赤い魔女は歌声に微笑う
「私、向こうの世界に帰ります」
シルヴィオさんの顔が傷ついたように、歪む。僅かに震える手が膝を掴んだ。
まさかそこまで辛そうにされるとは思っていなくて、慌てて私は言葉を続ける。
「私も平日に仕事があるんです。また、来週末お邪魔します」
「…………は?」
シルヴィオさんが、ポカンと口を開けて固まってしまった。
「都合が悪いようでしたら、再来週にしますけど……」
「いえ、そんなことは」
「あの、できれば毎週通わせて欲しいんですが、シルヴィオさんは大丈夫ですか?」
「毎週……ですか?」
シルヴィオさんが目を白黒させている。大きな耳もくりくりと忙しく右へ左へと動いていた。
そんなに無茶な提案だったろうか。約束を守りつつ、なるべくシルヴィオさんに負担をかけないように、私のやりたいことをやろうとするとこうなったんだけど。
シルヴィオさんが答えるよりも先に、カッサンドラの方が不満そうな声を出す。
「ちょっと凛歌、それは無理よ。どちらにしろ指輪は返すことになるわ。そうなれば、そうそうこちらにはこられないわよ」
「うん、だから、今のうちに新しい指輪を作れない?」
カッサンドラならできるんじゃないかと、尋ねてみる。盲点だったようで、顎に手を当てしばし考えこむ。
「…………出来るわ。材料が必要だけど」
いくつか挙げられた金属類、ハーブ、宝石。幸い私の世界でも手に入りそうだ。私も働いていたから、それだけ用意するくらいの貯金はある。
「じゃあ、カッサンドラ。指輪の材料は私が用意するから、私を毎週末にこちらに連れてきてくれない?」
カッサンドラが吹き出した。
いつものヒトを見下した笑いではなく、本当に可笑しそうに、お腹を抱えてからからと笑い出す。
「ほんっとうに、あなたって子は……」
何がそんなにツボに入ったのか、驚くほど笑われて複雑な気分になる。ほめられているようには思えないし。
とはいえ、笑いすぎて座ってる箱から落ちそうになりながらも頷いてはくれたので、カッサンドラの方は大丈夫だろう。
シルヴィオさんの方はと見れば、頭を抱えて唸っていた。……あまりにも、私に都合のよすぎる提案だったろうか。それとも、私じゃ思い付かない問題が?
「あの、毎週は駄目なら、一ヶ月に一回とかでも……」
「いえ……毎週末ですね。歓迎しますよ。もし都合が悪いときは言いますので」
何だかシルヴィオさんの笑顔に力がないけど……耳もへたっとしてるけど……大丈夫、なんだよね?
少々不安にかられる私に、シルヴィオさんが大丈夫ですよと頷いてくれた。良かった。ほっとして、これからよろしくお願いしますと頭を下げる。
僅かな沈黙のあと、大きなため息が聞こえた。
「これだけは、カッサンドラに同意します」
顔を上げると、若草色の瞳と目が合った。月明かりに、深い深い泉のような色が揺らめいている。
「あなたは、本当に思い通りになりませんね」
いつものように、シルヴィオさんが笑う。
その笑顔に、胸がざわめいた。酷く危険なところに足を踏み入れてしまった気がして。
改めて思う。シルヴィオさんは怖いヒトだ。
けれど、たくさん助けてくれて、守ってくれた。これから私の先生にもなる。たくさんの恩があるし、好きか嫌いかで言えば、好きだ。
それでも私はシルヴィオさんをあまりにも知らなさすぎる。
恋というには、まだ遠い。
気づけば、月は天頂まで差し掛かっていた。
シルヴィオさんが、ああ、戻り始めましたねと呟く。
見つめる先に、黒々と大きな門が見えた。そちらから避難していた人々が街に戻ってきているらしい。私にはわからないけど、ざわめきが聞こえてくるそうだ。
カッサンドラは飲んで食べて、随分顔色が良くなった。
今はくつろいだ様子で、門の方を眺めている。月明かりに、金の髪に縁取られた白い横顔が、まるで絵画のように美しかった。
「カッサンドラは、歌わないの?」
ぽろりと口から出た言葉に、二人ともに驚かれる。私には驚かれる方が不思議だった。
「ヒトの姿になったのだって、歌う為じゃなかったの?」
はっとした顔で、シルヴィオさんがカッサンドラを見る。
カッサンドラは無表情で黙っていた。
前に同じようなことを訊いたときは、猫の姿は自分に相応しくないからだと言っていた。でも、飛行機で混乱を起こすのに、ヒトの姿になる必要なんてない。寧ろ、猫の方が小さいし隠れやすい。見つかりにくいはずだ。
