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SECRET LOVE  作者: 雨音れいん
SECRET LOVE
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#6.A warning sound

 あれは強姦に近かった。感情に押し流され、当て付けのように寝ている妻を抱いたのだ。そのことを酒の力で全て忘れていたらどんなに楽だったか……

 皮肉にもその行為の断片が記憶に残っていた。二日酔いにこそならなかったが、そのことで苦悩して気分が優れない。

 ふと耳に音が入ってきた。毎朝聞こえてくる音だ。奥のキッチンで妻が朝食の支度をしている。フライパンの上で油が跳ねる音、それをコンロの上で揺する音、食器をテーブルに置いた音。それらに混ざり、空気中を漂ってきたバターや卵の焼ける匂いが鼻をくすぐる。

「あなた、おはよう」

 スリッパのパタパタという音をたてながら、エプロン姿の妻が寝室にやって来た。こうして妻は毎朝、夫のオレをベッドまで起こしに来る。すでに着替えを始めていたオレは、ワイシャツに袖を通しながら

「おはよう」と言った。妻は満面の笑みを浮かべ、ご機嫌そのものだった。昨晩のことを気にしていないのだろうか。新婚の時に戻ったみたいな愛しい眼差しでオレのことを見てくる。子供を産んでからすっかり母親らしい顔立ちになっていた彼女が、今日は何故か一人の“女”になっている。

 どうしてだろう? 困惑するオレに妻は詰め寄り、着替えを手伝い始めた。妙に幸せそうにしている彼女を見て、オレは妙に落ち着かない気分になった。身支度を整えると真っ先に娘の眠るベビーベッドを覗きに行く。まだ眠っているようなので、起こさぬようそっと髪を撫でた。

 愛しの天使ルーシェ、君を見ている時がパパは一番心が安らぐよ。心の中でそう呟く。それから食事をしにリビングに向かった。そこにある四角い木製テーブルの椅子に腰掛け、いつもどおりに食事を始める。

「ねぇ」

 トーストをかじろうとした時、妻が言った。

「ん?」

 オレはトーストを口にせず、握ったまま答える。こちらに背を向けて流し場に立っていた妻が踵を返して振り向いた。

「今日何の日か分かる?」

 笑顔でそう言われドキッとした。オレはその動揺を面に出さないように努める。

 ――何の日だ? 結婚記念日は確かまだのはずだぞ……

 嫌な汗が額に滲んだ。どうしても思い出せなかった。答えを待つ妻の沈黙が怖くなる。だんだん息苦しくなってきた。

 ――何だよ、彼女の誕生日は三月だぞ? 他に何の日がある? ルーシェの誕生日だってまだまだ先だし……

 じゃあいったい何の日なんだ!?

 妻は覗き込むような目でオレを見詰め、促すように首を傾けた。その顔から笑顔が消える瞬間が来やしないかと、オレは冷や冷やしながら身構える。


 泣かないでくれよ……


 彼女は記念日や誕生日の祝い事を大切にしている。オレがそれを忘れていて彼女が怒った事はなかったが、だいたいすぐに泣いてしまう。

 そしてその後が怖かった。愛が冷めたと悲観した後、彼女は静かな詮索を始める。

 それは必ずしも身辺調査からとは限らず、オレの反応を見て判断することもあった。そんな時彼女は決まってこう言う。


「私に何か隠し事してない? そういう時のあなたって、いつも“同じ癖”が出るのよね」


 オレは狼狽するだけだ。


「どんな癖だよ」

 と尋ねても教えてはくれない。彼女にとってそれは秘密兵器か極秘事項らしい。

 今のオレに隠し事があるとすれば“あの事”しかない。それは決して知られてはならない秘密だ。


 決して誰にも……


 自分では知らないその癖とやらが出ないように、オレは極力同じ表情を保ち、動作はマグカップの上げ下げとトーストを口に運ぶことだけに専念する。そして何気ないタイミングで切り出した。


「ワインでも買って帰るか?」


 ばれないようにそう言ってみると

「え?」

 妻は驚いたように目を広げ、失笑した。オレには彼女がそうした理由が全く分からなかった。思わず困惑の色を瞳に出してしまいそうになる。

 数秒の間を置いて、妻は言った。

「とにかく今日はまっすぐ家に帰ってきて。腕によりを掛けて待ってるから」

 飛び跳ねるような明るい声と笑顔だった。

 ――大丈夫だ、彼女は何も気付いてない。それにまだ……

 何も起こっちゃいないんだ。

 オレは安堵の気持ちを微笑に替え

「分かった」と相槌を打った。 

「必ずよ」

「ああ、必ず」

 妻の声を背にそう返し、オレは玄関の扉を開けた。






 予約の患者の診察を済ませ、午前の仕事を終えた。

 ジョゼには会っていなかった。

 この前紹介された時、手術の担当を替わったと言っていた。毎日この病院に来るわけではないのかもしれない。時計を見ると正午過ぎだった。丁度、休憩に入る時間帯だろう。白衣のポケットに入れた携帯電話に、自然と手が伸ていた。ポケットに手を忍ばせたまま、裏手に続く廊下を通って屋外に出る。すぐ脇には花が咲いていない花壇があり、その反対側には焼却炉があった。そこはほとんど人が来ない場所だった。さっそくオレはポケットの中から携帯電話を取り出して操作した。

「もしもし……」

 掛けた先はジョゼの携帯電話だった。話を聞いてみるとやはり、ジョゼは毎日来るわけではないらしかった。だがその日また会う約束をした。昨晩のようにとはいかなかったが、短い時間でも会って顔を見れることが嬉しかった。終業時間が待ち遠しい。高揚感に包まれながらオレは屋内に戻った。



 廊下を行く途中、救急車の鳴らすサイレンの音が耳に届いた。何度聞いても馴染めない嫌な音だ。そうやって急を要しているわけだが、不吉な予感をさせるこの音には嫌悪してしまう。

 救急車のストレッチャーから病院のストレッチャーに乗せ換えられた患者が運ばれて来る。オレは途中の角に延びた廊下に佇んで、その様子を眺めていた。

 数メートル先の廊下を忙しないスピードでそれが通過する。その瞬間患者の顔が視界を掠めた。

 オレは怪訝そうに眉を潜めた後、深い溜め息とともにがっくりと肩を落とす。そしてかぶりを振ると、独語した。


「どうかしてる……」



                                          ――to be contined――

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