#8.A false excuse
※【#9】の場面が飛んでいたので、こちらに『昨日』の部分を追加しました。
結婚前病院に勤めていた妻は医者の仕事についてとても理解を示してくれている。急な手術が入ったり、診察時間が延長して帰宅が遅れても、理由を説明すれば分かってくれた。昨日は急患の手術が入ったので遅れると電話で伝えてあった。すると妻は仕事だから仕方がないと、少し残念そうにしながらもわがままを言わずに諒承してくれた。
――その理由は偽りだった。
本当はジョゼと会う時間を設けるためにそう言ったのだ。そこへ予期せぬ急患が運ばれてきたため、結果的に予定を変更せざるを得なくなった。ジョゼとの約束をキャンセルしたくはなかったが、時間配分が狂ったことに加え、運ばれてきた患者があの“問題の患者”であったということが重なって、頭の中で小さな雷鳴が鳴った。それが嵐の前触れではなく、進路を変えて通り過ぎて行ってくれたら良かったのだが、不安が暗雲を運んできてしまった。朝、妻が言っていたことが気になる。今日はいったい何の日なんだ? 誕生日でも、記念日でもなく……
じゃあ、何の日だって言うんだ――!?
仕事から解放されると、腹立たしいほどそのことが気にかかって仕方がなくなった。外で誰かと寛ぎたくとも気が休まるはずもなく、手術を終えるとジョゼに断りの電話を入れ、それからまっすぐ帰宅した。心身ともにすっかり疲れを感じていたが、温かい笑顔で出迎えてくれた妻に、なんとか笑って見せた。
食卓の四角い木製テーブルには、持ち手をアルミホイルで包んだチキン。スライスしてオニオンドレッシングをかけたサニーレタスとローストビーフのサラダ。ドライフルーツ入りのカップケーキ。表面にココアパウダーを振ったバタークリームのブッシュドノエルが並んでいた。総て妻の手作りだ。彼女は恋人の時からよくこんな風に作ってくれていた。味もなかなかだった。均等に切り分けた肉など、盛り付けから繊細さが窺える。いつだったかオレが
「これなら店を開けるよ」
そんなことを言った記憶がある。下手なレストランよりずっと美味かったのだ。――だが、今は食欲がなかった。
オレは娘の眠る寝室へと向かった。汚れのない天使が、ベビーベッドの上で小さな寝息を立てていた。呼吸に合わせて掛け布団が上下する。その起伏を見ていると心が癒され、しだいに表情は緩んでいった。邪な心が洗われるようだった。
オレはその小さな手を取り、自分の両手で優しく包み込む。
ルーシェ、パパの手を握っててくれ。
パパがどこへも行かないように。
逃げないように。
ずっとずっと強く握り締めていてくれ。
パパは
“いけないこと”をしようとしている……
娘のことを愛しいと思う。今まで何かと支えてきてくれた妻には感謝している。
だが、その家族とは別に愛する人がいる。
家庭のことを顧みなくなってしまうほど、その人のことを愛している。
それでも娘の顔を見ていると、家族から気持ちが離れていってしまうことが怖くなる。その顔を見れなくなることなど考えたくない。
しかし、込み上げる感情をどうすることもできなかった。ジョゼが好きだ。愛している。この感情を打ち消すことなどできやしない! 家庭という穏やかな海面に浮かぶ船から、ジョゼという外来船に乗り換えようとしている。そんな自分を連れ戻して欲しくて、オレは我が子に救いを求めた。心の声で訴えかけ、懇願するようにその小さな手にキスをした。
寝室を出る。妻に不信感を抱かせないため、料理が並ぶ食卓に戻った。
オレが席に着くと妻は冷蔵庫を開け、何やら嬉しそうにワインを取り出した。口当たりのいい低価格の白ワインだった。妻がそれをワイングラスに注ぐ。
「どうぞ食べて」
妻はそう促しただけで乾杯はしなかった。グラスを口にする妻に続いて、自分もグラスを傾ける。苦みに混じって甘みが口の中に広がった。アルコールがそれを引き立てていた。喉が仄かに熱くなる。柑橘系の甘酸っぱい薫りが鼻腔を漂い、目の前に収穫時期が訪れた果樹園が浮かぶ。その瞬間、そこに一時の安らぎが生まれた。
微量なアルコールは僅かな安息しかもたらさず、ゆるやかに喉を通過していく。目を瞑れば優しく喉を愛撫するワインの心地よさを堪能することもできたが、目の前には向き合う妻の姿がある。その視線が気になった。穏やかな表情の奥で何を思っているのか。時々ふとこちらを見て、幸せそうに笑みを零す。オレはそれに対し、目を丸めて愛想よく振舞うことしかできなかった。
オレは嘘を付くのが苦手だ。質問されることを恐れ、まるで食事が喉を通らなかった。ほとんど口を付けず席を立つ。
「明日また食べる。今日はもう寝るよ」
妻に詫びてからキッチンを後にした。半ば逃げるような気持ちでシャワールームに直行する。
シャワーの水流を身に受けながら、いつしか思考に暮れていた。脳裏に浮かぶさまざまな問題が、思考の雨となって降り注ぐ。
あの患者には、やはり精神的な治療が必要なのかもしれないな。最初にリストカットした理由は分からないが、それ以降はオレに会うためだった。そのオレに関係を持つことを拒絶され、彼女の心にまた新たな傷ができてしまったかもしれない。あっさりと忘れてくれればいいが、もしそれが新たな火種となってしまったら、そのことを理由にリストカットに走る可能性がある。そうならないためにも対策を考えなければ。
ジョゼに相談してみるか。
それなら早いほうがいいな。よし、明日にでも会えるかどうかメールしてみよう。
そしたら妻には、理由を何と説明しようか……
また「急患が入った」
それで通用するか?
