役所
役所には、地上から入った。
地位の高いヒトは上の方の階に専用の入り口があるらしいが、一般市民は一階の受付から入るそうだ。
役所に足を踏み入れると、私は思わず感嘆の声をあげた。
「わぁ……」
小さな声だったはずだけれど思ったよりも響いたのか、周りの視線が集まってしまった。
あわてて口をつぐむが、周囲をきょろきょろするのはやめられなない。
広い。
とにかく広い。
目の前には大きなホールと大階段。
左右の廊下はかなり遠くまで続き、突き当たりは見えない。吹き抜けの天井の高さは霧より高いのだろう。天窓からは明るい陽の光が降りてきていた。
担当の課毎に分かれているのか、廊下には等間隔に色の違う扉が並ぶ。
行き交うヒトは、当たり前だが皆、シルヴィオさんのように大きな耳と長い首だ。そして皆が帽子を被っていることに気づいた。色や形は様々だが、被っていないヒトはいない。
私だけが異質なことを思い出して、少し気後れしてしまう。
「リンカ、こっちです」
そう言って、シルヴィオさんが左側の廊下へと足を進める。
耳をたてて、何かの音を聴いているようだったが、黄色の扉の前で足を止めた。
「魔法設備課は……ここですね」
頷いて扉を開くと、私を中へと促した。
手前に待合室、奥にカウンターがある。その向こうには沢山のヒトが働いていた。
シルヴィオさんはカウンターに近づくと、小さな箱についている金属製のカードのようなものに触れる。カードが淡い緑色に光ってすぐ消えた。
「これで、順番がきたら呼ばれます。向こうで座って待ちましょう」
ヒトはそこそこいるが、ベンチに空きはまだあった。シルヴィオさんは私を座らせてから、隣に腰かける。
多くのヒトが行き交う中、視線を感じると言うこともなかったが、どうにも居心地が悪い。
皆とは違う自分の容姿を何となく意識してしまう。
「落ち着きませんか?大丈夫ですよ。きっとなんとかなります」
「はい、大丈夫です。……少し緊張しているだけで」
まだ落ち着かない私に、シルヴィオさんが首を傾げる。
気を遣わせても申し訳ないから、私は正直に言うことにする。
「さすがにヒトの多いところだと、目立つのではないかと思って……」
両手で耳を隠すようにすると、シルヴィオさんが不思議そうな顔をした。
「皆、見た目くらいそんなに気にしないと思いますよ」
確かに、シルヴィオさんに初めて会ったときも、間近で話していたのに、私の耳や首に気付くまでに時間がかかっていた。
この世界のヒトは、基本的に音で物事を判断するらしいことはわかる。大丈夫だと思っているが、理屈ではなく落ち着かない。
―――誰かに何か言われたわけでもないのに……情けない。
つい、小さな溜め息を落としてしまった。
すると、ポンと頭に柔らかな何かを被せられた。
「気になるようでしたら、どうぞ」
見れば、シルヴィオさんの頭に帽子がない。笑うシルヴィオさんの耳が、ちょっとへにょんとしているように見えた。
帽子に触るとフェルトのような柔らい布でできていて、かぶり心地がとてもよい。防虫剤代わりなのか、少しハーブの香りがした。
帽子をかぶっただけなのに、温かくて、安心感があって、周囲の目が気にならなくなる。
「あ、僕の被っていた物では、失礼でしたか?」
被せてたから気づいたようで、ちゃんと洗ってありますよと慌てるシルヴィオさんに、心までがほっと温かくなる。
「ありがとうございます。お借りします」
私は耳を包むように、帽子を深くかぶりなおす。
シルヴィオさんの話だと、この街では繊細な耳を寒さや霧から守るために帽子は必須だったそうだ。自転車が普及した今は、冬はともかく夏は単にフアッションやマナーといった意味で身に付けているヒトも多いらしい。
「家を出るときにお貸しすれば良かったですね」
