赤い猫と眷属
今回、少し残酷な描写があります。
「違う!儂がやったわけでは……!」
続くゾッとするような悲鳴に、全員が思わず立ち上がった。
扉のところにいたミケーラさんも色をなくして、奥の部屋へと戻っていく。
私達も顔を見合わせ、追いかけるように奥の部屋へと駆け込んだ。
窓も家具もない小さな部屋。その真ん中に光る大きな魔法陣。
見回しても、あの白い猫も、悲鳴をあげたはずの男性もいない。
魔法陣の中心には、床に両手をついたミケーラさんがいた。
これが、人体転移の魔法陣だろうか。
どさりとヒトが倒れる音が響く。
私達もミケーラさんも振り向いた。
「耳が……ぁ……」
痛みに掠れた声に、ゾッとからだに震えが走る。
壁には小さな魔法陣が輝いていた。声と音だけが、あそこから聴こえてくる。
あれが、電話……。
「あなたたちは、向こうの部屋に戻りなさい!」
床の大きな魔法陣が一際強く輝いた。
ミケーラさんが魔法陣を起動させようとしている。とっさに私も魔法陣の中へ入った。
私が持ち込んだ魔法陣で何かあったのなら、放っておけない。
「私も行きます!」
「僕もです」
シルヴィオさんも迷わず魔法陣に入る。
ミケーラさんが僅かに躊躇した。けれど、私たち二人を魔法陣から出す時間が惜しいと判断したのだろう。
「オリンドは知事に報告を!」
魔法陣のそばでおろおろとしていたオリンドさんに指示を出すと、虚空をにらんだ。
「行きます」
その言葉に呼応して、目映く青く、魔法陣が光った。
一瞬の浮遊感。
光が消え、足が地面に着いた感触。バランスを崩してたたらを踏んだ。
顔を上げれば、薄暗く窓も家具もないそこは、さっきと同じ部屋に見える。
目を瞬いた。
いや、違う。誰か倒れている。
「コルンバーノ様!」
ミケーラさんが駆け寄って抱き起こしたそのヒトが、先程の悲鳴の主だろう。老人らしく、長く白い髪が垂れた。
ところどころ、まだらに汚れた部分がある。目を凝らせば、赤く濡れていることに気が付いた。
息を飲んだミケーラさんが、すぐに手をかざすと青い光が灯った。たぶん癒しの魔法をかけているのだろう。
けれど、私とシルヴィオさんはそこに近づけなかった。
老人との間に、白い猫が立ち塞がったから。
ガレットの包み紙が落ちている傍らで、猫はいつものように笑っていた。
薄暗い中でも、口元が赤いのがわかる。老人の髪をまだらに染めていた赤と同じ色。
「来たのね。リンカ、シルヴィオも」
白い猫の口調はいつも通りだった。けれど、この状況の中でそれは、何かが狂っているように見えた。
「一体……何があったの?」
「そこの老いぼれが、私との約束を破ったものだから、ちょっとお仕置きしてあげたのよ」
「約束……」
猫は、もう隠すことも無いわねと肩を竦める。
いつも通りの仕草なのに、どこか苛立ちを含んでいた。
「そうよ。私が大人しく処刑される代わりに、サヴィーノには手を出さない。私が彼に残した魔法陣にも手を出さない。それなのに、サヴィーノは私が処刑された直後に『病死』したですって?これだけ私の残した魔法陣を使って繁栄しておいて、どの口が言うのかしら」
猫は口紅をひいた様に赤い口で、高く笑う。
サヴィーノというのが誰のことかわからないけれど、カッサンドラにとって大切なヒトだったのだろう。
その死が病気のせいでは無いと、確信しているようだった。
本当のところ、どうなんだろう。
ミケーラさんの方にちらりと目を向けるけれど、ミケーラさんたちはこちらの様子に気づいていないようだ。
もしかして、猫の声が聞こえていないんだろうか。そういえば、二、三人までしか思念を飛ばせないと、猫が言っていた。
シルヴィオさんが、なだめようとするように慎重に語りかける。
「でも、約束をしたのは三百年前の人達なんですよね」