いや、大丈夫。医者の仕事はそういうものだ。いつ患者が運ばれてきて仕事が舞い込んでくるか分からない。必ずしも予定通りにはいかないのだ。妻はそのことをよく理解してくれてるじゃないか。
しかしオレは、いつからこんなにずるくなったのか
オレはジョゼに恋するあまり、欲望を満たすために危険な綱渡りをしようとしている。錆び付いたブレーキのように、徐々に自制がきかなくなってきている。
今までこれほど愛に貪欲になったことがあっただろうか。
いや、そもそも本当の恋を過去にしていただろうか?
恋はしたが、深くはなかった気がする。一つの恋が終われば、次の恋までの待機期間に入るだけだった。これほどまでに一人の人間に執着したことはなかった。これこそが本当の恋ではないのか――!?
ああ、ジョゼ。こんなに熱く君への愛を語っても、声に出すことができなければ排水口に流れていくこのシャワーの水流と同じ。その水をすくってくれ。その掌を器にしてオレの愛をすくってくれ、ジョゼ――……!
頭上から降りそぞぐシャワーの水流が、激しい愛の激流を具現化したように、温水の豪雨と無数の飛沫を散らす。堪らなくジョゼが恋しくなった。頭の中はそのことで占拠されていた。
「あなた!」
ふいにシャワールームのドアが勢いよく開けられた。
「……?」
青ざめた妻が開いたドアから顔を出し、確認するように目だけ動かしてオレの身体を凝視する。
「大丈夫? あんまり長いから、何かあったのかと思って……」
「あぁ、今上がるよ」
オレは苦笑を漏らし、シャワールームから出た。
寝室に入ると仕事用の鞄から携帯電話を取り出した。バスローブ姿のまま、ドライヤーやブラシなどが置かれたドレッサーの椅子に腰を下ろし、端末を操作する。ジョゼにメールを打つことにした。キッチンのほうでは、食器洗浄器がガタガタと忙しない作動音を立てていた。
シャワールームのドアが閉まる音がする。妻が入ったらしかった。
メールの画面を表示させる。
“明日会えないか?”
「ねぇ」
「え……っ?」
メールを打つ途中で声をかけられ、驚いたオレはびくっと身体を浮き上がらせた。部屋に入ってきた妻はまだ服を着ていた。
「ん?」
オレは何事もないと思わせるように軽い返事をした。動揺を悟られやしないかと内心肝を冷やしつつ。端末の表示画面は瞬時にゲームに切り換えていた。それはもともと機能の一つとして付いていた単純なゲームで、普段使うことはなかった。いらない機能だと思っていたが、こんな時に役に立つとは……案外使えるようだ。
「何してるの。メール?」
妻が背後からそれを覗いてきた。
「あぁ、いや、ゲームだよ」
「へぇ、私にも後でやらせて?」
「……あ、あぁ」
そう言ったが、内心オレは大量の冷汗を掻いていた。
オレがいない時に使いたいと言われたら
やばいメールはないが……
いや、嘘がばれる! 仕事で遅れると言いながら、本当は人と会う約束をしていたとなると、やましいことはなくても騙したことは確かだ。彼女がそれを知ったら、どんなに怒ることか。
――静かな身辺調査が始まる。
ああ、それは勘弁してほしい!――メールも管理しなくては……
端末を握りながら頭の中で一人奮闘していたオレは、ふと視線に気付きディスプレイに見入っていた顔を上げた。鏡越しに妻と目が合った。
「ところで、何か用があったんじゃなかったのか?」
そうオレが尋ねると、妻はパチンと手を叩いた。
「そうそう、あなた脚立がどこにあるか知らない?」
「脚立? それなら足が曲がってしまって危ないから、捨てようと思って物置にしまったよ」
「そうなの? ボディソープが切れたから詰め替えようと思ったんだけど、棚に手が届かなくて困ってたのよ」
オレは心得顔で立上がり、収納棚のある洗面所に向かった。観音開きの扉を開けると他の日用雑貨に紛れて、ボディソープの詰め替え用パックが自分の目線より高い位置にあった。オレは180cmに満たない半端な背丈ではあったが、手を伸ばすとなんなくそれに届いた。
「背の高い旦那さんと結婚して良かったわ。こういう時、助かるのよね〜」
傍らでその様子を眺めながら、妻は感心していた。オレは棚から取り出した詰め替え品を渡してそこを出る。
数分ほどしてから、ようやくシャワールームのドアが閉まる音がした。寝室に戻っていたオレはドレッサーの上にあった携帯電話を手に取ると、メールの続きを打ってすぐに送信した。
