#2.Phantom
玄関を出るとオレは軽く肩を竦めた。冷気がそこら中に満ちている。この頃空気がだいぶ冷たくなってきた。世間では異常気象だと騒がれているが、こうして当たり前のように季節は変わる。もうすぐ冬の到来だ。この土地特有の厳しい寒さがまたやって来る。
そろそろ車が欲しいなぁ。
敷地の一角にあるバイクガレージに停めた原付バイクは、学生時代から愛用している物だった。子供が生まれてから買い出しが増え、それだと少し不便だった。そして台風や積雪など、天候によってはかなり苦難を強いられる。
妻に相談してみるか。
オレはヘルメットを被り、愛用の原付バイクで職場に向かった。
白衣に着替えて仕事が始まる。オレの職業は市内に佇む総合病院の外科医だ。大学を卒業してから研修期間を含めて今年で七年目に入り、現在はこの病院の形成外科医として働いている。しかしオレは少し童顔なため、しばし患者に医者のたまごと間違えられる。それからだて眼鏡をかけるようになったのだが、そのうち本当に視力も落ちてきて、今では度入りになっていた。
午前の診察が始まり女性が入室してきた。彼女はまだ十九歳だったが、年齢より老け込んで見える。それでも初診の時よりだいぶ生気が戻ってはいたが。
「先生見て、こんなにきれいに直ってきたの! これなら跡が残らないかもしれない」
袖をたくし上げ、その腕を見せながら彼女は目を輝かせた。オレは四角い銀縁眼鏡のレンズ越しにその腕を眺めた後、顔を上げて彼女を見やる。
彼女はこんなにも明るく話せる娘だったのだ。それなのに“リストカット”という行為に手を染め、手の付け根から腕の中腹部にかけて切り裂いていた。死んでしまうかもしれないという恐怖はなかったという。ただ楽しくて、一歩一歩階段を登るがごとくその傷跡を刻み、増えればそれは勲章みたいなものになっていた。友人に痛々しい目を向けられることに快感を覚え、いつしか傷付け始めた理由すら分からなくなり、その行為に溺れていった。
そんな彼女はそうなってしまった自分を哀れんではいなかった。腕の傷が治癒するとともに心の傷跡もどこかへ姿を消してしまったのだろうか。診察に訪れる度に明るくなっていく。
しかしそれは危険だとも言えた。彼女は――命の尊さを分かっていないのだから……
胸中では皮肉を言いつつ、オレは彼女の患部をもう一度眺めた。前回までの横に伸びていた傷の細いカサブタも既に取れている。縫合したのは一ヵ所のみで、それも抜糸の跡は薄かった。
「美容整形用の極細の糸を使ったから、あと数年後には縫い傷もほとんど見えなくなると思いますよ」
「本当〜? 良かったぁ……」
ますます彼女の笑顔は肥大した。
彼女は考えたことがあるのだろうか。自分の身を傷付けたことで、そうさせてしまったことを嘆く人がいるということを。
それを見て胸の奥底に潜む、過去の悲劇を想起して悲観に暮れる人がいるということを……
目の前の男が滲ませる非難の眼差しを――この娘は察することはないのだろうか。
形式通りの診察を済ませ、次の患者が入ってきた。
仕事が一段落して、オレはエレベーターで三階に上がった。するとエレベーター乗り場を出て右側にある廊下を新米医師を数名引き連れた医師が歩いてくるのが視野に入った。ベテラン医師の中年男性に追随する新米達、その姿はカルガモの親子みたいだった。昔の自分と重ね、微笑ましく思いながらそれを眺めていると
「!?」
息が止まりかけた。
まどろみの中にいる自分の視界と錯覚する。一瞬にして周囲の景色や音を感じなくなり、ある一点に五感が集中した。まるでこの院内にその“人物”と自分しかいなくなったみたいに、それしか感じられなくなっていた。頭の中が真っ白になり、身動きはおろか瞬きすらできなくなっていた。その人物が去るのを見届けるまで呆然と立ち尽くす。
まさかな……そんなわけない。
“あいつ”がこんな田舎の病院に来るはずが……
世間は意外とせまかったなんてことがあるのは知っている。
この偶然が奇跡でもなんでもなく、どちらかと言えばありがちな、そんな小さな偶然だということも分かっていた。
だが、これはまるで仕組まれたみたいだ。ついさっきリストカットの患者を診察してから、あの日の彼のことを想起したばかりだぞ。こんな偶然はない。絶対、不自然だ。
オレは苦々しげに頭を振り、その可能性を否定した。そして踵を返し、苦笑しながら廊下を歩いて行った。
――to be contined――