私の常識、シルヴィオの常識
猫が一方的に言い放って姿を消したあとには、沈黙が落ちた。
まるで嵐のようにたくさんの情報。状況。感情。
それらがごちゃ混ぜになって、そこら中に散らばっていた。
先程の猫を、シルヴィオさんは赤い魔女と呼んでいた。前に処刑されたと。猫も、死んだけれど戻ってきたと言っていた。
では、この世界で処刑された魔女が、私のいた世界で猫として生まれ変わったとでも言うのだろうか。そして、この世界に戻ってきた?私を嫌がらせで巻き込んで?
荒唐無稽過ぎて現実感が全くない。
それに、私が帰るためには、あの猫の眷属にならないといけないということ?
眷属というのがどういったものなのかわからないけれど、良い感じの言葉ではない。
本当に、気が遠くなりそうだ。滅茶苦茶になってしまった私の常識とか、日常とか、当たり前を一体誰が補償してくれるというのか。
肩のバックのベルトを握りしめる。安物の、大して愛着があるわけでもなかったショルダーバックが、今となっては、とても大切なもののように思えた。
「いつか戻ってくる……なんて、単なる都市伝説だと思っていたんですけどね」
独りごちる声がして、私の意識が目の前にいるシルヴィオさんに戻る。
猫が消えた方を見上げていた彼は、困ったように私を見た。
「君は、あの赤い魔女とどういう関係なんです?」
「関係なんてありません。気づいたらここに連れてこられていただけです」
とんでもないと首をぶんぶん振る私に、シルヴィオさんはさらに困ったように首を傾けた。
「連れてこられた?一体どちらから」
「日本からです」
「ニホン?」
どう言えばいいのか……私もまだ、事態を完全に把握できているわけではない。
私は、自分の耳を指さす。
「私のいたところでは、耳はこのくらいの大きさが普通でした。首の長さもそうです。私はシルヴィオさんのように大きな耳と長い首の民族を聞いたことがありません」
「確かに、僕も色々な国からの観光客に会ったけれど、君のような小さな耳のヒトはいませんでしたね」
「私は……私がいた世界とは違う世界に来てしまったのではないかと思っています」
改めて口にすることには、躊躇いがあった。
あまりにも馬鹿馬鹿しいと思う私の常識と、そんなわけがないと言われるのを恐れる気持ちと。
けれど、シルヴィオさんは否定しなかった。同意して、先を促してくれた。
私は、先程の猫と出会ったところから、カーニバルや路地裏を走って逃げたことを話す。
話を聞き終わったシルヴィオさんが、呻くように呟いて、眉を寄せた。
「異世界転移……しかも嫌がらせで、ですか」
私が頷くと、シルヴィオさんが難しい顔で腕を組んだ。
「異世界転移は禁呪なんです。確かに赤い魔女なら可能かもしれませんが、指輪も持たずに一体どうやって」
先程、シルヴィオさんが私に魔法をかけてくれた時も、指輪が光っていた。推測だけれど、この世界では指輪がいわゆる『魔法の杖』のような役割をしているのかもしれない。
とはいえ、私が今知りたいのはそこではない。考え込むシルヴィオさんに尋ねてみた。
「私には魔法のことはわかりません。シルヴィオさん、他にその異世界転移を使える人はいないのでしょうか?その人にお願いして、私を帰してもらうことは…」
「国の最高機関の中になら、もしかしたら使える魔法使いがいるかもしれません。でも、使用を禁じられている魔法を、君のために使ってくれるかどうか……」
「それじゃあ、私が帰るには、やはりさっきの猫に頼むしかないのですね」
力なく俯く私に、シルヴィオさんが首をふる。
「それはやめておいた方がいいですよ。さっき赤い魔女に尋ねられたとき、帰りたいと言わなかったのは英断でした」
私が顔を上げると、シルヴィオさんは真剣な顔で忠告してくれた。
「赤い魔女は君の名前を知りました。下手をすると帰りたいと言うだけで、契約となって眷属としていいように使われてしまうかもしれません」
一気に冷水をかけられた気分になる。
名前を知られたのは、私だけではない。
「シルヴィオさんだって、名前を知られてしまったじゃありませんか!?」
「僕は赤い魔女と契約するだけの望みがありませんから。リンカには元の世界へ帰るという望みがありますし、赤い魔女はどうしてか君を眷属にしたがっているようです」
「……もし、眷属にされてしまったらどうなるんですか?」
「眷属とは『魔法使いと契約して主従関係を結んだもの』ですね。主人の命令に従い、主人を守ります。契約解除まで。」
八方塞がりって言うのは、こういうことなのか。
本当に目眩がしてきて、ふらついた私を、シルヴィオさんが手をとって支えてくれた。
申し訳ないと思ったが、立ち直れない。あまりにも色々なことが起きて、体力的にも精神的にも正直そろそろ限界だった。
シルヴィオさんは私を支えながら、しばらく何かを考えていたが、躊躇いながらも私に言った。
「その……リンカ。僕の家にきますか?」
