夜のスピーチロック
一.
飾り気のない白のカーテンの隙間が少しだけ空いていて、ベッドの上に横たわった僕を照柿色の空が覗いている。そこからはコの字型に設立された病院の、向いの病棟しか見えていないはずなのに子どもの声や近付いて遠ざかる車の排気音がいやに大きく聞こえてきて耳ざわりだった。道路を挟んだ向かいには広い公園がある。床頭台に置いたスマートフォンを手に取り電源を点けると、今が八月のアタマである事と昼前である事がわかった。そうか。もう八月なのか。ひとりで子どもの声が聞こえている事に納得する。それと同時にそんな事も忘れてしまっていた自分が滑稽でひどく笑えた。こんな時に煙草でも喫めれば自身を慰める事も出来るのだが生憎それも叶わないので、仕方なく売店で購入した安物のミルクキャンディーで誤魔化した。これが“入院”というものか。嗜好品にも手が出せない。一日の大半を使って暇を潰すしかない。少し前の生活からは考えもつかなかった。やはり働きすぎだったのかもしれないなと。自分を戒める事に大半の時間を費やし。たかが過労で倒れた自分の体調管理の甘さを呪った。病室にはベッドが四つある。にも拘らず、使用しているのは一つのみ。つまり病室には僕だけしかいない。それが退屈に拍車をかけている。のびのび過ごせると言った看護婦の言葉が今では皮肉のように思えた。枕元に投げ出していたスマートフォンを再び手に取る。適当なウェブページを点ける。それにも飽きて、ふと窓の外に視線を向けると向かいの病棟の窓から手を振っている人影が見えた。僕がいる病室よりも二つ高い階層に位置し、部屋の奥は薄暗い。顔はよく見えないが、髪の毛が長い事から女子であることが伺えた。彼女もヒマなのだろうか。最近、退屈に耐えかねて外を見ると僕に気づいて手を振ってくれている。それに気がついて手を振り返すと、その娘は奥に引っ込んでしまう。もしかしたら、遊ばれているのかもしれない。ただ、たったそれだけの関係なのだが、その奇妙な繋がりは入院生活の心細さをほんの少し取り除いてくれた。今日も部屋の奥に消えてしまった女子を見送って、昼食の前にトイレに行っておこうと思いベッドから起き上がる。
部屋を出ると昼間なのに廊下は薄暗い。節電という名の世の中のいじましさを如実に表しているようだった。
すれ違う看護婦に軽く会釈を返してトイレに入る。白地のタイルの壁面に小便器が四つ、その背後には個室が二つあるありふれた構造だ。僕はその中の一番奥の小便器に立つ。これは特に意味のある位置ではなく、ただ昔から奥の小便器を使うのが好きなだけだ。履いているジャージをパンツごと下げて真っ白な陶器に向けて尿意を放つ。その間くすんだ水洗ボタンをジッと見つめた。用を足し、またジャージを上げて水洗ボタンを強めに押す。水の流れる音を聞いて洗面台で手を洗う。背後を見渡せる程の大きな鏡の前に立ち、緑の液体石鹸を手に取って、しっかりと泡立てる。そしてヌルヌルした感触が無くなるまで水で洗い流した。
洗い終えて視線を手から鏡に戻す。すると、僕の背後、さっきまでは誰もいなかったはずなのに、人が立っているのが鏡越しに見えた。
ギリギリギリ。
人が入ってくる気配などしなかったのに。それに、ただ人がいるだけならば何も思わない。気付かなかった、ぐらいの認識でそのまま出るだろう。けれど、その背後に立っている人物……背格好こそ少女のようだが、何か明らかに違う。病院ではまず見かけない、まっ白い着物。顔も白いハンカチのような布で覆われている為、判別できない。そして、同時に聞こえてくる耳障りな音。とにかくその人物を取り巻く全体の雰囲気が“異常”に見えた。
