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眠れぬ夜①

 シルヴィオさんの部屋に戻ってくると、鞄を下ろして一息つく。

 他人の部屋にお邪魔して一息つくと言うのも変な話だけど。


「少し休んでいてください。今、お茶の準備をしますから」


 そう言うシルヴィオさんを、良い機会だから手伝った。

 いつまでこの世界にいることになるかわからない。手近なところから、できることを増やしていかなければ。


「それで、赤い魔女(カッサンドラ)の歌でしたね」


 用意した二人分のお茶を、ローテーブルに置いていく。

 その間にシルヴィオさんが、テーブルから少し間をあけて置いてある箱を操作した。箱の上で折り畳まれていた、大きなラッパのようなものを手慣れた様子で立てる。

 あっという間に箱が蓄音機のようになった。そのターンテーブルの部分に、手の平くらいの大きさの赤い石の板を数枚嵌め込んでいく。

 私もその箱を、シルヴィオさんの横から覗きこんだ。


「それは、何て言うんですか?」


「こちらが蓄音機。この石板がレコードですね」


 珍しく違和感のない翻訳に頷いて、こちらも操作方法を教えてもらう。

 やはり魔法は使うが、赤い魔女の魔力を注ぎ込まれている今なら、私でも使えそうだ。

 いくつかあるレコードの中から、赤い魔女(カッサンドラ)のもっとも有名で最高の演奏と名高い一枚を聴かせてもらうことにする。

 少し緊張しながらソファに座り、全神経を集中させる。

 いよいよ聴けるのだ。

 皆が絶賛する、伝説の赤い魔女の歌を。


 蓄音機から歌声が流れてくる。

 何を考えるより先に、すっと歌声が染み込んできた。

 なんて豊かで美しい歌声だろう。

 勉強することも忘れて聴き入って、気付けば最後の一音が響いて消えていった。


「どうでした?」


 蓄音機を止めたシルヴィオさんの声に、はっと現実に戻る。

 いつの間にか詰めていた息を、大きく吐き出した。


「なんというか……想像以上でした」


 音大で勉強したという僅かな自信も、粉々になるレベルでものすごい。

 音域が広いとか声量が豊かというのは勿論なんだけど、それ以上に経験に裏打ちされた技術がすごい。

 どうしたら、あんな細かい技術のいる旋律を息切れもせず、軽やかに歌えるのか。

 さも簡単そうに歌いこなしているように聴こえるけど、相当な努力が必要だったろうに。そんなことは全然感じさせない。当たり前のように歌いこなしているところが恐ろしい……。