その時だと、帽子を被るのがそんなに好きではない私が借りたかどうかは疑問だ。……って思ったことは、胸の中にしまっておいた。
日本の役所のことを考えると、もっと待たされるかと思ったが、意外に早く呼ばれた。
カウンターでシルヴィオさんがざっと話をする。受け付けたのは、まだ20代くらいの若い男性で、私とシルヴィオさんを胡散臭そうに見比べた。
―――まあ、話だけで信じてほしいという方が無理だよね。
「シルヴィオさんの言っていることは本当です。私は、異世界から来ました」
帽子を外して、耳を見せる。
異世界から来たなんて自分で言っても説得力が無いと思うけれど、帽子を外したかいはあったようだ。
驚いた男性は、ちょっと狼狽えた様子でカウンターの中へ戻っていった。
奥で年配の男性に何か報告していたが、しばらくして応接間のような部屋に案内された。
簡素なテーブルと椅子。さっき報告を受けていた男性が座っていたが、私たちを見て、立ち上がる。
白いものが混じり始めた焦げ茶の髪に、茶色のスーツ姿。リボンタイがおしゃれだけど、典型的な事務員さんという雰囲気だった。
「魔法設備課のセルジョ ロッセリーニです」
私に差し出された手には、二つの指輪があった。いかにも事務員さんという雰囲気には合わない気がして、少々驚きながらも握り返す。
「橋本 凛歌です」
「アシモト……?」
初対面のシルヴィオさんの時のように、やはり難しそうな顔をされてしまった。
「どうぞ、リンカとお呼びください」
私がそう言うと、納得したように頷いて、よろしくと言ってくれた。
シルヴィオさんに向き直ると、手を差し出す。
「シルヴィオ エル ロットです」
シルヴィオさんも名乗ると、セルジョさんに席を勧められる。
私が最初に座ると、他の二人も座る。なんと、女性が座ってからじゃないと男性は座らないらしい。
―――ここの過剰なレディファーストは、シルヴィオさんが特別というわけじゃなかったのか……。
この世界にいる限り、今後もこのレディファーストは続くらしい。
これだけは慣れる気がしなくて、ちょっと滅入った気分でいると、さっきの受付の男性がお茶を運んできてくれた。当然のように、私からお茶を置いていく。
男性が退室するのを確かめ、セルジョさんが話を促した。
「この部屋には防音措置が施されている。安心して話してほしい」
簡単な前置きだけで、セルジョさんが組んだ手に顎をのせると、雰囲気が一変した。二つの指輪のブラウンの石が光った気がして、部屋の空気が一気に緊張する。
「赤い魔女が現れたというのは、本当かね?」
シルヴィオさんが頷き、昨夜の出来事を詳細に説明した。
セルジョさんは黙って頷きながら聴いていたけれど、全て聴き終えると
「……証拠はあるのかね?その猫の声を録音したとか」
セルジョさんの声も表情も穏やかだけれど、その大きな耳はしっかりとシルヴィオさんに向けられている。けれど、シルヴィオさんは動揺した様子もなく、落ち着いた口調で答えた。
「それはありません。ですが、リンカさんは間違いなく異世界から来ています。禁呪である異世界転移を使い、他人も連れて戻ってくるようなことを、赤い魔女以外、他の誰ができるでしょうか」
「彼女が異世界から来た証拠は?」
今度は視線と耳が私に向けられる。
少し緊張しつつ、私はまた帽子を外した。
「この耳と、首と……それからこれを」
鞄からペンを取り出し、セルジョさんに渡す。
プラスチック製で、合成ゴムの滑り止めがついているごく普通のペンだ。
けれど、この世界に来てから、今のところプラスチック製品を見たことがない。ひょっとしたら、石油製品はこちらにはない……もしくはとても珍しいものなのかもしれないとあたりをつけていた。
「これは?」
「ペンです。が、素材はこちらでは珍しいものではないでしょうか?」