「そもそも街に混乱を引き起こしたいなら、飛行機なんて持ち出さなくても、カッサンドラが歌えば一発だったと思うのよね」
シルヴィオさんもそれには頷く。
「知っていますか?赤い魔女が復讐のために戻ってくるという都市伝説まであるんですよ。処刑されたはずのあなたが歌えば、大騒ぎになることはもちろん、最高機関の権威も丸潰れだったことは間違いありません」
そもそもの大前提として、カッサンドラに歌いたい気持ちがなければ、下手な私の歌なんて聞かなかっただろうし、中途半端に歌う私に怒るよりも無視してたんじゃないだろうか。そうなれば、私がここにいることも無かったはずだ。
賭けてもいい。絶対に歌いたいと願っているはずなのに、歌える体を手に入れたのに、なぜ歌わないのかわからない。
カッサンドラは顔を強ばらせたまま、笑みを浮かべた。
「この私にこんなところで無料で歌えと?話にならないわね」
つんと顎を上げるカッサンドラの耳は、下を向いていた。まるで怯えているみたいだと思って、ああと納得した。
「長い間歌ってなかったから、歌うのが怖くなった……とか?」
「そんなわけっ……あるわけないでしょう」
……図星っぽい。
でも、どれだけ実力に差があっても、同じ歌い手だからわかる。歌うのはいつも楽しい。けれど、怖い。
誰かの評価が必ずついてくる。カッサンドラほどの名声を得た歌姫なら、きっとなおさら。何年も歌っていなければ、自分の歌声がどれだけ錆び付いてしまっているかわからない。それを自覚するのは確かに恐ろしいと思う。
「大丈夫よ。経験から言わせてもらえば……下手な歌でも好きに歌えば怖くないわ」
「あなた、怖がりの癖に本当にいい度胸してるわよね」
カッサンドラが私を睨む。
けれど、不思議なほど怖いとは思わなかった。
「好きに歌えばいいじゃない。……聴きたい」
心からそう言って、笑った。
今、歌わなければ。
指輪を返してしまえば、ヒトの姿もとれなくなるのかもしれない。そうすれば、また歌えなくなってしまう。それは、あまりにも哀しい。けどそんなことは、カッサンドラも言われずともわかっているはずだった。
もしかしたら、そんなことは関係なく、単に私がカッサンドラの歌を聴きたいだけなのかもしれない。
多くは言わず、ただ眼差しを向けると、カッサンドラから肩の力が抜けたように見えた。
「私の歌は高いわよ」
そう言って笑うと、カッサンドラが木箱の上に立ち上がった。
夜空を見渡し、胸元に手を当て何か呟くと、大きく息を吸い込む。
そうして歌い始めたカッサンドラの歌声は、確かに最初はブランクを感じさせるものだった。けれど、どんどんと軽やかに、滑らかに、屋外だと言うことをものともせずに響き始める。
私もシルヴィオさんも、ただ圧倒されていた。側にいるだけでビリビリくる。単に声量が豊かなだけでなく、響きが素晴らしいのだ。比喩ではなく、街中に響きそうな歌声。
録音は、どれだけ高音質でもやっぱり録音だった。生で聴くとこれほどすごい……。
舞台も、照明も、伴奏もない。ただの木箱の上で、月光だけが照らし出す中、カッサンドラの歌声は夢のように美しかった。
カッサンドラは楽しげに、ようやく歌えたことを全身で喜ぶように歌う。一曲終われば次の曲を、そしてまた次の曲を。
私も何曲でも、いつまででも聴いていたかったけれど、下から雑音が聞こえてきた。
建物の下にヒトが集まり始めたらしい。
「ここまでです」
一曲終わったタイミングで、シルヴィオさんが待ったをかける。
歌が途切れると、下から熱狂的な拍手と歓声が巻き起こった。アンコールを求める声の中に、赤い魔女の帰還を喜ぶ声も混じっている。
「赤い魔女の歌を甘く見ていましたね。まさかこれほどとは……」
「言ったでしょう、私の歌は高いのよ」
カッサンドラは満足そうに、歓声に耳を傾ける。
でも笑ってる場合ではなさそうだ。下から興奮した人々が上がってくるのも時間の問題だった。しかも、歓声は収まるどころか、どんどん大きくなってきている。
あれだけ興奮したヒト達が上がってきたら…………。
「それじゃ、行くわよ凛歌」
「え?」
カッサンドラに腕をとられ、足下に赤い魔法陣が描かれる。
私達二人だけ。シルヴィオさんは魔法陣の外だ。
まさかこれ、異世界転移の魔法陣!?