 私はソファの背もたれにぽすんと背を預けた。


「これは、当分、元の世界に帰れそうにありませんね」


「ああ、カッサンドラよりうまくなるまで、ですか?」


 シルヴィオさんが苦笑して、ランチの時の私の台詞を持ち出した。

 あの時私は、彼女よりも上手くならないうちは元の世界に帰らないと啖呵を切った。今思えば、自分の歌のレベルでよく言ったもんだと思う。

 シルヴィオさんが、堪えきれないといった風に笑う。


「けれど、当分ということは、諦めてはいないんですね」


「いっそ、諦められたら楽なんでしょうけど……」


 それでも、私には無理そうだから目指さないという気には、なれなかった。

 どれだけ技術的に離されていても、悔しいものは悔しいし、羨ましいと思うなら追いかけてみるしかない。

 目指すお手本があるなんて、有難いことだと開き直ることにした。


「身の程知らずだと思いますか?」


「とんでもない。微力ながら、お手伝いしますよ」


『私には無理だ』と言われなかったことに、逆に驚いた。

 少しくすぐったいような嬉しさで、照れ隠しに頭を下げた。


「よろしくお願いします」


 ああ、あんな風に歌ってみたい。

 あれだけ軽やかに自由に歌えたら、どんなに楽しいだろう。

 そのためなら、私の人生をかけたって構わない。かけることができるなら、それはとても幸せなことだと思えた。



 ここにある記録(レコード)は、好きなように聴いて良いと言われ、私は赤い魔女の歌を次々と聴いていった。

 三百年前の歌とは思えないくらいクリアに、高音質で再生される。声はあの猫と同じだから、まるであの猫が今そこで歌っているようだ。

 悲しい歌、楽しい歌。複雑な感情の籠る歌。

 表現力も高い。真似をしたくなるテクニックも色々とある。

 あれもこれもと聴いているうちについ夢中になってしまった。


「リンカ」


 曲が終わったタイミングで肩に手を置かれ、はっとする。

 まずい、夢中になりすぎて、どのくらい時間が経ったか全くわからない。

 とりあえず、目の前のお茶はほとんど手をつけないまま冷めきってしまっていた。


「ごめんなさい、つい夢中になってしまって」


「いえ、むしろ邪魔をしてすみません。お風呂の準備ができたので入りませんか?」



 お風呂!?

 お風呂って……あのお風呂?

 とんでもお風呂の可能性もあるけど、昨夜も入れなかったし、今は夏だ。一日動き回っていたので、正直すごく入りたい。

 できれば、この元の世界から着たきりの服も洗いたい。

 …………が。

 さすがに独り暮らしの男性の部屋で、お風呂を借りることに抵抗があった。

 そうだ。せめて、お風呂は借りないで、服だけでも洗濯させてもらうとか?いやでも、着替えがない。乾くまで裸の訳にもいかないし。


「ああ、服は洗濯しておきますから、箱に入れておいてくださいね」


 いえ、それは……とてもありがたいんですけど、ありがたくないっていうか。だって下着とかだってあるわけだし。


「お風呂はあそこですから。タオルはこれを使ってください」


 洗面所の向かいの扉を示され、タオルを差し出された。

 ああ、あの扉はお風呂だったのね。ガラスとかプラスチックじゃないから、気付かなかった。

 って、そうじゃなく。


 差し出されたタオルを前にして、ぐるぐると迷う。

 お風呂と洗濯という欲望か。

 女としての恥じらいか。

 究極の選択を前に葛藤する私に、シルヴィオさんが不思議そうに首をかしげた。


「リンカ?入らないんですか?」


「…………ありがとうございます。いただきます」


 …………結局、欲望に負けた。

 自分の恥じらいの無さにうちひしがれる。

 でも差し出されたタオルは、そっと押し返した。


「どうぞ、シルヴィオさんが先に入ってください」


 シルヴィオさんも疲れているはずだし、私が借りる方なのに、先に入るのは気が引ける。それに、私が入った後にシルヴィオさんが入るのは……なんだか、恥ずかしい気がするし。

 私を見てシルヴィオさんはちょっと眉をあげると、おかしそうに笑って頷いた。なんとなく、女性は色々と大変ですねって顔に書いてある気がする。


「あの、洗濯物も自分でやりますから」


「そうですか?では、お風呂のあと、洗濯機の使い方を教えますね」


 着替えも必要ですねと、シルヴィオさんのパジャマを貸してくれる。大きいので、サイズ調整用にベルトも借してもらった。

 先に私にお風呂の使い方を一通り教えると、シルヴィオさんはお風呂へと入っていった。



 すっかり冷めてしまったお茶を下げて、蓄音機を記憶を頼りに片したりしているうちに、シルヴィオさんがお風呂から上がってくる。


「お待たせしました」


 濡れた髪。

 パジャマから覗く上気した肌。

 やはり疲れが出ているのか、少し気だるげな瞳と目が合う。

 私は思わず目をそらした。

 手早く借りたパジャマとタオルを抱え、お風呂場へ向かう。


「リンカ?」


「すみません。お風呂いただきます」


 脱衣所に入ると、内鍵をかけた。

 簡素な木の鍵をスライドさせると、ふうと安堵の息を吐く。


 びっくりした。

 男のヒトが色っぽいなんて、初めて思った。

 いや、そういえば今朝も似たようなこと思った気がする。

 頬に手を当てると、ちょっと熱い。

 私ってこんなに男のヒトに免疫なかったっけ?