声を上げるのも忘れて、僕は鏡越しにその人物を見る。魅入られる。その少女と思わしき人物は、こちらに向けてゆっくり左腕を上げ始めた。そして、人差し指をまっすぐ伸ばし、まるで指名するように鏡越しに僕を指差した。
■ ■ ■
何かと見間違えたんじゃないですか?とは、担当してくれている若い看護婦の弁だ。
昼食後。僕は先日あったトイレでの奇妙な少女の話をするも、まともに取り合ってはくれなかった。それどころか、少し憐れむように看護婦の態度が少し優しくなったように感じたのがなんとも煮え切らない。信じてくれるとは……まぁ思っていないが頭のおかしい人間に見えるのも本意ではない。
そうかもしません。
僕は適当に返してその場はお茶を濁した。どのみち証明する事が出来なければ嘘を言っているのと一緒だ。
床頭台の上で整理されずに置かれたキャンディーを一つ取り口の中に入れる。口内に甘味が広がり、脳に糖分が行き渡る……気がする。確証はないが。
窓の外に目を向けると、また例の部屋から手を振っている人影が見えたので、振り返したら奥に引っ込んでしまった。どんな子なのかは知らないが、いつか看護婦に聞いて会いに行ければと思う。
スマートフォンを取り、ベッドから起き上がる。ともかく証明できれば。本当に人がいたか、見間違いだったのかを。
……先日。あの少女と会った後、僕は怖くなり逃げ出してしまった。後ろも振り向かずに。だから、あの少女がどうなったのかも知らない。その後、夜にもう一度行ってみたが、中には当然誰もいなかった。見間違い……そう言われれば強くは否定出来なかった。心霊現象というのは、大抵は見間違いの産物だと聞いた事がある。例えば、逆三角形の形に点があるだけでも顔と認識してしまうのだと。そういう類を“ナントカ現象”というらしいのだけど失念したので割愛しておく。
サンダルの音を響かせてトイレに向かう。途中、すれ違った看護婦にあまり動き回らないようにと注意されてしまった。
先日と変わらぬ白地の壁面を指で伝い、電気を点ける。気のせいか、少し寒いような気がした。室内には誰もいないようだが、念の為個室をノックしてみるが、やはり誰もいないようだ。次いで、隣の個室を同じように叩いてみたがやはり人がいる気配はない。少し緊張しつつ、奥の小便器に立って、いつもと同じようにパンツごとズボンを下ろし真っ白な陶器に向けて尿意を放つ。それを少しの緊張感と一緒に流して洗面台の前に立つと先日と同じ人物が鏡越しに立っていた。
思わず、息が止まる。
白い着物に白い布で顔を覆い、痩せ細った青白い人差し指を伸ばしている。そしてまた、ギリギリと耳障りな音が聞こえてきた。
何か伝えたい事があるのだろうか。こういう状況で無ければ、或いは、そういった考え方もできたかもしれない。そのまま逃げ出したい衝動に駆られながらもジャージのポケットからスマートフォンを取り出す。カメラアプリを起動して鏡越しにシャッターを切ると、そのまま振り返らずにトイレから出た。勢いよく出たもので、たまたま前を歩いていた看護婦に驚かれてしまったが、人がいるという安心感を得て、今しがた撮ったばかりの写真を見せてみた。
……ところが、確かに撮ったはずなのにトイレの写真には鏡越しの個室が映っているだけで、その他には何も映っていない。焦る僕を余所に呆れた顔の看護婦は早々と仕事に戻って行った。僕はその場に留まり、トイレの中とカメラロールを見比べて、ただただ茫然とするしかなかった。
二.