案の定、セルジョさんはペンを手に取ると唸り始めた。
「確かに見たことのない材質だ。その姿といい、リンカ君が異世界から来た可能性があるということは認めよう」
信じてもらえた……と言うわけでは無いようだった。セルジョさんの表情はまだ疑わしげだ。
「だが、それが赤い魔女の仕業というのは、どうにも根拠が薄い。シルヴィオ君が声を聞いたというだけ。他に赤い魔女が現れたという報告もない」
確かに、記憶を辿ってみても、あの猫が赤い魔女と判断したのはシルヴィオさん。猫はそれを肯定しただけ。
相対したときの恐怖感と威圧感もあって、今まであの猫は赤い魔女だと思いこんでいた。けれど、その根拠はそれだけしかないということに、愕然とする。
「三百年だぞ。赤い魔女が処刑されてから三百年も経って、猫の姿で現れるなど信じ難い。百歩譲ってそうだとしても、一体何のために現れたと言うのかね」
赤い魔女のことは全く信じていない様子のセルジョさんを、シルヴィオさんは静かに見つめる。
あの猫が赤い魔女だと、どうしてか全く疑っていないようだった。
「約束が守られているか、確かめに来たと言っていました」
「約束?」
セルジョさんの耳がピクリと動くが、シルヴィオさんは首を横にふる。
「そこまでは、わかりません。ただ……」
シルヴィオさんがいい淀む。
考えを整理しているのか、耳がピンと張りつめたまま、下を向いている。
「彼女は今、指輪を探していると思います」
セルジョさんはその言葉に、大きく頷く。
「……確かに、もしも赤い魔女が戻ってきているとしても、指輪がなければ大したことはできまい」
「指輪無しで、異世界転移をしたのです。油断すべきではないと思いますが」
―――ちょっと話についていけない。
これ以上黙っていると、延々と話に置いていかれてしまいそうなので、申し訳ないが言葉を挟む。
「あの……指輪って言うのは?」
遠慮がちな私の言葉に、シルヴィオさんは気を悪くした風もなく、自分の右手を示す。そこには、緑の石がついた指輪が一つ、光っていた。
以前、私に翻訳の魔法をかけてくれた時にも光っていたことを思い出す。
「僕たちがしている、これです。魔法を使う時に補助をしてくれます」
無くても単純な魔法なら使えないことはないのですが、出来ることは限られてきますね。と、シルヴィオさんの説明に頷く私。
その横で、セルジョさんが驚愕の声を上げた。
「指輪も知らないとは……まさか魔法を使えないということか?」
「はい、使えません」
産まれてこの方、一度も使ったことはない。私にしてみれば、使えない方が当たり前だった。
私があんまりきっぱり言ってしまったからだろうか、セルジョさんが言葉を失ってしまう。
対して、シルヴィオさんは大して気にもせずに言った。
「恐らく、リンカは魔力も持っていないのではありませんか?」
「試してみよう。これに指を当ててみてもらえるかな」
セルジョさんは気を取り直して、木製のカードを私に差し出す。
何だろうと思いつつ、私は指示された通りに指を当てる。だが、木のカードは木のまま。なにも起こらない。
「まさか、魔力の反応が全くないとは……」
セルジョさんが、信じられないといった顔でカードを見つめた。そして、私を見る顔には、どこか恐怖のようなものが浮かんでいた。
「本当に、異世界から来たのだな」
実感のこもった言葉に、苦笑するしかない。
セルジョさんには、私が化け物のように見えているのかもしれなかった。
―――私が最初、ここのヒトたちを化け物だと思ったように。
そんな私の暗い想いを知ってか知らずか、シルヴィオさんはセルジョさんにもう一度お願いしてくれた。
「どうか彼女が元の世界に戻るために、便宜を図っていただきたいのです。そして、赤い魔女の指輪についても、警備の強化を」