 大学の頃は、合宿でお風呂上がりの男子を見ても、何とも思わなかったのに。それどころか、皆で宴会してそのまま雑魚寝なんて当たり前で…………こんなに意識したことなんて無いはずなのに。

 とにかく、落ち着こう。

 深呼吸を一つして、私は服に手をかけた。


 小さな脱衣所の奥に、薄い木の板を連ねたカーテン。さらに奥が浴室になっていた。

 綺麗な水色のタイルの浴室は、狭い。半畳くらいのスペースに

 浴槽はなかった。壁に取り付けられたお湯のタンクに、シャワーがついている。

 それでもシャワーの勢いが結構あるのは、魔法で調整しているかららしい。

 手早く体を洗うと、随分すっきりした。

 体を拭いて、大きなパジャマを頭から被る。ふわりとした感触とハーブの良い匂いがした。


 ―――ああ、シルヴィオさんの帽子と同じ香りだ。


 実はシルヴィオさんに借りた帽子は、眷属になったときのゴタゴタで落としてきてしまっている。

 気付いたときにはもう首都には戻れなかったし、シルヴィオさんは他にもあるからと笑って許してくれたけど……。


 働き口を探そう。

 シルヴィオさんに色々と返したい。そのためにもお金は必要だ。

 いつまでもシルヴィオさんに頼るわけにもいかないし、部屋をどこかに借りることも考えなければ。

 よしと、一つ頷いて、お風呂場から出る。


「ありがとうございました」


 シルヴィオさんにお風呂のお礼を言う。

 うん、今度は大丈夫。普通にできてる。

 そう思っていたら、私を見たシルヴィオさんが少し目をみはった。

 何か呟いたようだけど、小さすぎて聴こえなかった。


「どうかしました?」


「……いえ。そう……洗濯でしたね」


 シルヴィオさんが脱衣所へ入る。

 角に置かれた腰くらいの高さのチェストを指差した。


「これが、洗濯機です」


 洗濯機?チェストじゃなくて?

 久々のとんでも翻訳に驚いていると、シルヴィオさんが洗濯機(チェスト)の引き出しに自分の汚れ物を畳んで入れた。

 その上から、洗剤のような白い粉をサラサラと振りかけ、引き出しを閉じる。

 促されて、私も同じように重ねて畳んだ服(ちゃんと下着は見えないように中の方に畳んであるよ)を別の段の引き出しに入れて、粉を振りかける。


「これで、魔方陣に魔力を込めれば完了です。やってみますか?」


 頷いて、シルヴィオさんと立ち位置を交代した。

 狭い脱衣所の中、シルヴィオさんの体温を背中に感じる。

 ちょっとドキッとかしてない。

 ええ、全然。

 これはただ洗濯してるだけ。

 そう心の中で唱えてから、洗濯機の上に手をかざす。

 赤い魔女の魔力で、魔方陣が赤く光った。


 ボンッ


 爆発した!?