例えば女性なら長い髪に白い服、男性なら黒い服。そういう幽霊が多いのは、人間の無意識下に於ける恐怖心によるものらしい。
昔、幽霊を見たと友人が言っていた。
付け加えておくが、その友人は視力の良い方だ。にも関わらず、どんな顔だったのか聞いたところ、よく覚えていないときた。これは持論だが、白と黒は得体が知れない。赤系統なら暖色、青系統なら寒色と分けているのに白と黒だけはその限りではない。だから"恐怖”という感情が生まれる。嘘のようにハッキリとしていて“得体が知れない”からだ。つまり言いたいのは世間でいうところの“幽霊”とはつまり“恐怖”だ。これを言うと僕はロマンの無い人間だと思われがちだが、かと言ってその存在を全く信じていないほど現実主義者でもない。そもそも“幽霊”といった類のスピリチュアルな存在がいると仮定した場合、大抵の人は“肉体”と“霊体”が個別に宛がわれているものだと考えるだろう。そして人は肉体を失った時に初めて霊体のみとなり、それが行き場を失い、或いは強い思念を残してこの世界に留まる。それが僕らがいうところの“幽霊”に繋がる。その考え方に相違はないのだけど、僕は“霊体”というものは集合体が存在していると思っている。俗的な言い方をするならば“統合思念体”といえば良いだろうか。“肉体”を失った時“霊体”はその思念体の元へ還る。そしてまた新たな“肉体”へ個々に分け与えられる。詰まる所、人の霊体=魂は元々一つなのだと考えている。
■ ■ ■
圧倒的に塩味の足りないおかずと軟い白米を奥歯ですり潰して白湯のような吸い物で押し流す。申し訳程度に添えられたフルーツで後味を整えて今日の夕食は終了した。
配膳を回収に来た看護婦にまた先日の事を話してみたが、まるで相手にされなかった。床頭台の上から飴玉を二つ取り、一服代りに口に放る。納得できない腹いせにそれを奥歯でがりがりと噛み砕いた。そのまま消灯時間までスマートフォンをいじり倒し、看護婦の巡回の後室内灯が落ちる。暗闇で目を瞑り眠気がくるのを待ったが、一向に睡魔は訪れない。やはり昼間眠ってしまったのが仇となってしまったのか。何度か寝返りをうつ。ソーラー式のモバイルバッテリーに繋いでおいたスマートフォンを再び手に取り、しばらくいじって元に戻す。それからまた数度寝返りをうった。
ギリギリギリ。
その時、隣から音が背中越しに聞こえた気がして心臓が跳ね上がる。
そんなはずはない。隣には誰もいないはずなのに。
自分の呼吸が、一際大きく聞こえる。やがてこちらへ近づいているように聞こえはじめそれに併せてゆっくりと振り返る。……が、そこにはやはり誰もいなかった。吐息とともに安堵を漏らす。そして床に視線を落とすと、リブレールのカーテンの隙間から影のようなものがこちらに向かって伸びてきている。よく見ればそれは髪の毛だ。髪が這うようにこちらへと迫ってきている。
慌ててむこうを向く。ベッドの上で横向きになると、ぎしりと音が鳴った。その際、窓の向こうに夜の世界を見た。昼間とは違い、明かりのない部屋の窓が並ぶ向かいの病棟から、いつもと変わらぬ部屋で女の子が手を振っている。向かいの病棟から。消灯も過ぎた時間に。そして手を振ったまま窓の下を覗くように体を折り、そのまま窓から吸い込まれるように地面へ落ちた。
慌てて、ナースコールを押す。迷惑だと知りながら何度も何度も。看護婦はすぐさまやってきて、僕の話を聞くがあまりに荒唐無稽で話が通じないとみるや看護士を呼んだ。四肢を押さえつけられた。鋭い痛みが左腕に走り意識が鈍くなる。強制的に意識を落とされる間際、看護婦達が話している声が聞こえた。
あの部屋に人がいるのはおかしい、と。
あの部屋は確か今は倉庫だったはずだと。
三.