身体が冷えてきたので、乾きかけの髪にドライヤーをかけた。ざっと乾かすと、そのままバスローブ姿でベッドに入ろうとする。
「おっと」
危うく携帯電話を置き去りにして眠ってしまう所だった。戻って開いた端末を取りにいく。丁度その時シャワーの音が止んだ。間もなくしてドアが開く。パタッパタッと小さくスリッパの音が響き……
バスローブを羽織った妻が寝室に現れた。
彼女が寝室のドアを開くその直前に、オレは慌てて開いた端末を閉じてロック状態にし、充電器に差し込んでいた。
翌朝キッチンの物音と鼻腔をくすぐる食べ物の匂いを感じて、オレは目を覚ました。ベッドから身を起こして、大きく伸びをする。着替えながら充電器に差し込んでいた携帯電話に目をやると、着信を知らせるランプが点滅していた。ジョゼからのメールだ。そう思い、さっそく折り畳み式の端末を開いてメールを確認する。
【Jozeph】 23:40
“分かった。じゃあ明日、仕事が終わったらまたメールする。”
昨夜の返信メールだった。
ジョゼからメールが来た。また会える。それだけで萎んでいた心が一瞬にして華やぐ。最高の一日が始まる。溢れる悦びに笑みが零れた。
あぁ、ジョゼ。昨日はお預けだった。今日は君の姿を崇めさせてくれ。昨日会えなかった分、たっぷりとその笑顔の媚薬を堪能したい。
君は友人のオレが、こんなふしだらなことを考えているなんて思いもしないだろう。
君はただ純粋に友情を築いているだけだと、そう思っているだろう。
だが、そう思ってくれて構わない。オレはこの気持ちを知られるのが怖い。まだ、打ち明けるのが怖いんだ。
オレは君というウイルスに感染した。この悩ましい愛の微熱は、その初期症状だ。会えないもどかしさが貪欲な感情を掻き立て、より愛の熱を上昇させる。
君はオレにとって罪深き存在だ。そのウイルスにオレの心はどんどん蝕まれていく。そのうち禁断症状が現れるかもしれない。家庭を捨て、君のもとへと飛び立っていくかもしれない。かろうじてそれを娘の存在が思い止どまらせている。だが、徐々に自分の気持ちを抑えきれなくなってきている。君と会うために、仕事を口実にして妻を騙した。しかもその策をまた使おうとしている。
だが妻は敏感だ。そのうち気付くだろう。その時には、その果てには
オレは……
「あなた」
「!?」
背後から妻の声がして、呼吸と思考と動きが一瞬停止した。同時に衝撃で心臓が縮むかと思った。開いたままの端末を握り締める手に汗が滲む。ディスプレイにはメールが表示されていた。その画面を消したかった。照明が落ちるまでに数秒かかる。
「……」
次の瞬間、ふわりと背後から妻が腕を絡ませてきた。オレの背中に身を寄せ、頭を凭れかける。
「ダリル……」
甘えるように猫撫で声で名前を呼び、頬を擦り寄せた。
「愛してるわ」
背後から手で弄り、痴女のようにオレの服を乱す。シャツを捲り上げ、腹部が現れる。
誘っていた。こうして妻はオレを誘っているのだ。名前で呼ぶのはその合図だ。こうなったらもう、そうするしかない。
「分かった。分かったから、“後でな”」
「……!」
諭すオレを睨み、妻は少しふてくされた顔をしたが
「今日は早く帰って来てね?」とすぐにラブコールと熱い接吻をくれた。オレは捲れたシャツを下ろしてからキッチンに向かう。
食卓の四角い木製テーブルには、シナモンシュガーのフレンチトーストとスクランブルエッグ、サラダなどが並んでいた。朝食はだいたいいつもこんな感じだ。昨晩の食べ残しは帰って来た時に食べればいいだろう。朝は軽いほうがいいからな。
オレは何気なく冷蔵庫のドアを開けた。サラダにかけるドレッシングを探す。
「?」
すると中はやけにがらりとしていて、ほとんど空っぽに近かった。ドアポケットに調味料などの瓶類、仕切りの付いた棚の上にマーガリンなどがあるだけだった。
「なぁ、昨晩の残り物は?」
不思議に思って妻に尋ねると
「……」
彼女はすぐに答えようとはせず、片隅にあったコーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを注いだ。それをテーブルに置く。
「作り直すから」
それだけ言ってキッチンから出て行く。
「?」
オレはその言動が不可解に思い、小首を傾げた。と、横から何かの臭いを感じた。
――何だろう?