 思わず声をあげて飛び退いた。当然、すぐ後ろにいるシルヴィオさんにぶつかる。


「おっと」


「す、すみません」


 結構な勢いでぶつかったのに、シルヴィオさんはびくともしない。

 私の肩を支えてくれる手。

 大丈夫ですかと、シルヴィオさんの声が頭のすぐ横で聞こえた。

 とても後ろを振り返れず、前を向いたまま頷く。

 洗濯機はというと、なんとシューと音をたてて、白い煙が隙間から立ち上っている。泡を食ってシルヴィオさんを振り返る。


「まさか、失敗ですか?どうしよう、魔力込めすぎたんでしょうか?」


「いいえ、これでいいんですよ。驚きました?」


 シルヴィオさんが至近距離で少々悪戯っぽく笑う。

 今朝も思ったけど、結構まつげ長いね。

 いや。いやいや、それよりも。

 いくらなんでも、水も使わないで爆発するだけって……。


「これで洗濯できたんですか?」


 洗濯機に視線を戻し、さすがに半信半疑で訊ねる。

 そんな私の反応を予想していたのか、ちょっと得意気にシルヴィオさんが私の背中越しに手を伸ばす。引き出しから出された服は、皺もなくふっくらふわりと仕上がっていた。

 一番下の平べったい引き出しからは、汚れてまだらに茶色くなった粉が出てくる。


「すごいですね。綺麗になって乾かす必要もないなんて」


「この街は真水が貴重ですから。本当はシャワーも水なしでできるようになると、有難いんですけどね」


 ちなみにこれは、赤い魔女の発明ではないそうだ。

 十数年前に発明された魔方陣で、専用の粉石鹸と共に爆発的に広がったのだという。

 洗濯してから干す必要も、畳む必要も、アイロンの必要も無いなんて羨ましすぎる。

 洗濯の終わった服を抱いて、感動にうち震えてしまう。


「リンカ、まだ髪が濡れてますよ」


 シルヴィオさんが私の髪に触れた。

 乾かさなかったんですか?というシルヴィオさんの言葉に慌てて髪に手をやる。よく拭いたつもりだったけれど、水滴が落ちてしまっていただろうか。

 シルヴィオさんを見れば、もう髪は完全に乾いていた。短い髪とはいえ、この短時間でふわふわと普段通りになっているから、ドライヤー代わりの道具か魔法があるのかもしれない。


「すみません。タオルで拭いただけだったので……」


「ああ、そうですよね。乾かしますから、こちらへどうぞ」


 シルヴィオさんもうっかりしていたといった調子で、私をソファに座るように勧めてくれた。

 あちこち濡らしてしまっても申し訳ない。私は素直にお願いすることにして、ソファに座る。

 シルヴィオさんが後ろに立って、私の髪を手に取ると、丁寧にタオルで髪を拭い始めた。


「な……何をしてるんですか!?」


 慌てて振り返ろうとしても、髪を押さえられていると思ったより身動きがとれない。

 立ち上がることもできず、おたおたする私に、シルヴィオさんはなんてことの無いように言う。


「何って、髪を乾かしているんですよ」


「乾かすって、何か道具とか魔法とかあるんじゃ……」


「ほら、あまり動かないでください」


 肩に手を置いたシルヴィオさんに前を向くように言われる。

 子供じゃないんだし自分で拭きますと訴えても、軽くかわされてしまった。

 どうしたら断れるかと焦る私の髪を、シルヴィオさんが手に取る感触が伝わってくる。どうしてそんなに上機嫌そうなのか、訳がわからない。


「綺麗な髪ですね。手櫛でも全然引っ掛からない」


 とんでもない。カラーリングもパーマもしないで、ほったらかしておいただけです。

 シルヴィオさんは、優しい手つきで丁寧に髪を拭いていく。

 ここが美容院とかだったのなら、心地いいと思えたのかもしれないが、今は無理だ。居たたまれなさすぎる。

 固まる私の首を、スッと手が掠めた。

 ゾクッとして思わず首を竦める。


「この国では、真っ直ぐな黒髪って珍しいんですよ。実はちょっと触ってみたかったんです」


 そうですか。私の国だと黒くて真っ直ぐな人は珍しくないんで。ほんと。

 だいたい髪の感触なんて、黒も茶色も変わりませんって!