翌日の昼間には目が覚めた。鈍く痛む頭を抱えて、ナースステーションに謝りに行くと、看護婦達は気にしていないようだったが、おかげで行動は制限されてしまった。ならばと、もののついでとばかりに向かいの病棟の、例の部屋に行かせてほしいと頼んだら、快くとはいかないまでも承諾してくれた。看護士の付き添いのもとでだったが。
渡り廊下を通り、階段を上るとあの部屋にはすぐ着いた。看護士に部屋を開けてもらい、促されるまま部屋を覗くと、そこにはやはり人などおらず、棚が数列立ち並んだ薄暗い倉庫のようだった。表の室名札には“カルテ室”と書かれている。
ここは今、過去のカルテの資料室になってるんですよ。
付き添いの看護士に言われ、腑に落ちないながらも一先ず納得するしかなかった。何か、上手くは言えないが、起きているのに夢の中にいるような気分だ。
元々は、病室みたいだったみたいですけど。“破傷風”は知っていますか? それに罹った患者は光にあたるのが良くないので、そういう患者の隔離部屋だったそうです。
看護士がそう付け加えるまでは。
室内に入り、そのまま窓際まで近づく。向かいの病棟の僕の部屋が見えた。確かにここから手を振っていたはずだ。ここから、あの子が……。そして昨日の夜、この窓から飛び降りていた。窓の下を覗く。そこには整えられた植木が並んでいた。それ以外には誰も……。
ふいに左肩に手が置かれて、体が強張る。付き添いの看護士が驚かせてしまった事に短く謝って、そろそろ部屋に戻るよう提案した。
それに大人しく従う。
再び渡り廊下に戻る。その途中で看護士に伝えてトイレに立ち寄った。けれど、小便器には向かわず手洗い場の、鏡の前に立つ。
ギリギリと、音が聞こえていた。さっき、窓際に立って僕の部屋を覗いた時からずっとだ。耳が痛くなるほど、耳のすぐそばで音が鳴っている。
鏡を見る。あの子が立っている。上半身が無い。背中の方に折れ曲がっている。ギリギリと音が鳴っている。歯が、噛み合わさっている。振り返る。
ぐにゃぐにゃと視界が曲がって、辺りが暗くなった。
■ ■ ■
夜が訪れたみたいに、暗くなった廊下を走った。月明かりもない。ナースステーションには誰もいない。どの病室を覗いても誰も寝ていない。さっきまで昼間だったのに、誰もいない。それがたまらないほど恐怖になった。
階段を降りていく。目に映った部屋を全てノックしていくが反応はない。耐えがたい孤独感が心を襲った。そこに、ドアの隙間から明かりの漏れた部屋を見つける。
誰かがいるのだろうか。札には“給湯室”と書かれている。漏れた明かりと一緒に中からはトントン、と小気味の良い音が聞こえていた。思わずドアを叩いてみたが、返事はない。取っ手を回して中に入ると、こちらに背を向けている看護婦の背中が見える。何かを料理しているみたいで昔見た母親の姿がダブって見えた。
近づいてみる。包丁を持っている姿が見えた。その包丁で、自分の左手を切り落としていた。おびただしい量の血が散乱し、輪切りにされた左手が指先から甲にかけてまな板に乗っている。断面は血に染まりそこから皮膚の層に包まれたブツブツに切れたピンクの筋肉組織、そして白い骨が見えていた。甲からは切りにくいみたいで、包丁を押し当てて、ゴリゴリと上下に動かしても中々骨まで切れず、何度か力を込めてようやく音が聞こえた。今や肉塊と化した、血が滴るそれを包丁で器用に掬い、フライパンへ放り込む。油を敷いて熱していたらしく、フライパンは音をたてて弾けた。部屋に匂いが立ち込める。率直に言えば、焼肉のような匂いに思えた。ただし、少し鉄臭い。そして嗅いだ事のない匂いが混じっている。左手を炒めている間、看護婦は次に傍らに置いたモノを取った。籠だ。何か入っているらしくバリバリと音がしている。残った右手を入れて引っぱり出すと中から猫が出てきた。三毛柄の何の変哲もない猫だ。看護婦はその猫を電子レンジに入れて扉を閉める。そして、ダイヤルを回した。中からはしばらく鳴き声が聞こえたが、一際大きな鳴き声が聞こえた後静かになった。何事もなかったかのように煙が立つそれを電子レンジから皿に取り出し、同じようにフライパンから皿に移した。右手だけで奥のテーブルに並べて、椅子に座る。失った左手と右手を合わせて“いただきます”をしてから、それを食べ始める。咀嚼音が聞こえ始めて、ようやくその異常な風景に気づき、金縛りのようになった体を無理やり動かしたが、足に力が入らず尻もちをつく。腕の力だけで廊下に出ると、這いだすようにその部屋を後にした。
焼いた肉の匂いがまだ鼻腔にこびりついているようだ。階段を上り、来た道を戻って部屋に戻る。だが、病室に近づくと、またあのギリギリという音が聞こえだした。
歩みを止める。恐る恐る部屋を覗いたが、誰もいなかった。緊張していた肩の力が抜ける。これは悪い夢を見ているのだろうと。一度寝て、起きたら朝で。またあのマズイ朝食の時間がやってくる。そう思う事にしてベッドに戻ろうとカーテンを開けた。
ギリギリギリ、と。
また耳障りな音が聞こえた。
了.