「まて、リンカ君の件だけでも、私の裁量を越えている」
セルジョさんが、先程の木製のカードを今度はシルヴィオさんに差し出した。シルヴィオさんが指を押し付けると、淡く緑に光ってすぐ消えた。
「上に話が通れば、連絡する。これは預かっても?」
ペンを示すセルジョさんに頷き、私たちは一度、役所を出ることにした。
私とシルヴィオさんが役所を出たのは、お昼前のことだった。
最高機関の魔法使いに会えるなら、連絡がもらえるはずだ。いつになるかわからないので、お昼にすることにした。
……またシルヴィオさんのおごりになってしまう。歌の指導をしてもらうことといい、本当に何か返さないと申し訳なさすぎる。
とはいえ、私にできることなんて、さっぱり思い付かない。もう、ため息しかでなかった。
役所から出ると、そこは霧の中だった。
入る前は目の前にある役所に入るだけだったから、そんなに気にしていなかったけれど、予想以上に視界が真っ白だ。通りの向こうにあるはずの建物が、ほとんど見えない。
ひんやりとした霧は雲の中を歩いているようで、意外にもサラサラとしていた。夏だというのに、半袖だと少し肌寒く感じるほどだ。確かにこれは、帽子が欲しくなる。
「あ、シルヴィオさん。帽子、ありがとうございました。お返しします」
そういえば、シルヴィオさんから帽子を借りたままだった。あんまり馴染むので忘れていた。
でもそろそろ返さないと、シルヴィオさんの耳を霧から保護するものがない。作曲家の耳だ。大切にしないと。
「いいんですよ。そのまま被っていてください」
「でも、それじゃあシルヴィオさんの耳が冷たくなってしまいませんか?」
「僕に返してしまったら、君の耳が冷たくなってしまいますよ」
笑って言うシルヴィオさんに、それでも返そうとすると、今度は悲しそうな顔をされた。耳がへにょんと垂れている。
―――……うっ。なんだか、ものすごく罪悪感が。
「……お、お借りします」
私が諦めて帽子を被りなおした途端、シルヴィオさんがにっこり笑う。
どうしてだろう、なんか騙されたような気がする。
こんな濃い霧の中では、歩いているヒトなんて滅多にいないか……と思いきや、すれ違うヒトは結構いる。
「霧が珍しいですか?」
「はい、視界が霧で真っ白って言うのはあまり経験がなくて」
「この霧は街を守っているんです。いつもあるので、この中が落ち着くとか、安心するという人の方が多いんですよ」
霧の中の方が落ち着く……か。
確かに、霧の中は思ったよりも心地よい。守られている感じがするのはわかる気がする。
シルヴィオさんは辺りを見回しながら、また耳をそばたてる。確かに何か聞いているようなのだが、私には雑踏くらいしか聞こえない。
「お腹も空いてきましたし、何か食べたいものはありますか?」
「こちらの食べ物を知らないので……何か軽いものでおすすめはありませんか」
シルヴィオさんは少し考えていたが、すぐに通りの向こうを指差した。
「じゃあ、ガレットにしましょうか。確か向こうにおいしいガレットのお店があったはずです」
ガレット。そば粉のクレープのことだ。元の世界では。
果たして、またとんでも翻訳なのか、元の世界と同じようなものが出てくるのか、ちょっと楽しみだった。
シルヴィオさんと並んで歩いていると、なんの前触れもなく、ズシッと肩に重みがかかる。
「うわっ!」
たまらず、たたらを踏む。
地面を見下ろす視界の端に、ゆらりと揺れる白い尻尾。
驚いて肩を見れば、他人を見下す金色の瞳と目があった。
長い尻尾をゆらりとさせて、器用に肩に乗っている。太っているわけではないが、成猫だ。かなり重い。
ニヤリと笑う猫に、昨夜の恐怖を思い出す。
「赤い魔女!?」
思ったより話が進まなかったので、明日、もう1話更新します