#7.Love is blind
「先生あたしのこと心配してくれてる?」
彼女は言った。ほとんど変化のない場面をまた迎えてしまった。病室のベッドに仰向けになった少女。彼女はすでに十九歳だ、少女と呼ぶにはもう相応しくないのかもしれない。
彼女は笑う。
その瞳がこの場面を迎える度に輝きを増すのは何故だろう。患者が一命を取り止めたことに、彼女に限って素直に喜んであげることができない。
彼女がリストカットの常習者だからか?
いや、違う。
オレはその傷跡が残らぬよう一針一針細心の注意を払い医者としての仕事を真っ当してきた。今回もそれを怠らなかった。
しかし彼女にとって、そうしてあげることが良いことだったのか……
――傷跡を残して、自分がしたことを自覚させてやればいい――
心に潜む悪の部分がそう囁く。
だがオレは患者個人に私情は持ち込まないことにしている。それが判断を誤らせる要因にもなるからだ。
とは言え医者も人間だ。当然、患者との相性もあれば、好き嫌いが生じることもある。それはどうにもならないことだが、深入りしないことで気持ちを抑えることはできる。それなのに彼女はまるでそうすることを望んでいるかのように何度も現れる。
最初の行為でこの病院に搬送された時、彼女はまだ十七歳の高校生だった……
「先生、何歳?」
病室に来て診察するオレを見て、痩せ細って寝不足のようにやつれた彼女の顔に、笑みが浮かんだ。その堅い表情が初めて破顔した瞬間だった。普段笑わないのか口角や目が引きつっていた。
「二十七です」
カルテに記入しながら、オレは淡々とした口調でそう答えた。
「そうなんだぁ」
納得したように彼女は呟いた。
それから半年も経たないうちに、彼女はまた同じ外傷で搬送されてきた。
その後また同じ経緯を辿る。
「先生、結婚してるの?」
彼女の質問にオレはまた、カルテに記入しながら
「はい」と答え
「ふ〜ん……」
彼女は暗くもなく明るくもない反応を示した。
三度目。次があることをオレはどこかで悟っていたのかもしれない。それが何なのか、医者として究明すべきだったのかもしれない。しかし彼女の口からその真意を聞くことを意識的に避けていた。
「先生ってクールだよね」
同じように病室に来て診察するオレに、彼女が言った。オレはそれには構わず、カルテにペンを走らせる。
「でも、顔はかわいい」
それも黙殺する。
「ふふっ、ごめんなさい。怒った?」
オレは表情を崩さず、全く気にかけない素振りでカルテをファイルに挟む。それから回転椅子を滑らせ、彼女の方に向き直り診察が終わったことを告げた。
そして四度目の今。もはやオレには、彼女を本当の意味では救うことができないのだと分かってしまっていた。
オレが彼女の心に触れない限り
その意味を聞かない限り
これは延々と繰り返される――そう察していた。
「先生、何で怒らないの?」
「……」
「何回も自殺未遂みたいなことやってここに運ばれてきて、いい加減呆れてるでしょ? 」
彼女の口調が熱を帯びてきたわけではなかったが、心臓が危機感を覚えて脈拍を上げていく。断崖に追い詰められた推理小説の主人公にでもなったような気分だった。
彼女は円らな瞳でオレの顔を上目遣いに見詰めて言った。
「何で聞かないの、“理由”。……ちゃんと理由があるんだよ?」
「……理由?」
オレは内心で冷汗を流し、尻込みするが
「そっ、理由」
彼女は声を弾ませ、すぐにでも言いたそうにしてきた。もう後に退けなくなってしまった。
「どんな」
そう尋ねると彼女は
「あのねぇ」と言って、はにかんだ。
「やっぱり教えな〜い」
そう言われてオレは少し安堵したが
「先生」
「はい」
「退院してから、またここに来てもいい?」
「は?」
思わずオレは怪訝そうに眉を潜める。
彼女は肩を竦め、叱られている子犬みたいに怖々と伺うような目で言った。
「先生に会いに来ちゃ駄目?」
『会いに来る?』
口から出かけたその疑問をオレは飲み込んだ。そして冷静な態度を示そうとする。
「退院後も何回かは通院していただくことになりますが」
淡々と事務的にそう返答した。
「違う〜!」
すると彼女はじれったそうに顔をくしゃっとさせ、激しく首を振った。
「そうじゃなくて、先生に会いに来たいの」
「……」
オレは表情が固まり言葉を失うが――
彼女は陽気に言った。
「タイプなんだよねぇ、先生みたいな人。顔はかわいいのにクール、みたいな?」
――それが理由か。
オレが彼女を呼び寄せていたというのか?
どうやってこれをやめさせれば良いのだろう。
オレが彼女の命綱を握っているというのか……
医者の自分は、運ばれてきた患者を治療しないわけにはいかない。
怪我人に――病院に来るな、とも言えない。
そして医者であり、既婚者でもあるオレが患者でもなんでもない女性と、わざわざ病院で会うことは不自然だ。
だが、来るなと言ったら彼女は何をするか分からない。
「先生」
問い掛けられ、彼女と目線を合わせた。動揺を隠し切れず、オレは異様な物を見る目で彼女を見てしまった。
「先生、あたし平気だよ。奥さんいても」
そう言った彼女の顔に悪意は見られなかった。しおらしく折れたみたいに、少し媚びるような目をする。欲しいものをねだる時の子供の目だ。
「愛人になったら奥さんにばれないようにするし、しょっちゅう会えなくても我慢する」
何故簡単にそんな言葉を口にする?
この娘は自分が何を言ってるのか分かっているのだろうか。その意味を理解しているのだろうか。これが本当の子供なら簡単だった。子供だから、と受け流すことができる。だが、彼女はもう大人と言ってもいい年齢だ。自殺未遂の経験もある。対応が難しい。
オレが言葉を詰まらせ沈黙している間、彼女も口を閉じていた。その間ずっと伺うような眼差しでオレの顔を見詰め。
「駄目?」
やがて彼女が甘えた声で言った。
このままいけば彼女は妄想に入りそうだ。ストーカーになるかもしれない。
何て言ったらいいんだ……!
オレは苦悩して、眼鏡の下から眉間を指で押さえる。そして決意すると――……
「患者さんとはプライベートで会わないことにしているので」
そう告げ、極力冷静さを装った。事務的なオレの返答に、彼女は反論しなかった。
「では、診察は終わりですので――次の方」
「……」
オレが順番待ちの患者を促した後、彼女は人形のように表情を失っていた。
そしてそのまま静かに椅子から立ち上がり、踵を返して退室していった。
――to be continedo――