驚いて顔を上げる。
急に顔を上げたせいで、また視界がくらりとした。慌てて支え直してくれたシルヴィオさんは、心配そうに続けた。
「随分と疲れているみたいですし、夜も更けました。今日は家で休んで、明日は役所に相談に行きましょう。狭い家ですが、外にいるよりは休めますよ」
ありがたい申し出だった。
正直、何も考えずに、その手にすがりたかった。
けれど、私は首を横にふる。
「ここにたどり着いたのは偶然です。シルヴィオさんに会ったのも」
シルヴィオさんは、言葉をわかるようにしてくれた。見ず知らずの私を背にかばってくれた。彼も恐ろしかったはずだ。あの時、肩が震えていたのを覚えている。
「見ず知らずの私にこんなに良くして頂いたのに、こんなことに巻き込んでしまって、申し訳ありません」
頭を下げる私に、シルヴィオさんは少し気を悪くしたような、心外といった表情をした。
「困っている人を見て、放っておけるわけがないでしょう」
当たり前のように言われて、驚く。もちろん、理想はそうかもしれないが、なかなか実行できることではない。
私が驚いたことがかえって侮辱した様に見えたらしい。今度はシルヴィオさんの言葉に明確な怒りが滲んだ。
「ましてや、君は女性です。見捨てるなんてとんでもない。そういうことのできる人間だと思われているなら、心外です」
今まで私は、守る対象という意味で女性扱いされたことなどない。それで怒られるなんて経験も当然なく……有難いというより、どう反応すればいいのか、わからない。
「ごめんなさい、そんなつもりではなくて……」
ああ、謝ったら逆に失礼だ。
言ってから気が付いて、私は言葉を探す。
「あの猫……赤い魔女がまた何かの気まぐれで来るかもしれません。私と出会ったせいで、シルヴィオさんの名も知られてしまいました。これ以上、偶然出会っただけのあなたを巻き込んで、迷惑をかけるわけにはいきません」
私は、足を叱咤してちゃんと立つ。少しふらつきそうになったが、根性で堪えた。
あの猫も怖かったが、私はシルヴィオさんでさえ、心の奥底で怖れている。
これ以上は、頼っては駄目だ。これ以上、迷惑をかけるなんてとんでもない。
その想いだけで、私は笑った。
「大丈夫です」
その途端、シルヴィオさんから表情が消えた。
本当に怒っていることが伝わってきて、私は続く言葉を飲み込んだ。
「では、これからどうするつもりですか?この街は治安はいいですが、その分路上で寝るようなことをすれば犯罪になります。自立するのは良いことですが、誰の手も借りずに生きていくことは、誰にとっても不可能です」
シルヴィオさんが淡々と語る。
怒らせてしまったことが怖くて、かといって、これ以上シルヴィオさんに頼ることも怖かった。私はどうしたらいいかわからず途方にくれる。
そんな私に、本当に理解できないというように、シルヴィオがため息をついた。
「そもそも、迷惑をかけるのが嫌だというのがわかりません」
「え?」
「どうして、困ったときに誰かを頼らないのですか?誰かの手を借りたら、返せば良いではないですか」
その考え方は、私が知らないものだった。
ずっと、他人に迷惑をかけたらいけないと言われて育ってきた。誰かの手を借りずにすむよう、何かあっても自己責任で行動する。
それが当たり前で、大人になったら最低限守らなければならないルールだと思っていた。否定されるなんて思ってもみなかった。
それをあっさりと、誰かの手を借りたら返せばいいと言う。
驚きすぎて、思考回路が停止してしまった。
ぐ~~きゅるる~
―――神様、どうしてここで、お腹がなりますか?
さっきまでの重い雰囲気が一気に消えてなくなる。代わりに落ちた気の抜けたような沈黙に、情けなくて、お腹を抑えた。
ものすごく、恥ずかしい。
顔が熱くなるのが自分でもわかる。
シルヴィオさんも気が削がれたのか、怒りが消えていた。それどころか、気まずそうに目が泳いでいる。
「あ~……お腹が空きましたね」
シルヴィオさんのその優しさが、空いたお腹にしみた。
「面目もありません」
私が謝ると、シルヴィオさんはこらえきれずに笑い出す。一通り笑うと、目の端の涙を拭った。
「今日のところは、僕の家へ来てくれませんか?ここで君を放り出したら、僕の方が気になって眠れなくなります」
そんな泣くほど笑わなくても……と情けなく思いつつ、シルヴィオさんから差し出された手を見る。本当にもう、色々と気が抜けた。
今さら意地を張る気力もなく、私はシルヴィオさんの手をとる。
「私は、何かシルヴィオさんに返せるでしょうか?」
何も考えずにポロリとこぼれた言葉に、シルヴィオさんが笑う。
「では、何か手助けが欲しいときは、お願いしますね」
「いくら返しても返しきれなさそうなので、もうなんでも言ってください」
半分くらい自棄になって言うと、思いの外、楽しげにシルヴィオさんが笑った。
「では、参りましょう」