猫は嗤う
「あら、まだこんなところにいたの?」
聞き覚えのある艶やかな女性の声に、顔をあげる。
細く暗い、路地裏の影の中から、白い猫が優雅に歩いてくる。
毛並みの色は違って見えるが、声からしてあのときの猫に間違いない。
泣いている場合ではない。私は嗚咽を無理矢理のみこみ、涙を乱暴に拭う。
「あなた、さっきの猫ね」
金色の目を細めて、白い猫は優雅な動作で座り、ゆらりと尻尾を揺らした。警戒する私に、さも可笑しそうに口元に前足をあてた。
「ええ、そうよ。驚かせてしまったかしら」
嘲笑。
その様子に何故か、妖艶な美女の姿が重なった。
どこまでも人を見下すその様子に、怒鳴り付けたくなるのを抑える。激昂したところで、猫を喜ばせるだけだと思った。
「驚いたわ。私をここにつれてきたのは、あなたなの?」
猫はただ、その笑みを深めるだけ。
「あちらに行けば見世物小屋。こちらに行けば化け物扱いで処刑。どちらにしても大騒ぎになったでしょうに、あなた、いつまでもこんなところにいるんだもの」
路地裏の奥と、通りの方を示して、物騒なことを猫は言う。
つまらない子とため息をつかれて、恐怖と怒りとで感情が昂るのを、必死で押さえつける。
「どうして、私をこんなところに連れてきたの」
絞り出した声は、少し掠れていた。
そんな私の怒りや恐怖を煽るように、猫は片目をつぶるといい放つ。
「ちょっとした嫌がらせかしら。あなたのあんな下手な歌を聞かせられたら……ねぇ、わかるでしょう?」
「こんな嫌がらせをされるほど、下手な歌は歌ってないわよ!」
悔しさと怒りで、目の前が真っ赤に染まる。
簡単に、下手だとか、つまらないとか、私の一体何がわかるというのか。
私の怒鳴り声に、猫が今度こそ可笑しそうに笑い出す。
「あれが下手じゃないなら、なんだと言うのかしら。身の程知らずの小娘ちゃん。怒るところはそこではないのじゃないかしら?」
猫はふっと声を落とすと、冷たい笑みを浮かべて囁いた。
「例えば、もとの世界に帰せとか」
怒りで熱くなっていた頭に、冷水を浴びせられた気がした。反射的に、この猫は元の世界に帰して欲しいと言わせたいのだと悟る。
何も返事をしない私に、猫は人を小バカにした笑みに戻った。
「下手じゃないというなら、この世界の人に歌を聞かせてみなさいな」
そう言うと、猫はふわりと姿を消した。
それと同時に、男性の驚いた声。
通りの方を振り返れば、こちらを指差し何か叫んでいる男性。何事かと集まってくる人影。
―――どうすればいい!?
一瞬、迷う。
けれど、集まってくる人影の多さに、私は路地裏の奥へと走り出した。
暗く狭い路地裏を、鞄を抱き抱えるようにして走りぬける。狭い道がぐねぐねと続くかと思えば、急に広場のような場所に出たり、枝道も段差も多く、すぐに走ることはできなくなった。
たまに現れる人影が、驚いた声をあげる。
そのたびに、目についた路に走り込んで、でたらめに進んでいく。
とっくに最初にいた場所には戻れなくなっていた。
かといって行くあてもないまま、歩き続ける。
やがて、行く手に明るい道が見えてきた。そっと進んでいくと、少し広い道に出る。
どこか大きな建物の裏。街灯のないその道を建物から漏れる光が照らしていた。見回した限り人影はない。
それにしても大きな建物だ。左右を見ても、建物の端が見えない。
白く、平らな壁を見上げれば、高いところに並んだ窓から、灯りが漏れ出ていて、中から歓声が聞こえてくる。
歓声の大きさにびくびくしていると、すぐに静寂、そして歌声が流れてきた。
遥かな高みから降りてくるような、天使の歌声というならぴったりだろうか。拡声器を通した感じもない。恐らく生の声でここまでの声量。3オクターブはあろうかと言う広い音域をかすれることもなく、軽やかに歌い上げている。
オペラ歌手もかくやという歌声だが、ビブラートが少なく、歌詞もクリアに聞こえる。それなのに、重厚感と迫力があって、高音だけじゃなく低音も安定していて豊かに響く。
―――すごい。
こんな歌は聞いたことがない。たった独りの歌声なのに、伴奏にちっとも負けていない。
状況もなにもかも忘れて、ただ聞き入っていた。
いつまででも聞いていたいと思われたその歌声もやがて、最後のクライマックスを迎えて終わった。
圧倒されたような沈黙のあと、建物が揺れるような拍手が響き渡った。
気づけば、一心に拍手をしていた私の隣で、もう一つの拍手が聞こえた。
次回は来週更新予定です。