3ラウンド目・筋肉は嘘を付かない。
三話目ですが、相変わらず郁美さんは筋トレしてます。
郁美がこの世界に来て、一週間が経過した。
テンプレートに準えて中世っぽい世界だろうと思っていた郁美だったが、その文化文明的なレベルは郁美の曖昧な社会科知識から見ても【明治から大正くらい?】な様相で、毎日の暮らしに戸惑う事は無かった。
しかも、自分が最初に感じた「ものスゲー高そうなスイートルーム」レベルを遥かに凌駕するお屋敷は、彼女が転生したアルフロート家の中では普通の範疇。お屋敷には住み込みのメイドやら執事やらがウジャウジャと居て、朝の朝礼ともなれば庭に並んだ面々が規律正しく整列し、ミライクお嬢様のご無事と安寧の為に尽力する事を長々と唱えながら解散して仕事を始めるのだ。
だがしかし、郁美はそれから何をしていたのかと言うと……
「せんにひゃくにじゅういち……せんにひゃくにじゅうにぃ……」
邪魔っけなヒラヒラ衣装を脱ぎ捨てて、簡素な部屋着(しかしシルク製)を着たまま、筋トレに励み続けていたのだ。
床の上にうつ伏せになり、背筋を反らしながら息を止めてから停まり、数を数えながら戻す。このセットを含め、様々なメニューを繰り返し初心者に戻ったつもりで肉体を鍛えていた。
「ふいいぃ~っ!! さーて、次は懸垂かな……」
と、そのままの姿で窓際まで進み、手頃なぶら下がり箇所と目星を付けた窓枠からひらりと身を降ろし、階下に居並ぶ家臣達がはらはらしながら見守る中、指先の力だけで身体を支えつつ、
「はあぁ……いっち、にぃ、さん、しぃ……」
青空を見上げながら、ひたすら、筋トレに没頭し続けて……一日を終えた。
……そりゃあ、お父様も呆れるわな。
「ミライクよ……ヤレンナー君を投げ飛ばしたと聞いたが……本当なのか?」
執務の合間を縫って時間をやっと作り、ミライク(娘)と対峙した父親のハックルバック(チョイぽちゃ)が問い質すが、
「……えっ? あー、うん、たぶん……そうかな?」
完璧に忘れ去っていた郁美は、曖昧に返事しつつ高そうな衣服を身に付けた父親の姿をまじまじと見て、
(……うん、ポチャは無しだな)
……あっさりバッサリ一刀両断にした。
しかし、郁美は父親のハックルバックを蔑ろにする気は無く、彼に身形を調えて大人しく過ごせと命じられた郁美は、素直に従った。
彼女は決してハックルバックを好きになった訳ではなく、ただ単純に逆らって現在のグッドニートライフを手放したくなかっただけだった。三食じぃや付き、そして筋トレ三昧の毎日は、ほぼドーパミン中毒な郁美にとっては天国そのもの。しめしめとほくそ笑みながらも、表向きは従順に従うのも当然だった。
「……で、ミライクよ。ヤレンナー君との婚礼の日取りだがな、って聞いてるのか?」
「……えっ? あー。はい。えーっと……婚礼?」
但し、それはあくまでも建前。
まっさか郁美は、初登場から最低な扱いを受けて泣きながら逃げ去ったヤレンナー君が、既に決定事項の逃げ場無しな相手だと今更知って、
(ええーっ!? あんなんモヤシッ子なんて全くノーマッスルなんで全力でお断りなんですけど!!)
