#3.A real thing
翌日は朝から雨だった。
「ルーシェ。パパ、お仕事に行ってくるからね〜」
オレはベビーベッドで眠る愛しの天使にキスをした後、妻にも自分からキスをした。
すると何故か妻は驚いたような顔をした。
「どうしたの?」
どうしたの……?
オレは眉を潜めて彼女を見据えた。
「何だよ。オレからしちゃいけないのか?」
不満げにそう言うと、妻は唖然としたようにオレの顔を見詰めていた。
「何?」
困惑してオレは問いかける。彼女の視線が怖かった。何かの探知器のように、一直線にオレの顔を見続けている。ロボットみたいなその視線に怯え、オレは避けるように顔を背けた。
「……行ってくる」
そう言い捨てて家を出る。玄関の扉が閉まった後、悪寒がした。オレは頭を振って邪念を振り払おうとする。
深い溜め息が漏れた。しとしとと降る霧雨に近い雨が、頭や身体を冷やす。オレはナイロンジャケットをかさかさいわせながら、家から延びる石畳の通路をバイクガレージに向かって歩いていった。襟の隙間を寒気の舌が撫で、身震いしながらファスナーを上まで閉める。真冬の空の下でシャツ一枚にされたみたいに酷い寒気がざらざらの舌で背中を撫でていたが、それが精神的な影響が引き起こした症状であるということを自覚していた。
何故オレは、こんなに動揺してるんだ?
気が付くと心臓が異常なくらい躍動していた。やましいことなど何もないはずなのに――さっきオレは、妻の視線に心の中を覗かれるのが怖かった。
「っ……!」
言葉にすらできない苛立ちに切歯扼腕し、オレは地面を思い切り蹴った。
気紛れな雨は職場に着くと止んでいた。ヘルメットを脱ぐと雨に濡れた髪が顔に張り付き、オレは不快に顔を歪ませた。トイレに入って鏡を覗き混むと、持ち前の金髪がじめっと湿りけを帯び、みすぼらしくなっていた。短めなのですぐに乾くだろうが、セットした前髪は垂れ下がり、同時に気分まで萎えてしまった。
また、医者の卵に見られる……
「ああ、アボット先生」
移動中に事務の男性に呼び止られ、オレは足を止めた。
「カーター先生の代わりに203号室の患者さんの手術を担当していただくことになった……」
紹介されたのは紛れもない、昨日見た幻だった。すらりとした長身。美の黄金比を満たしたような美しい目鼻立ち。学生時代とは違い、ココアに似た風合いの柔らかな髪にはボディパーマをかけ、後ろに流している。さらには眼鏡をかけたその佇まいが、利発そうな紳士を思わせた。その黒縁で縦幅の狭いデザインの眼鏡は、瞳を隔てる窓となっていたが、その美しさは隠れきってはいなかった。四角いフレームの中で、横に流れるような輪郭の瞳が――
懐かしい青がそこに見えた。
澄み切った蒼穹を澱みのない水面に移したような青……
昔から彼の容姿は大人びて見えたが、今は本物の“大人”と言えた。表情にあどけさなさはなく、凛とした怜悧なものに変わっていた。
卒業してから七年が経つ。オレは結婚して妻子持ちになった。彼だってその間に生活に何か変化が起きただろう。恋をしたり……
それらの変化が容姿にも現れているのかもしれない。いつまでも無邪気な少年ではいられないのだ。
ただオレの中に残る彼の記憶が古いだけだ。
久しぶりに見た彼の変化に驚いて、自分が付いていけないだけだ。
オレだって自分では外見が変わっていないと思っていても、他人から見れば違って見えるのかも知れない。
オレは握手の手を差し伸べた。
もうあの笑顔は過去に消えた
あんな風に彼は笑わない――……
そう思っていた。
「ダリル?」
そこへ、ふいに懐かしい声が蘇った。あの頃何度も自分を呼んだその声と、破顔して姿を現した人懐こい笑顔が、目の前に復元されていた。その一瞬で気持ちだけが、学生時代にタイムスリップする。
「ジョゼ……」
その声が掠れそうになった。オレの感覚はおかしくなっていた。その時、彼を抱きしめたくて仕方がなくなる。誰も見ていなかったらキスしていたかもしれない。オレは理性と欲望の狭間を彷徨い続けた。
「顔見知りかい?」
「……ええ」
横にいた事務の男性にそのふしだらな思考を悟られぬように平常心を装い、オレはかろうじてそう答える。するとその男性も破顔して、すっかり場が和んだ。
そんな傍らで、オレの視線と意識は懐かしい友人に熱く注がれていた。
――to be continued――