一角にあるゴミ箱からその臭いが発しているようだった。開閉ペダルを踏んで蓋を開けてみる。
「何だこれ……?」
中を見て愕然とした。紙くずや他の生ゴミの上に、ケーキやスライスした肉などがどさりと投げ込まれていた。それらはまさに昨晩食卓に並んでいた物だった。
「どうしてこんなことを……」
心が痛んだ。すぐさま妻を呼び戻す。
「メーガン! どうして昨日の残り物を全部捨ててしまったんだ?……食べ物を粗末にしないでくれ!」
「……」
引き返して来た妻は表情を曇らせた。
妻を叱責するのは過去にひもじい経験をしたからではなかった。今まで妻のために娘のために苦労させまいとして働いて稼いできたのに、買った物をこんな粗末に扱われたことが辛かったのだ。頭を振って、重い嘆息を吐き出す。
「……」
妻は瞼を伏せて、何かを堪えるように口を噤んだ。それを見たオレは強く言い過ぎてしまったと反省し、声を和らげて言い直した。
「どうして捨てたんだ? 温めれば、まだ食べられただろ?」
するとようやく妻の堅く閉ざされていた口が開いた。
「あなたに出来立ての物を食べてほしかったの」
「……」
涙ぐみながらのその言葉がオレの胸を打つ。それ以上彼女を咎めることができなくなった。
「メーガン……」
悪かった。君がせっかくオレのために腕を奮ってくれた料理を、オレは昨晩ほとんど口にしなかった。君は何も言わなかったけど、本当はとても悲しかったんだね。その反動であんなことを……気遣ってやれなかったオレも悪い。
不器用なオレは全部を口にはしなかった。ただ短く
「そうだったのか」と呟いた。
妻の左目から涙が溢れ出し、頬に一本の筋ができる。オレはその目許を親指で拭い、慰めるように目を細めて笑いかけた。
「……!」
決壊したダムのように涙がどっと溢れ出し、妻は口許を両手で覆った。オレは手を回し、嗚咽を堪える彼女の肩を抱く。こうして触れると少し喋りやすくなる。
「昨日は仕事が入って、君と約束していた記念日の晩餐ができなかった。今度その穴埋めをするよ」
「……」
すると嗚咽の合間に妻が言った。
「いいわ」
「……?」
呆気なく断られ、オレは困惑した。数回素早く瞬きして、その戸惑いが表情にも反映される。
妻は続けた。
「昨日は別に“何の日”でもなかったから」
「?――」
オレの表情はその瞬間凍結した。
“何の日でもなかった”――?
その台詞を聞いた後、オレは何も言えなくなった。
――オレのことを試したのか?
オレは填められたようだった。さっき会話の中で
「“記念日”の」と言ってしまった。慰めたつもりが、彼女を失望させたのかもしれない。
オレは自分に失望した。と同時に、やはり妻の方が一枚上手だと思い知る。気まずい空気に耐えられず、オレは仕事場へ急いだ。
送り出す妻のキスを受けてから。
仕事の休憩時間にオレは自宅に電話した。用件はもちろん“例”のことだった。妻の返事はこうだった。
「また仕事?」
それしか言い訳が浮かばなかったオレは、電話越しに詫びを入れる。
また一つ嘘が増えた。後味の悪い後ろめたさが口の中を苦くした。
――今晩はたっぷりと妻のご機嫌を取ってやらなくてはいけないな。ジョゼと会うのはその前の休憩時間だ。そう強引に決め付けて、ジョゼに会うことを正当化した。やましいことは何もしない。ただ友人と会ってお茶するだけだ。――キスでもしてみたい所だが、我慢する……
そんなことを思いながら、仕事帰りのオレは待ち合わせ場所へと原付バイクを走らせるのだった。
――to be contined――