の吸血鬼。
これはどこにでもある、吸血鬼と人間のお話。