表向きはニコニコで無言のまま、しかし腹の内では二人纏めて前蹴り→ローリングエルボー→ジャーマンスープレックスの必殺コンボでマットに沈めたくなった。出来ないけれど。
(あー、やんなっちゃうなぁ……折角、気楽なニート生活を満喫出来てたのに……)
ハックルバックが遠く離れた赴任先の地へと戻った夜、郁美は日課にしているぶら下がり腹筋をしながら悩んでいた。今まで部屋の真ん中に有った邪魔っけなベッドは脇に動かしてもらい、そこに頑丈な組み木仕立ての鉄棒を置かせ、それを巧みに使いながらトレーニングに励んでいるのだ。
最初は「部屋の真ん中に置くなんて非常識にも程がある」と反対したじぃやも、庭に作った試作モデルを利用した結果、「これはなかなか……宜しいのぅ」と妙に感心し、動かせるようにキャスターを付けさせるならばと条件付きで許可を出した逸品なのである。
(それにしても……何だって婚約なんてしなきゃならないんだろう)
この世界では14歳の郁美ことミライク。彼女に将来の夢なんて物は一切無い。ただ生きていくのに苦労さえしなければ良いと思っていた。だがしかし、それはどの世界でも許される事ではない。
……夢のお気楽金持ちニート生活に終止符が打たれようとするならば……戦って掴み取るか?
極めて物騒な事を考えた郁美だったが、結局実行に移せる訳も無く、ただ時間だけが過ぎていった。
勿論、その間も筋トレは止めなかったが。
……それから三ヶ月後が過ぎた。
「おっしゃああああぁ~ッ!!」
ずしん、と特注の革製サンドバッグが撓み、吊り下げていた鎖がガチャンと鳴りながら縮んで大きく揺れた。
「そいいいぃぃいいいぃやッ!!」
掛け声と共に郁美の放った前蹴りが狙い通りに突き刺さり、再びサンドバッグが大きく揺れ、振り子のように戻る所を見過たず、三度目の蹴りが襲い掛かる。
「……ミライクお嬢様、今日も随分ととれーにんぐに打ち込みますのぅ」
毎日の日課になっているミライクの鍛練中、じぃやこと【チャップマン翁】は顎に手を当てながら、若い兵士の特訓すら凌駕する激しいトレーニングの様子を観察していた。
念入りな柔軟体操を皮切りに、何セット続くかは本人次第の筋トレメニューを続け、そしてそれが済んだら激しい打撃練習の繰り返し……彼の目から見ても小柄なミライクの何処にそんな胆力が備わっているのか。全く判らなかったが、これだけはハッキリしていた。
(……誰が見ても、淑女には見えんのぅ)
噛み締め過ぎて歯を痛めないよう、柔らかな綿を巻き絞めた物を口の中に入れ、ひたすらにサンドバッグを殴り続ける後ろ姿。動きが止まったと思った瞬間、肘を打ち膝を叩き込み、揺れるサンドバッグを避けながらの回し蹴り。その動きは長年戦場に身を置いたチャップマン翁から見ても、洗練された強者そのもの。それを若干十五歳の娘が独学で会得し、見事に披露しているのだ。
(それに、あの脚や腕。最早、ドレスを纏っても隠しきれんじゃろうて)
華奢だった少女の肉体は、はち切れんばかりの太股を筆頭に、捩った縄のような筋肉に覆われた腕と、割れて窪んだ腹筋周り……だが何よりもチャップマン翁の目を引いたのは、
(……あの優しさだけが取り柄だったお嬢様が、こうまで変わるとは……)
そう、目付きだった。やや吊り上がり気味だったものの、目尻にあった泣きボクロがチャームポイントだった目元は、今や精悍さと猛禽類に匹敵するような猛々しさを帯び、一睨みするだけで小動物なら一瞬で失神しそうな気配を帯びていた。
(……無くなった母上の血筋を色濃く受け継いだにしては、余りにも変わり過ぎじゃろうて)
彼女の母方の血筋、それは長く軍属に加わっていたチャップマン翁には馴染み深い武系の家柄。もし男として生まれていたならば、必ずや戦場で活躍したであろう。そんな母親が、ミライクの産みの親だった。
だが、病に伏せミライクが育つより早く世を去り、彼女の記憶の中には存在しない幻の母。そんな母の気質が丸ごと受け継がれているかに見え、チャップマン翁は有りもしない可能性を夢想してしまうのだ。
(もしや、ミライク様は、亡き母親が乗り移っているのかもしれんて)
……それ、少しだけ違うけど、ちょっとだけ合ってるから。
(ふいいいいぃ~っ!!! 筋トレ最高ぅ~っ♪)
郁美っていう、変な奴が中に入ってるんだよね。
では次回「ミライク、大地に立たせる」をお楽しみに!!