「私が約束したのは、最高機関の魔法使いの長よ」
「………約束を破ったことは、変わらないと?」
「そうよ。もしも私が処刑された後に約束を破ったら、死んでも戻ってきて今の混乱なんて目じゃないほどの混乱をもたらしてあげる。そう約束したことを、コルンバーノもちゃんと知っていたもの」
猫は微笑んで、近くに転がり落ちていた何かを咥える。
ほんの小さな何か…………。
それが何かわかって、小さく悲鳴をあげた。
赤い、ルビーのような色の石のついた指輪。
赤い魔女の、指輪。
ぶわっと圧力をもった、赤い光が広がった。
「だから、覚悟はできているはずよね、コルンバーノ」
その静かな声は、ミケーラさんやコルンバーノさんにも聞こえたらしい。
こちらの様子に気付いたミケーラさんが、目を見開いた。
「お前が……赤い魔女!」
ミケーラさんが怒りの籠った声で叫ぶが、動けないようだ。
皆、赤い猫が発する圧力に身動きがとれない。
そう、白かった毛並みが赤く見えるほど鮮やかな赤い魔力を身に纏った猫は、にたりと嗤う。
ゆっくりと、猫が私へと近づいてくる。
圧力がぐっと強くなった。
体がガタガタと震えて、逃げたいのに動けない。
「ねえリンカ。私の方から行こうと思っていたのに、貴方から来るとは殊勝なことね」
心臓の音が、うるさいくらいに鳴っている。
怖い。
「高橋凛歌」
その呼び掛けに、体がビクッと震える。
名前を、この世界にきて初めて正確に呼ばれた。
「汝の望みと引き換えに、汝を我が眷属とする」
「私は、望みなんて言ってないわ」
元の世界には戻らない。だから眷属にはならないと言ったはずだ。
けれど、猫は嗤う。
「言ったわ。そして私は叶えた」
―――毒になるの。だから食べないで―――
「食べなかったでしょう?玉ねぎ」
言われて思い出す。
ランチの時、私が望み、猫は叶えた。
そう意識した途端、私に向けられた指輪から赤い光が溢れた。
細い光になって、私の額に集まる。
焼けるような熱さと何かが急激に私の中に流し込まれる不快感。
悲鳴を上げたつもりだったが、私の耳には届かなかった。
「……カ!リンカ!」
シルヴィオさんの声に、意識が辛うじて戻る。
目の前には床。それから、赤い猫の脚。
いつの間に倒れていたのだろう。全身の痛みをこらえて、目をあげれば、感情のない金色の瞳が私を見下ろしていた。
それが何故か、無性に哀しい。
「……どうして……カッサンドラ……ッ!」
「命令よ。指輪を捜しなさい」
指輪?
一体誰の?
何も訊くことができないまま、私の体が勝手に動き出す。まだ痛みの残る手足が、無理矢理に動かされて悲鳴を上げた。
体が言うことをきかない。
違う、赤い魔女の命令をきいているんだ。
……これが、眷属になると言うこと。
「……っ!」
「リンカ!どこに行くんです!?」
シルヴィオさんも動けるようになったらしい。私の腕を掴んで止めようとしてくれるが、腕が勝手にその手を振り払った。
反動で、腕に強い痛みが走る。
―――ごめんなさい、シルヴィオさん。
突き飛ばされたことに驚き、私を見るシルヴィオさんに、心の中で謝っても私の体は動き続ける。
人体転移の魔法陣の真ん中に来ると、両手をついた。
―――何をするの?
私は魔法など使えないはずだ。そもそも魔力だって……。
そう思う間もなく、魔法陣が鮮やかな赤い光を強く放ち始める。
―――赤い魔女の、赤い魔力!?
「無茶よ、止めなさい!衛兵!あの白い猫と女性を捕らえなさい!」
扉が開く音と共に、明るい光が入ってくる。
ミケーラさんの声と共に、バタバタとたくさんの足音が近づいて来た。
けれど、それよりも早く、魔法陣の輝きが強くなる。
「くそっ!」
魔法陣が起動する瞬間。シルヴィオさんの声が間近で聞こえた気がした。
また来週更新予定です。