 居たたまれなくて、ガチガチになったまま髪を拭かれ続ける。

 ってか、なんて拷問。これ。

 何で急に、こんな甘ったるい雰囲気になっちゃったんだろう。

 お願いだからもう、勘弁してください。


「………………」


 半泣きで恥ずかしさを堪えていると、シルヴィオさんの手が躊躇うように止まる。

 魔法を使うときの高音が聞こえ、緑の光が視界の端に映った。

 スッと髪の毛が乾いていく。

 驚いて後ろを振り返ると、寂しげな顔をしたシルヴィオさんが微笑んでいた。

 耳が、へにゃりと垂れている。


「すみません。君に不快な思いをさせるつもりは無かったんです。随分疲れた顔をしているので……」


 言いながら、私の頬に伸ばされた手を、つい避けてしまう。

 やってしまったと思って、咄嗟に謝った。


「あ……いえ不快というか、ちょっと恥ずかしかっただけで。折角拭いてくださったのに……すみません」


 シルヴィオさんは私に伸ばした手を、もう片方の腕で抑えるように下ろした。

 少し傷ついたように、自嘲気味に笑う。


「謝らないでください。…………つけこみたくなりますから」


 つ、つけこむって……。

 その言葉が、冗談に聞こえなくて。

 私を見つめる瞳が私を女性として見ているのが、何となくわかって。

 なんで、髪を乾かす魔法があるのに、タオルで拭こうとしたのか考えて。

 急にシルヴィオさんが恐ろしくなった。

 後ずさって、距離をとる。

 この部屋に二人でいるのが怖い。

 一晩、ここにいるのが怖い。


「あ、あの……やっぱり私、今すぐ博物館に……」


「駄目です!」


 急に大きな声を出されて、飛び上がるほど驚いた。

 今度こそ本当に、この部屋から、シルヴィオさんから逃げ出したくなる。


「待ってください!」


 シルヴィオさんの手が私の腕をつかんだ。

 とっさに振り払おうとしたその時、パンっと音がして、シルヴィオさんの手が弾かれた。

 昼間、役所で男性に止められた時と同じ現象だった。


「……わかりました」


 シルヴィオさんが、両手を上げた。

 手を出さないと示すように。誓いを立てるように。


「君の嫌がるようなことはしません。約束します」


 逃げ出すのをギリギリで踏み止まって、シルヴィオさんを恐る恐る見る。


「……だから、ここで休んでください。自分がどれだけ疲れた顔をしているかわかっていますか?」


 シルヴィオさんが、心配そうに私を見ている。

 女性として見ているのは変わらないのに……。


「赤い魔女に魔力を注ぎ込まれたのを覚えていますね?他人の魔力を体内に入れるなんて、体に大きな負担がかります。その上、眷属になって、あれだけ頭痛と熱に苛まれたんです。いつ倒れたっておかしくありません」


「………私の目って、赤いんですか?」


 オリンドさんにも、ルフィナさんにも、そう言われたことを思い出す。

 シルヴィオさんがうなずく。


「君が頭痛を訴えるときや、魔力を使った時に赤くなるようです。…………今も、赤いですよ」


 赤い瞳。

 自分が自分でないものになってしまったようだ。

 目の前がすうっと暗くなる気がした。


「先程の件は謝罪します。今日はもう寝ましょう。大丈夫です。何もしません。なんなら僕が部屋から出ていっても構いません」


 私は慌てて首を振る。

 さすがに家主を追い出して、のうのうと部屋で寝ることなんて出来ない。


「今日は私がソファで寝ます。シルヴィオさんがベッドを使ってください」


 道理を通すのが半分。警戒半分で訴える。

 自分から寝室に入ってベッドに横になるというのは、今はできなかった。だって、あそこは本当に逃げ場がない。

 覚えている。今朝見たとき、寝室の扉に鍵はついていなかったことを。


「それは……できません。女性をソファで寝かせて、ベッドで寝るなんて」


 それは詭弁とかではなく、本気で出来ないのだと、これまでの過剰なくらいのレディファーストな態度から予想はつく。

 だけど……。

 ためらう私に、シルヴィオさんはちょっと笑って見せる。


「リンカが嫌でなければ、一緒にベッドで寝ますか?」


 ……いくらなんでもわかる。

 それが、私から一人でベッドに寝るという言葉を引き出すための台詞だということが。

 たぶん、私がわかるのも見越して、それでも是とは言えないと思ったんだろう。

 私は是とも非とも言わずに、シルヴィオさんを見詰めた。

 これまで、シルヴィオさんがあんまり良くしてくれるものだから、無条件で信じて、頼りにしていた。

 けれど、私はまだシルヴィオさんのことを、あまりにも知らない。当たり前だ。まだ出会って一日しか経っていない。

 それでも、私はシルヴィオさんを信じるのか、否か。今、決めなければ。

 黙ったまま見詰め続ける私に、シルヴィオさんの方が狼狽え始めた。


「え?まさか……本当に、一緒に……とか」


 動揺と、僅かな期待が混じったその言葉に、ようやく少しシルヴィオさんの素が見えた気がした。


「いえ……色々と気遣いいただいて、ありがとうございます。お言葉に甘えて、ベッドを使わせてもらいますね」


 シルヴィオさんは、ほっとしたような、どこか残念そうな顔をした。

 でも笑って、おやすみなさいと言ってくれる。

 私もおやすみなさいと返して、自分の着替えと鞄を持って鍵のかからない寝室の扉を開けた。

 私の嫌がることはしない。

 シルヴィオさんがこれまで私にしてくれたことを思えば、その約束を信じることくらい、できるはずだった。


次回は、また明日更新予定です

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