「待ってカッサンドラ!シルヴィオさんは?」
「あなた明日は仕事でしょう?後始末は坊やに任せて、そろそろ帰った方がいいわ」
いやそんな、いきなり現実的なこと言われても、ついていけないから!
それに、こんなところにシルヴィオさんだけ置いていったら……これだけの騒動を起こして、後始末だけ任せるなんて。
「構いません、行ってください」
「でも……!」
落ち着いた声に振り返れば、少し寂しげにシルヴィオさんが笑っていた。
「……大丈夫ですから。また来週末、会いましょう」
それでもまだ不安だった。せめて、カッサンドラに頼んで、シルヴィオさんに人体転移の魔法陣を…………。
カッサンドラの方を向こうとした私の頬を、シルヴィオさんの両手が包む。まるで自分の方だけ見ていてほしいと言われているようで、狼狽えてしまう。
「先程のお礼なんですが……」
お、お礼!?って、さっきの自転車に乗せてもらったお礼?
シルヴィオさんの親指が、私の唇をゆっくりとなぞる。何を求められているのか、さすがにわかった。
確かにお礼をするって言ったけど、い、今!?ここで!?
顔がどんどん熱をもっていく。色々な意味で堪えきれずに、ぎゅっと目を瞑った。
…………何も起こらない。
ふっとシルヴィオさんが笑う気配。耳に吹き込むような、甘く掠れた低い声。
「……君がしてもいいと思ったときに、下さい」
目を開ければ、楽しげに笑うシルヴィオさん。
わ、私からですか?
それはそれでどうすればいいかわからない。狼狽えていると、カッサンドラの呆れ声。
「歌だけじゃなく、男のあしらいも教えなきゃ駄目ね」
それはお願いしたいかも。切実に。
まだ頬を抑えられたまま。このままでは、この先心臓がもたない。とりあえず、簡単につけこまれないくらいにはなりたいと思います。
「あなたたち、そろそろ出発していいかしら?」
もう来るわよ。示された方を横目で見れば、こちらに向かう自転車の影がちらほら。
頬から手が離れる。シルヴィオさんが一歩下がって、手を振った。
「待っていますね」
それは、来週末の訪問なのか、私からのお礼なのか。わからなくて返事に詰まったその時、足下で赤い光が輝いた。
「じゃあね、坊や」
「シルヴィオさん!また…………また来ます!」
そうして私は、元の世界へと戻った。
物語の続きは―――また来週末に。
これで完結になります。
おかげさまで、ここまで書き終えることができました。
完結までずいぶん時間がかかってしまったにも関わらず、ここまで読んでくださった、あなたは私にとって神様です。
ブクマしてくださった方も、評価してくださった方も感謝に堪えません。
好き勝手に書かせてもらったこの話ですが、性懲りもなく第二部を書く予定です。
しばらくこれまでの話の細かい修正や調整。話を溜めてから書き始めたいと思いますので、よろしければそちらも読んでくださいませ。




